山田 和 利。 山田和利プロフィール

株式会社山田利

山田 和 利

読み:わたりしづこ、 Watari, Shizuko 現代美術をはじめ多彩な展覧会活動をつづけているワタリウム美術館長のは、12月1日心不全のため死去した。 享年80。 1932 昭和7 年9月23日、現在の富山県小矢部市に生まれる。 服飾デザインの仕事を経て、自宅を改装して72年12月、ギャラリーワタリ 現、渋谷区神宮前 を開く。 以後、88年10月まで、国内外のアーティストの個展を開催。 とりわけ、ドナルド・ジャッド 1978年2月 、ナム・ジュン・パイク 同年5月 、ソル・ルウィット 1980年3月 、ロバート・ラウシェンバーグ 1981年1月 、アンディ・ウォーホル 1982年3月 、ヨーゼフ・ボイス 1984年5月、同展はナム・ジュン・パイクとの二人展 、ジョナサン・ボロフスキー 1986年9月 等、70年代から80年代の欧米の先端的なアーティストを日本に招聘しながら積極的に、また先駆的に紹介した。 そうした海外のアーティスト達との交友の一端については、『アイ ラブ アート 現代美術の旗手12人』 日本放送出版協会、1989年 のなかで記されている。 なかでも、ビデオ・アートの先駆者であったナム・ジュン・パイク 1932-2006 とは、パイクの生涯にわたり個人的にも深く交友し、現代美術から思想、哲学にわたり語り合うことがあったという。 1990 平成2 年5月、同画廊の敷地にワタリウム美術館が竣工 設計は、スイス人建築家マリオ・ボッタ。 以後、ここを拠点に活動をつづけ、現代美術ばかりでなく、建築家、詩人、写真家等の多彩な人物をとりあげて展覧会を開催した。 美術館建設にあたっての経緯や、その後の活動については、和多利恵津子、浩一共著『夢見る美術館計画 ワタリウム美術館の仕事術』 日東書院、2012年 で詳細につづられている。 画廊経営から私設美術館の運営にわたる和多利の一貫した姿勢は、アーティスト等注目した人物その人に直接会って交渉し、話し合いを通じて理解を深めることから始めている点に特色がある。 その姿勢は、日本文化への関心から歴史上の人物をとりあげる際にも発揮され、研究者等の助力を得ながらも、長年にわたって独自に調査を重ねながらその人物への理解と共感を深めることで展覧会を開催している。 そうしてとりあげたなかには、岡倉天心 「岡倉天心展 日本文化と世界戦略」、2005年2月-6月 、南方熊楠 「クマグスの森 南方熊楠の見た夢」、会期:2007年10月-08年2月 、 「展 アルプス建築から桂離宮へ」、会期:2007年2月-5月 等がある。 特に岡倉天心については、研究者ばかりではなく、他分野の専門家を招いて独自に研究会を10年間にわたり主宰して準備にあたった。 この岡倉天心展にあわせて、同美術館監修により『岡倉天心 日本文化と世界戦略』 平凡社、2005年 が刊行されたが、同書の「あとがき」の冒頭で「もし、今も生きているならば、私は、きっと岡倉天心に恋している、そんな架空な夢をみています」と率直に記していることからも、その人物像を、従来の学術研究とはことなった情熱的な視点から独自に形づくろうとした。 既成の評価にこだわることなく、つねに新しいアートとアーティストをはじめとするクリエイティヴな人間に関心を抱きつづけ、自らの美術館という場で紹介したことは評価される。 没後の13年1月23日に同美術館でお別れ会「夢みる 」が開かれ、交友のあった各界から多数の参加者があった。 なお同書には、国内外の交友のあったアーティストをはじめとする多数の追悼文の他に、ギャラリーワタリ並びにワタリウム美術館の展覧会記録が収録されている。

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正会員【や行】

山田 和 利

来歴・人物 [ ] から、のでから4位指名を受け入団。 レギュラーには定着できなかったものの1988年にはユーティリティプレイヤーとして82試合に出場した。 、とのトレードでと共にに移籍。 、シーズン後半に代わり二塁手のスタメンを務めて以降は一軍半の控え選手であったが、に故障のに代わりファーストの定位置を獲得するなど、チームの2位躍進に貢献した。 に中日でが監督に復帰すると、とのトレードで再び音重鎮とともに中日に復帰したが、故障によりその年限りで引退した。 引退後はコーチに就任し、は二軍打撃コーチ、は一軍内野守備・走塁コーチ、~は一軍打撃コーチ、~は二軍内野守備・走塁コーチ、は二軍野手総合チーフコーチを務め、からはフロント入り。 は広島の二軍守備・走塁コーチを務め 、からは球団編成を担当していたが、からは再び広島の二軍守備・走塁コーチを務めることになった。 4年ぶりの現場復帰。 妻との間に一男一女がおり、俳優のは長男にあたる。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0. 000. 000. 000. 000 12 22 21 1 5 0 0 0 5 2 1 0 0 0 0 0 1 4 0. 238. 273. 238. 511 82 177 153 28 41 5 4 2 60 7 10 8 14 0 9 0 1 33 0. 268. 313. 392. 705 29 51 40 3 8 1 0 0 9 3 1 2 5 0 6 1 0 13 0. 200. 304. 225. 529 6 10 10 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 2 0. 200. 200. 200. 400 93 335 266 44 75 10 0 8 109 29 6 2 20 2 42 1 5 60 1. 282. 387. 410. 797 49 87 70 11 14 2 0 0 16 7 1 0 6 1 10 1 0 18 2. 200. 296. 229. 525 94 343 304 31 82 15 1 12 135 53 2 5 7 1 26 0 5 67 7. 270. 336. 444. 780 :8年 366 1026 865 119 227 33 5 22 336 102 21 17 52 4 93 3 12 197 10. 262. 341. 388. 729 記録 [ ]• 初出場:1986年5月25日、対7回戦()、5回裏にの代打として出場• 初先発出場:1987年10月6日、対24回戦()、8番・として先発出場• 初安打:同上、4回表にから• 初盗塁:同上、4回表に二盗(投手:猪俣隆、捕手:)• 初打点:1987年10月7日、対阪神タイガース25回戦()、2回表にから2点適時打• 初本塁打:1988年6月18日、対読売ジャイアンツ12回戦(ナゴヤ球場)、7回裏にの代打として出場、からソロ 背番号 [ ]• 33 (1984年 - 1985年)• 30 (1986年 - 1989年)• 16 (1990年)• 25 (1991年 - 1995年)• 7 (1996年)• 95 (1997年 - 2003年)• 85 (2004年)• 81 (2011年)• 80 (2015年 - ) 脚注 [ ].

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山田和利

山田 和 利

各藩が皆財政難を起こしてきた江戸の末期、所謂重農主義から重商主義へと移って行くという中で、米を中心とするような経済体制が長持ちするはずはありませんでした。 そして貨幣経済が浸透の度を深めて行く中で、当然商人が力を持つようになって行くわけですが、歴史上有名な人物の中でこの世界の到来をある意味はっきりと認識していたのは、認識の程度に差はありますが私が知る限り恐らく平清盛、織田信長、豊臣秀長の三人だけかと思います。 家康の代でその基礎が築かれた「徳川三百年」、実質的に二百六十数年存続の鍵というのは、そうした重商主義的側面を理解して取り入れ、幕府財政の健全性を維持して行くということでしたが、家康を始めそれ以後の将軍においても未だ十分に上記世界の到来を認識してもいないし、正しい改革を行った者もいなかったと言って良いでしょう。 しかし、国政ではなく藩政の大改革を実現した人物として、ケネディ大統領も尊敬した米沢藩主の上杉鷹山公、及び備中松山藩を見事立て直した儒者・山田方谷、並びに託された財政再建等を全て成功裏に成し遂げた翁、の三人が特筆に値すると思います。 ひと月ほど前「」ということが報じられ、「三八を置かバ他ニ人なかるべし」と新政府の財政担当者に三岡八郎(後の名は由利公正)を推す龍馬のに関して、彼が有していたとされる経済的側面を評する声が多く見られました。 ただ私に言わせれば、龍馬が誰を推薦したから如何かといった類の話でなく、やはり上記した人達のように経済改革を完遂したという史実の上でその評価は語られるべきだと思います。 例えば、という人は安岡正篤先生なども幕末陽明学の大家の中では春日潜庵先生と並んで最も尊敬出来る人物だと述べておりますが、彼は「幕末期に、今の金額に換算すると百億円にものぼる借財を抱えた備中松山藩の財政改革を遂行し(中略)八年後には、逆に百億円の蓄財を持つ裕福な藩に変貌」させた偉人であります。 方谷32歳の時に書した論文『理財論』というのは、「利の元は義なり」や「利を見ては義を思う」あるいは「義を明らかにして利を計らず」、といった儒教的な考え方を中心に据えて書かれたものです。 その中で一番大事なポイントを挙げるとすれば、それは正に「それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて事の内に屈せず。 而るにいまの理財者は悉く財の内に屈す・・・・・だいたい、天下のことを上手に処理する人というのは、事の外に立っていて、事の内に屈しないものです。 ところが、今日の理財の担当者は、ことごとく財の内に屈してしまっています」ということです。 要は、財の内に屈した役人は「やれ税金を上げねばならない」「やれ歳出削減が必要だ」といった形で細々と理財に関する部分だけを訴え、ちっぽけな財政だけに振り回されるのです。 2年前のブログ『』でも詳述したように、真に天下を動かす者は「事の外」にいて一切のものから束縛を受けることなく、「財の内に屈す」ることのない自由を持って超越している存在であり、これ即ち真に経済を良くする者は決して金の奴隷になり、金に捉われ、経済に負けているのではないのです。 今、1018兆円もの借金を抱える日本という国を再建するのは、「一事に係らわって全般を見落とす」ことなく「全般を見通す識見を持って大局的立場」から大改革を断行した、山田方谷のような人しかいないのです。

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