古賀 政男 古関 裕 而。 朝ドラ『エール』キャストのモデル一覧総まとめ!実在の古関裕而・金子夫婦には息子がいる

専属作曲家・古関裕而のご紹介

古賀 政男 古関 裕 而

藤山一郎と古賀政男そして森進一 2004 年 3 月 30 日 宇佐美 保 (文中、敬称は略させて頂きます) 古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の歌唱によって私達の貴重な財産となっています。 しかし、国民栄誉賞を受賞されたこの二人の関係が何処かギクシャクしているように、私は、常々(二人の生存中)感じていました。 「藤山さん、古賀政男・服部良一・古関祐而この 3 人の作曲家のうち、誰が一番好きですか?」 無謀とも思えるこの質問に対する 藤山一郎さんの第一声は「 作曲家?作曲家というのはコンポーザーだろ。 和声の基礎をふまえ、オーケストレーションまで含めた曲づくりをするのがコンポーザー。 古賀さんは メロディ・メーカーであって、 コンポーザーじゃないぞ。 」このあとはややこしい話になったので割愛させていただく。 …… なにしろ、 藤山一郎は東京音楽学校(現芸大)で、いわゆる 正規の音楽教育を受け、そこで獲得した発声法を誇りにしていたのですから。 一方、 古賀政男は 明治大学在学中にマンドリン倶楽部創設に力を注ぎ、在学中に『影を慕いて』を作曲したとはいえ、 いわゆる 正規の音楽教育を受けて居ないのです。 私は、この日本に於ける「正規の教育(学歴)偏重主義」の風潮を苦々しく思い続けております。 長年、半導体分野でのエンジニアに従事していた私の体験からは、学歴と仕事に対する能力との相関関係を認めることは出来ませんでした。 最近では、学歴偏重主義はだんだんその影響力を弱めてきてはいますが、藤山一郎の登場時には、流行歌の世界での「 東京音楽学校(現芸大) 」の御威光は、水戸黄門の印籠以上の効果であったのかもしれませんが? 確かに、藤山一郎のクルーン唱法は立派です。 ご参考の為に、このクルーン唱法に関して少し記述致します。 クローン唱法とは一般的には、 1931年以降、ソロ歌手として,ラジオ放送とレコードで不況時代のアメリカ人の心を掴み、42年に録音した《ホワイト・クリスマス》は世界で最大の売上げ枚数を記録したアメリカのポピュラー音楽の歴史に最大の足跡を残した ビング・クロスビー( BING CROSBY)に代表される唱法と云われています。 そして、藤山一郎の学んだ音楽学校の世界では、メッツァボーチェ( Mezza voce)と云われる唱法となるのでしょう。 この唱法の素晴らしい例は、デル・モナコ先生の前の世代の大テノール歌手ベニアミーノ・ジーリの歌唱に聞くことが出来ます。 私は、古いレコード(ベスト・オブ・ジーリ:東芝 AB-8083)を持っています。 更に、より一般的な話し声に例をとれば、森本レオの声に聞かれると思います。 そして、このクルーン唱法は、喉には絶対力を入れません。 (力が入った途端に破綻を来します。 ) 従って、長時間、聞いていても聞き手が疲れることはありません。 そして、又、藤山一郎同様に、いわゆるクラッシックの発声を学んだ流行歌手として東海林太郎の名を忘れることは出来ないでしょう。 そして、又、東海林太郎も又クルーン唱法で歌っています。 「 クルーン唱法は、喉には絶対力を入れません 」と申しましても、下腹の力は絶対に必要です。 (一聴するとヒョロヒョウロ声の森本レオでも、テレビのワイド・ショーなどの情報から察しますと、公私にわたり下腹には充分力が入っているようです。 だいたい、今の人は「チェスト・プレス(胸式呼吸)」で歌ってますね、だから声が固い、地声ですわ。 …… あの「アーアーツ」って、はじめから声をふるわしたりして。 あれでは動物園のライオンの檻の中におった方がもっといい声が聞けるな。 「オーツ」と吠えてね。 やたらバイブレーションをとってくる歌手も出て来ましたね。 だいたいわたしはああいう歌は聞かない。 変なことをいうようだが頭が悪くなるから。 …… (私は、バイブレーション云々などよりも、歌詞に描かれている世界がせせこましく、スケールが小さいのが不満です。 ) そして、更には次の記述があります。 ポリドールの専属になったのが、昭和八年の十二月二十八日。 その日に「これはあんたが正月八日にやる吹き込み初めの曲だ」と渡されたのが、『赤城の子守歌』でした。 ……楽譜を頂いて帰ろうとすると、辻順治先生、奥田良ちゃんの岳父で、吹き込みをする人が、 「ちょっと、ションツァン、これは男の泣く歌だと思うがな、泣き方にもいろいろあるからね」って変なことを言うんです。 秋田の訛りでね。 だから帰ってから、正月休み中その泣き方の研究をした。 その当時、先輩からは、マイクロフォンの前でささやくように静かに歌うと、泣くように聞えると教えられてたんだ。 ところがこれじゃ男の泣き方が出ないのです。 そこでわたしは、マイクから三尺も離れて、まさに絶叫したんだ。 これでないと男泣きの感じは出ない。 …… 残念ながら、私はこの東海林太郎が「 オペラなどを吹き込んだ …… 歌い方」という『赤城の子守歌』の SP はもとより、その復刻版も持っていません。 (只、後年吹き込まれた CD でこの曲を聴きますと、「 オペラなどを吹き込んだ …… 歌い方」という感じは受けません。 ) でも、不思議ですよね。 東海林太郎(藤山一郎も)『赤城の子守歌』だけでなく、他の曲も「 オペラなどを吹き込んだ …… 歌い方」で吹き込んで欲しかったものです。 ジーリだって誰だってオペラ歌手は、殊更「 メッツァボーチェ 」を特別扱いしてはいません、必要と感じた際に、その唱法で自然に歌っているだけです。 なのに、東海林太郎も藤山一郎も彼等が正規に学んだというクラシックの唱法で、何故流行歌を歌わなかったのでしょうか? 失礼ながら、お二方とも彼等のいわゆるクラシック唱法が不完全だったからだと思います。 でも、私は、お二方ともイタリア人が云う「怠け者のテノール」だと思います。 (藤山一郎は、「キャンプ小唄」「東京ラプソディ」「丘を越えて」などテノールそのものの感じで、実に軽快に歌っています。 しかし、曲によって、低い音では時折汚い声が耳障りになります。 ) イタリアのテノールは必ず 5 線の(ファとかソの音の上からの)上の音は、それ以下の音と違ってアクート( acuto )という発声方法に自然に切り替わるのです。 この アクートをお二方がマスターしていたら、立派な テノールの歌声を残していたのではないでしょうか? でも、このお二方はこのアクートが出来なかったのでしょう。 なにしろ、お二方がイタリア的発声をマスターしていたら、クルーン唱法( メッツァボーチェ )といわゆる地声部分とはスムーズに繋がります。 (私は、ビング・クロスビーの LPレコード(VOLUME3 DL 6010)を持っていますが、クロスビーは低音部を綺麗な地声で歌い、高音部をクルーン唱法で歌ったりしています。 ) でも、藤山一郎には(私の持っている CD 「SP盤復刻による懐かしのメロディ 藤山一郎 影を慕いて」を聞く限り)この様な変化に富む歌を聞くことは出来ません。 高齢となった東海林太郎の録音した CD(昭和を飾った名歌手達8 東海林太郎)は、クルーン唱法部分は流石!と思うのですが、低音部は、とても汚いガナリ声的な地声で歌っています。 (ですから、耳障りで、聞いていると大変疲れます。 ) 悲しいことに、未だに日本の声楽界(?)は、この状態を引きずっているようです。 2003 年 8 月 23 日の朝日新聞には、「ベルサイユのばら」等で有名な 劇画家・声楽家池田理代子さん( 95 年、東京音大声楽科に入学)は、次のように述べています。 20 年ぐらい前、子どもたちの音楽の教科書から、美しい日本語の歌が消えているという新聞記事を読んで、それなら、そういう歌を私が歌えば、漫画を読んでくれている子どもたちが聞いてくれるかなあと思ったの。 それから正式に習い始めて、とうとう、 47 歳で音大に入ることになってしまった。 先月、やっと古き良き日本の唱歌や童謡の CD を出しました。 でもまだまだ日本語の歌は難しい。 西洋式の発声方法 と、 日本語という言語はあっていないからですね。 それに、 唱歌はソプラノの音域よりずっと低いでしょう。 可笑しいですよね。 私達、理工学部を出ただけの人間が科学者だとか、エンジニアだとかは名乗れません。 しかし、音楽大学出ると、声楽家という肩書きが付いてしまう用です。 それに、藤山一郎も、その共演者の双葉あき子、奈良光枝、安藤まり子も綺麗な日本語で歌っているというのに! 可笑しいですよね! (私は、流行歌のデモ CD を録音する時 (《》等を御参照下さい)には、カラオケの伴奏をわざわざテノールの音域に音を上げています。 そして、自然に話すように歌えるように自分の声を鍛えています。 ) 古賀政男は、自分に対して、以下のの見解(前掲しました)を持つ藤山一郎に自分の歌を託したくないと思っていたはずです。 「 作曲家?作曲家というのはコンポーザーだろ。 和声の基礎をふまえ、オーケストレーションまで含めた曲づくりをするのがコンポーザー。 古賀さんは メロディ・メーカーであって、 コンポーザーじゃないぞ。 」 私は、古賀政男の歌を歌う時に、和声がどうの、オーケストレーションがどうの等考えたことはありません。 メロディを愛しているのです。 誰にも書けないメロディを書く事だけで偉大な作曲家ではありませんか! 私は、イタリアの作曲家ベッリーニ( 1801 〜 35 )の魅惑的なメロディに溢れたオペラが大好きです。 和声だのオーケストレーションだの大家でもあったベートーヴェンも彼のメロディに憧れていたと、何かの本で読んだ記憶もあります。 和声だのオーケストレーションだのは、音大を出れば誰でも一通りはこなせるのではありませんか!? 余談でありますが、今は亡き世界的な指揮者で、又、ミュージカル『ウェストサイド・ストリート』等の作曲家、レナード・バーンステインの次の言葉を思い出すのです。 作曲していて困るのは、何か良いメロディが浮かんだと思うと、それは過去の作曲家の作品であることが多いことだ。 更には、文末の(補足:2 : 2004. 古賀政男の方こそが、藤山一郎に対して、次のような不満をかかえていた筈です。 これは本人が今までにあちこちで語り、書いて来たように「 プロは正式に声楽を習い、明瞭に行儀よく自然に歌うべきだ」という信念にもとづいて歌って来た…… 確かに私の手持ちの CD からは、藤山一郎の信念通りの歌を聞くことが出来ます。 そして、私の気持ちを和ましてくれます。 しかし、 彼が描き出してくれる歌の世界に関しては、欲求不満に陥ります。 更には、「 SP 原盤再録による東海林太郎ヒット・アルバム」も然りです。 でも、私の好きな CD は、「古賀メロディーを唄う 森進一」です。 森進一の話し声は、喉がつぶれてしまって声になっていません。 でも、このつぶれた喉から声を出す工夫の過程で、彼独自のクルーン唱法を獲得して見事な歌声を聞かせてくれるのです。 先に掲げた本の中で、東海林太郎は次のようにも語っています。 これはいつも思うことなんだけど、 歌の深さと愛情の深さにはきりがありませんね。 歌って「これが最高だ」なんて、うぬぼれちゃいかん。 歌は途方もなく深く広い世界をもっていて人間の成長につれて、肥っていくものだ。 美声が衰えても、内容が変ってくる。 別にわたしの弁解をするんじゃありませんがね。 前掲の老齢となって吹き込んだと思われる東海林太郎の CD からは、この東海林太郎の言葉を実感することは出来ません。 それよりも森進一の歌に東海林太郎の言葉を感じます。 何年も前、古賀政男の「人生の並木道」を森進一が吹き込んでいる模様を、テレビが紹介されていました。 (残念ながら、記憶力が薄れ細かい点を忘れてしまいました。 ) 吹き込み後、森進一の歌に感激した古賀政男は(森進一も 、そして、テレビを見ていた私も) 涙していました。 古賀政男は、(その最晩年に)森進一という歌手に出会えて、最高の幸せを獲得したのではないでしょうか!? 私は、森進一の歌にマリア・カラスを感じます。 私の手持ちのレーザー・ディスク『マリア・カラス伝説の東京コンサート』の解説書に、輪嶋東太郎氏による次の記述があります。 彼女と多くの舞台を共にしたあるバス歌手は「耳障りな声質だった。 でも彼女が歌い出して 1 分もするとカラスの声は聴こえなくなり、その代わりに聴こえてきたのは天の声だった。 一緒に舞台にいると涙が止まらなくて困ったものだったよ」と回顧していた。 汚い声が、天の声になり得たのはなぜであろう。 演奏家としての彼女の生涯を貫いたのは作曲家に対する絶対的奉仕であったといわれる。 彼女は作曲家について「 作曲家は天才です。 私たちは彼らに仕える下僕でしかないのです」と語ると同時に、「私たち歌手は曲全体の中で作曲家の筆が鈍った個所がないかを注意深く見守り、もしそれを発見したときには、どのようにその個所をカバーしてその作曲家が実際に聴衆に伝えたかったと思われるものを適切に表現できるかを考えなければいけない」とも述べている。 彼女にとってどんなに耳に美しく響く音でもそれ自体には何の意味も持たなかった。 ( EMI プロデューサー ミシェル・グロツツ談)」という。 …… 厳しい美意識を持ったカラスにとって美しい声、美しい音楽とはそういうものだったのである。 彼女の最大関心事は、自分をどう見せるかというよりも作曲家がそれを望むかどうかであったのだ。 演奏家としては一見当たり前のことのように思われるこのことを、カラスほど誠心誠意実践し尽くした人が、一体どれだけいるだろう。 彼女にとっては、作曲家は絶対的な神であり、心から愛する恋人のような存在であったに違いない。 そして彼女は自分自身のことよりも常にその恋人の想いを優先させ、決してその人を裏切ろうとはしなかった。 私は、この様なマリア・カラスの態度、そして森進一の態度が大好きです。 更に、付け加えさせて頂くなら(皆様は不遜と感じられましょうが)、古賀政男がもっと長生きされて、私に出あえたら、お互いにもっともっと幸せだったろうなあと、思っているのです。 私は、そう思っていただけるようにこれまで努力してきましたし、今も努力を続けています。 (《》に於ける「日本の歌」を御参照下さい) (補足: 1 ) この件はあくまでも、私が古賀政男の立場だとしたらの話です。 どんな曲でも歌いこなせる声を持っていた美空ひばりを古賀政男はどう評価していたのでしょうか? 多分それ程評価されてはいなかったと思います。 その理由は、『悲しい酒』に在ります。 確かに、一度埋もれてしまっていたこの曲を世に名曲として認知させた功績はあります。 しかし、 美空ひばりは、この曲の 1 番と 2 番との間の間奏が長すぎると云って 、その間に美空ひばりが口にする 台詞を作詞家に要求したとのことです。 古賀政男としたら、曲の中に自分の思いを全て注ぎ込んでいたはずです。 (若し、台詞が必要だと彼が思っていたら最初から彼自身が挿入していたでしょう。 ) 先ほど引用させて頂いた作曲家に対する、マリア・カラスの思いと美空ひばりの行動は、全く正反対です。 森進一の CD にある『悲しい酒』には、美空ひばりが依頼した台詞は挿入されていません。 そして、その台詞がない方がすっきりしています。 (但し、台詞の言葉が、女言葉である関係もありましょうが。 ) (補足:2 : 2004. 彼は一七八六年のモーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》の初演に際してバジーリオの役を歌ったが、モーツァルトを心から尊敬していて、その家に入り浸って遊びのパートナーを務めていた。 …… その彼が対位法の勉強について、モーツァルトとの間に次のような会話を交わしたことが彼の『回想録』の中に語られている。 私はいくつかの小型のアリアを試作して彼(モーツァルト)に見せたところ、彼は喜んで賞めてくれた。 そこで私はいよいよ対位法の勉強に乗り出すことにした。 すると彼は言った。 「きみがぼくの忠告を求めるのなら、はっきり言わせてもらうけれど……もしきみがナーポリに行って作曲を習うとすれば、そしてほかのことに目もくれないとすれば、たぶん、きみはうまくやっていけるだろう。 しかし、きみの関心があるのは舞台の仕事だろう。 とすれば(対位法のような)無味乾燥な勉強を始めるのは賢明な方策とはいえない。 信じてもらいたいが、 きみは メロディーを書く天分に恵まれている。 だから( 対位法を習うことは)きみにとって妨げとなる以外の何ものでもないだろう。 考えてごらん。 『生兵法は大ケガのもと』と言うだろう。 きみの作曲したものにかりに誤りがあるとする。 この世にはその誤りを見つけたり直したりする以外には能のない音楽家は無数にいる。 とすれば、きみの折角の天分の妨げとなる勉強をする必要はないよ。 メロディーこそは音楽の本質 なんだ。 メロディーを書ける人は、たとえていえば、 競走用の名馬だ。 ところが 対位法なんてただの駄馬だ。 それがわかったらほうっておくことだ。 イタリアの諺にこういうのがある。 『たくさん知っている者はほとんど知らない者だ』。 この偉大な人物に教えられたことは永く私の頭から離れなかった。 モーツァルトはマルティーニ神父について対位法を学び免許皆伝となっている。 そのモーッアルトにしてこの言ありなのである。

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古賀 政男 古関 裕 而

概要 [ ] に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、青年期にはに師事。 に主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品としてノミネート。 これを日本の新聞で「 チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、それを機会にの推挙で東京の楽壇に進出。 クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの・や、の作曲を手掛け、の「」、「」、の「」、・の「」などを発表した。 戦後は、「」や、の「」、の「」、伊藤久男の「」、の「」、の「」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。 他方で、第一応援歌「」、応援歌「我ぞ覇者」、応援歌「あゝ中央の若き日に」、応援歌「カレッジソング」、応援歌「真澄の空に」、応援歌「」、 の大会歌「」、の球団歌「」、の球団歌「」、の初代球団歌「」、の「オリンピック・マーチ」、スポーツ中継テーマ「」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手掛け、 和製と呼ばれた。 巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関はスポーツにはあまり興味はなく球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた。 また母校である福島商業高等学校の校歌を作曲している。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。 父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。 古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。 同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。 (大正5年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校(現)へ入学した。 担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。 古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販のなどを買い求めるようになった。 ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って古関に作曲を依頼してくるようになる。 こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。 青少年期 [ ] (大正11年)、旧制福島商業学校(現)に入学した。 同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。 妹尾楽譜や著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。 初めて自分の作品が披露された出来事であった。 しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った。 学校を卒業する頃、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。 古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。 ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。 傾倒したのは、の『』との『』、、などである。 このレコードコンサートには頻繁に通っていたという。 1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現川俣支店)に勤務した。 町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた。 この頃、学生時代から憧れていたの事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。 古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。 福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現)の記念番組に出演する。 この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していたに師事することになった。 金須はで、正教のを学ぶため前のの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフからを学んでいた。 コロムビア専属へ [ ] (昭和4年)、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等入賞を果たす。 これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、(昭和5年)1月23日ので大々的に報道されている。 ただし、これは主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある。 日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのはの「やまとの声 」である。 『竹取物語』は、色彩的で斬新ながなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。 この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で在住 の(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も約100通に及ぶ熱烈な文通を経て1930年6月、古関20歳、金子18歳で結婚。 古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。 この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。 『竹取物語』の所在も知れないという。 同年9月、の顧問の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。 東京ではに師事した。 菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関にはよりも才能があったと、後年まで称賛している。 師と仰いだ菅原明朗のほかに、とも親交が厚かった。 しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。 コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。 古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、それは叶わなかった。 東京に移ってからのオーケストラ作品には、を描いた交響詩『大地の反逆』がある。 これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。 また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。 (昭和10年)、古関が26歳の頃、調の「船頭可愛や」(詩:、唄:)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。 この歌は世界の舞台でも活躍した・もレコードに吹き込んだ。 この頃、声楽家志望だった妻の金子はへ進んでいた。 金子は後に声楽家の(よしこ)及びその師のノタル・ジャコモの教えを受けた。 また同時期に古関は同郷のと交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。 戦中から戦後 [ ] 1955年 戦時中の古関は数々の名作を発表した。 古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「」「」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。 戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。 古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「」に結びついたと証言している。 また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。 戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「」。 戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『』の主題歌「」。 戦後日本の発展の象徴でもある開催のの開会式に鳴り響いた「」。 現在も毎年に流れている高校野球大会歌「」。 その他にも「」「」「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。 また、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。 の美しい音色と格調のあるの唱法を基礎にした「クルーン唱法」で歌唱する、叙情溢れるリリックなで熱唱するなどの歌手にも恵まれた。 のと名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、のヒット作品を世に送り出した。 に菊田と手がけた主演の『』は長期公演舞台となった。 また、戦後の古関は、の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。 また、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組に出演。 ラジオドラマ『』では放送中に、スタジオにオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め、他の番組でも時折生演奏を行った。 晩年と死後 [ ] 系の音楽番組『』の審査員を、10月の放送開始から初代司会者のとともにに降板するまで務めていた。 、「」制定30周年を記念しての開会式に招待された。 大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したという。 また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。 1979年には最初の福島市名誉市民に選ばれ 、同地には11月12日に「」も建てられている。 しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。 の誕生日を迎えて1週間足らずの(平成元年)午後9時30分、古関はのためで没した(享年80歳)。 古関の没後、の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。 その理由について、古関の長男は「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている。 4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。 在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。 同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の東口駅前広場に設置された。 制作・施工費は約1500万円。 30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。 夏以降、出生地などで「」入りを応援する動きが活発になっている。 春から、NHKとして、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とする『』が、の主演で放送されている。 家族 [ ]• 妻・金子との間に2女1男• 娘2人は戦前の生まれ。 終戦間際に娘2人を福島県に疎開させ、裕而も一時同居している。 長男・は戦後生まれ。 アマチュア時代ののキーボード担当だったが脱退。 会社員を退職後、祖父の屋号に因んだ女性2人との音楽ユニット「喜多三」を主宰して、伴奏を担当。 父母を回想する新聞雑誌や音楽番組にも協力している。 主な作品 [ ] 戦前 - 戦中期 [ ]• 1931年「 ~応援歌~」(作詞:住治男)• 1931年「福島行進曲」(作詞:、歌:)• 1934年「」(作詞:桑原節次、歌:、)• 1934年「利根の舟唄」(作詞:、歌:)• 1935年「船頭可愛や」(作詞:高橋掬太郎、歌:)• 1935年「応援歌 カレッジソング」(作詞:吉田精一)• 1936年「」(作詞:、歌:)• 1936年「」(作詞:、歌:中野忠晴)• 1936年「を」(作詞:高橋掬太郎、歌:コロムビア合唱団)• 1936年「大島くづし」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1936年「串本そだち」(作詞:西岡水郎、歌:音丸)• 1936年「米山三里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1936年「浜は九十九里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1937年「釜石市民歌」(作詞:広瀬喜志、歌:)• 1937年「田家の雪」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1937年「彈雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)• 1937年「」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、、伊藤久男、、佐々木章)• 1938年「」(作詞:、歌:)• 1938年「婦人愛國の歌」(作詞:仁科春子、歌:霧島昇、)• 1938年「憧れの荒鷲」(作詞:西條八十、歌:ミス・コロムビア、二葉あき子)• 1939年「」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男)• 1939年「荒鷲慕いて」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1940年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1940年「嗚呼」(作詞:、歌:、二葉あき子)• 1941年「」(作詞:海老名正男、歌:伊藤久男、、二葉あき子)• 1941年「宣戦布告」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1941年「皇軍の戦果輝く」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1941年「」(作詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)• 1941年「みんな揃って翼賛だ」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1942年「」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1942年「防空監視の歌」(作詞:、歌:藤山一郎、二葉あき子)• 1942年「大東亞戰争陸軍の歌」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男、、)• 1942年「シンガポール晴れの入城」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1942年「」(作詞:野村俊夫、歌:コロムビア合唱団)• 1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「みなみのつわもの」(報道部選定、歌:伊藤久男)• 1943年「大南方軍の歌」(南方軍制定歌、歌:霧島昇)• 1943年「海を征く歌」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1943年「戰ふ東條首相」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1943年「あの旗を撃て」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)• 1943年「かちどき音頭」(作詞:野村俊夫、歌:佐々木章、松原操、)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、)• 1943年「撃ちてし止まん」(作詞:小田俊與、歌:霧島昇)• 1944年「」(作詞:佐伯孝夫、歌:)• 1944年「制空戰士」(作詞:大木惇夫、歌:波平暁男、酒井弘、奈良光枝)• 1944年「雷撃隊出動の歌」(作詞:、歌:霧島昇、波平暁男)• 1944年「の凱歌」(作詞:サトウハチロー、歌:近江俊郎、朝倉春子)• 1944年「の決戦」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1944年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤武雄、安西愛子、伊藤久男)• 1944年「比島決戦の歌」(作詞:西條八十、歌:酒井弘、朝倉春子)• 1944年「」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響楽団、松竹軽音楽団)• 1945年「特別攻撃隊(斬込隊)」(作詞:、歌:) 戦後 [ ]• 1946年「」(作詞:藤浦洸)• 1946年「々歌」(作詞:土井晩翠)• 1947年「夢淡き東京」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1947年「白鳥の歌」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1947年「雨のオランダ坂」(作詞:、歌:渡辺はま子)• 1947年「三日月娘」(作詞:薮田義雄、歌:藤山一郎)• 1947年「」(作詞:菊田一夫、歌:、)• 1947年「夜更けの街」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:菊田一夫、歌:二葉あき子)• 1948年「」(作詞:西條八十)• 1948年「若き日のエレジー」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1949年「」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1949年「」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、コロムビア合唱団)• 1949年「を讃える野球の歌」(作詞:青木薫、補作:サトウハチロー)• 1950年「別れのワルツ」(「」(日本ではとして知られる)の編曲)• なお、レコードに表示されている「ユージン・コスマン(編曲)」「ユージン・コスマン管弦楽団(演奏)」は本名(古関裕而)をもじって命名された。 1950年「」(作詞:小島情、歌:伊藤久男)• 1950年「薔薇と蜜蜂」(作詞:野村俊夫、歌:二葉あき子)• 1950年「」(作詞:若葉清成、補作:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1951年「恋を呼ぶ歌」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1951年「さくらんぼ大将」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1951年「あこがれの郵便馬車」(作詞:、歌:)• 1951年「の鐘」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1951年「」(作詞:米山治、歌:藤山一郎、)• 1951年「白いランプの灯る道」(作詞:丘灯至夫、歌:)• 1951年「長崎の雨」(作詞:丘灯至夫、歌:藤山一郎)• 1952年「黒百合の歌」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1952年 校歌(作詞:吉田精一)• 1952年「夜船の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:久保幸江)• 1953年「」(作詞:菊田一夫、歌:織井茂子)• 1953年「君いとしき人よ」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1953年「」(作詞:西條八十、歌:伊藤久男)• 1953年「みどりの馬車」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1953年「岬の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1954年「高原列車は行く」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1954年「サロマ湖の歌」(作詞:中山正男、歌:伊藤久男)• 1954年「」(作詞:、補作:西條八十、歌:岡本敦郎、奈良光枝、コロムビア合唱団)• 1954年「数寄屋橋エレジー」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「チャンドラムの夜」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「花のいのちを」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、奈良光枝)• 1954年「百万石音頭」(作詞:、歌:伊藤久男、)• 1954年「福島音頭」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男、)• 1954年「郡山市民の歌」福島県郡山市(作詞:内海久二)• 1954年「忘れ得ぬ人」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1955年「花売馬車」(作詞:西條八十、歌:)• 1956年「メコンの舟歌」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1957年「荷物片手に」(作詞:、歌:)• 1957年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1958年「」(作詞:コスティス・パラマス、作曲:スピロ・サマラス。 第1回時の紛失ピアノ楽譜を発見、採譜・オーケストラ編曲。 古関のオーケストラ譜は現在に至るまで用いられる)• 1958年 茨城県大子町立袋田小学校校歌(作詞:野村俊夫)• 1959年 校歌 「希望羽ばたく」(作詞:門田ゆたか)• 1959年「城南信用金庫の歌」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1960年 隊歌「この国は」(作詞:大関民雄、補作:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊隊歌「君のその手で」(作詞:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊行進歌「聞け堂々の足音を」(作詞:梅津統秋、補作:サトウハチロー)• 1960年「スカイラインの歌」(作詞:野村俊夫、歌:)• 1961年「」(作詞:、、、歌:)• 1961年「夕月」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「あの橋の畔で」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「」(作詞:椿三平、歌:、、)• 1964年「」(演奏:陸上自衛隊中央音楽隊)• 1964年「故郷はいつも瞼に」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1966年「スカーレット・オハラ」(作詞:菊田一夫、歌:那智わたる)• 1968年「」(作詞:藤浦洸)• 1968年 隊歌「」(作詞:山田哲、補作:、歌:藤山一郎)• 1968年「若鷲の歌」(作詞:西條八十、歌:)• 1970年「」テーマソング「決断」(作詞:丘灯至夫、歌:幹和之)• 1970年 陸上自衛隊隊歌「栄光の旗の下に」(作詞:赤堀達郎、補作:)• 1971年「純白の大地(の歌)」(歌:日本合唱協会)• 1977年「」挿入歌「ああ甲子園」(作詞:、編曲:、歌:日唱)• 1979年「若さと英知~社歌」(原案:社内公募、作詞:丘灯至夫、歌:)• 1985年「社歌」(作詞:丘灯至夫、歌:三鷹淳)• 隊歌「海をゆく」(作詞:旧版 - 佐久間正門 現行版 - 松瀬節夫) 映画音楽 [ ] 主題歌のみのものは除く。 1939年「」(監督)• 1944年「」(演出)• 1948年 - 1949年「」3部作(佐々木啓祐監督)• 1950年「」(監督)• 1952年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年 - 1954年「」3部作(大庭秀雄監督)• 1955年「」(監督)• 1957年「」(田中重雄監督)• 1957年「」(監督)• 1958年「」(田中重雄監督)• 1959年「」(本多猪四郎監督)• 1961年「」(監督)• 1961年「」(本多猪四郎監督・特技監督)• 1962年「」(監督) クラシック音楽 [ ]• 交響曲(第1番から第3番の3曲)• ヴァイオリン・チェロのための協奏曲• 五台のピアノのための協奏曲• 一茶の句による小品童曲• 和歌を主題とせる交響楽短詩• 舞踊組曲「竹取物語」• 舞踊詩「線香花火」• 交響詩「大地の反逆」• 管弦楽組曲「戦場の印象」• 室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」 その他 [ ]• 1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「」(演奏:コロムビア・ブラスバンド)• 1950年 NHK「」テーマ曲(作詞:藤浦洸)• 1956年 NHKテレビ「歌の広場」テーマ曲(作詞:丘灯至夫)• 1956年「豊橋市歌」(作詞:辰己利郎、補作詞:丸山薫)• 1961年 「」• 1964年 東京私立「・」第2校歌(作詞:西條八十)• 1970年 テーマソング「わらじ音頭」(作詞:茂木宏哉、補作詞:丘灯至夫、歌:)• 1970年 NHK「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)• NHK「放送開始・終了」テーマ曲• 制定歌「の歌」(作詞:春日紅路、補作詞:西條八十)• 主題歌「みどりの歌」(作詞:中村利春)• 応援歌「ああ中央の若き日に」(中央大学学友会選定歌詞)• 応援歌「紫紺の旗の下に」(作詞:明治大学応援団)• 水上応援歌「水の覇者日大」(作詞:サトウハチロー)• 日大松戸歯学部学生歌(作詞:)• 学歌(作詞:)• 横浜市立大学校歌(作詞:西條八十)• 社歌(作詞:)• 城南信用金庫の歌(作詞:西條八十)1959年• 社歌(作詞:)• 社歌(作詞:布谷真須枝)• 社歌「明日をつくる」(作詞:)• 初代社歌「パイオニアわれら」• 関西電力社歌「呼ぼうよ 雲を」• (ホームソング)• 社歌(作詞:藤浦洸、歌:伊藤久男、安西愛子、コロムビア合唱団)• 松下電器行進曲「月日とともに」(作詞:山田博夫)1951年• 社歌「清くけだかき白鳥の」(作詞:)1961年• 歌(作詞:)• 学園歌「意気と熱(まこと)に」(作詞:)• 山形県北村山郡大石田町町民歌(斎藤茂吉歌集「白き山」より)• 校歌(作詞:白鳥省吾)1950年• 校歌(作詞:柳澤健)• 校歌(作詞:多田利男)• 福島県立平工業高等学校校歌(作詞:土井晩翠)• 校歌(作詞:丘灯至夫)• 校歌(作詞:西條八十)• 日光市立日光中学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:下山つとむ)• 校歌(作詞:)• 大多喜町立大多喜小学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:サトウハチロー)• 東京都世田谷区立経堂小学校校歌(作詞:西條八十)• 東京都大田区立徳持小学校校歌(作詞:野村俊夫)1955年• 東京都板橋区立成増小学校校歌(作詞:和田隆夫)• 校歌(作詞:)• 東京都立工業高等専門学校校歌(作詞:野村俊夫)• 町田市立町田第一小学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:西條八十)• 静岡市立安東中学校校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:船橋久男)• 愛知県西尾市立吉良中学校校歌• 校歌(作詞:高女十二回生)• 校歌(作詞:内藤敏夫)• 京都市立紫竹小学校校歌(作詞:)• 京都市立加茂川中学校校歌(作詞:吉井勇)• 宮津市立宮津中学校校歌(作詞:能勢佐十郎)• 校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:中河与一)• 北九州市立熊西小学校校歌(作詞:)• 大牟田高等学校・中学校校歌 作詞:頓田元穂• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 応援歌(作詞:)• 福岡県立八幡工業高等学校校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 長崎県立小浜高等学校校歌 作詞:宮崎康平• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:西條八十)• 受賞 [ ]• (1952年度)• (1969年)• 福島市名誉市民(1979年)• (1979年)• 特別賞(1979年)• (1987年) 著書 [ ]• 古関正裕『君はるか 古関裕而と金子の恋』、、2020年2月• 結婚前の文通録を書籍化。 ビジュアル本 [ ]• 古関正裕『古関裕而の生涯 傑作メロディーCD付き』、、2020年4月 評伝等 [ ]• 齋藤秀隆『歴春ふくしま文庫67 古関裕而 うた物語』歴史春秋出版 2019年6月 978-4897575940• 『評伝古関裕而 国民音楽樹立への途』彩流社 2012年• 『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』 、2019年11月• 『古関裕而 応援歌の神様 激動の昭和を音楽で勇気づけた男』 2020年2月• 『古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様』 中経の文庫 2020年2月• 『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』 2020年3月• 『古関裕而・金子 その言葉と人生』(古関正裕 監修)宝島社 2020年3月 参考文献 [ ]• 武満徹 02 古関裕而• 古関裕而全集 関連項目 [ ]• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 度重なる古関の「放言癖」 楽器を使わずペンから音楽があふれる等々)から、元からそのような作品群は存在していなかったという説もある。 同名の歌が2曲存在する(現行の2代目の歌は作詞:酒井祐春、作曲:)。 古関本人が書き表した楽譜には「船頭可愛いや」と表記されている。 「」の元歌。 この作品以降、伊藤久男との結びつきが強くなる。 による同名異曲がある。 同名の歌が3曲存在する(2代目の通称「ジャイアンツ・ソング」はの作曲)。 による同名異曲がある。 初めてレコード化されたのはのことである。 「」と同じ曲。 で試聴可能である。 作詞の佐伯、歌の灰田がビクター専属だったので、例外的にビクターから発売された。 伊藤武雄、安西は当初予定された歌手。 レコード番号も用意され3月発売予定と報じられていたが、伊藤久男を迎えて初めてレコード化されたのは戦後のことである。 「戦後にレコードがすべて破棄された」など、曰く因縁のついている戦時歌謡であるが、この曲に予定されていたレコード番号と、その前後の番号がすべて欠番になっていることから、「初めから作られなかったのではないか」という説もある。 楽譜は古関裕而記念館で展示。 また、レーベル原稿等も現存している。 に、の編曲によって、初めて発売された。 に発売された藍川のアルバム「レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」《古関裕而歌曲集2》 」に収録されているものが唯一の音源と思われる。 「」および「」とは別の曲。 ところによっては「メコンの舟唄」という表記もみられる。 による同名異曲がある。 「オリンピック行進曲」と呼ばれることもある。 1943年発表の同曲を西郷輝彦がカバーしたもの。 出典 [ ]• withnews. Withnews. 2020年6月7日閲覧。 フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 1』講談社、2003年。 川俣町. 2020年4月22日閲覧。 twitter. com. twitter. 2020年6月7日閲覧。 www. jscm. net. JSCM. 2020年6月7日閲覧。 当時はまだ。 豊橋への編入は(昭和7年)以降。 「古関裕而(作曲家)」 2019年7月20日放送。 刑部芳則『古関裕而』p140• - 福島市古関裕而記念館、2020年5月28日閲覧。 「若鷹の歌」、「君の名は」、「長崎の鐘」 古関裕而さん死去。 1989年8月19日夕刊15面• NHK生活情報ブログ. NHK 2017年12月28日. 2019年2月28日閲覧。 www. city. fukushima. fukushima. 福島市. 2020年6月14日閲覧。 NIKKEI NET 日本経済新聞社. 2009年8月11日. の2009年8月15日時点におけるアーカイブ。 2019年2月28日閲覧。 東京本社版 2018年• デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2019年2月28日. 2019年2月28日閲覧。 福島民友. 2020年6月2日閲覧。 産経新聞 2014年2月5日. 2020年6月2日閲覧。 2014年10月11日. Extra便. TAP the POP. 2019年2月28日閲覧。 『Fujiya Book』不二家、1990年、61頁。 『AV CREATOR PIONEER 音と光の未来をひらくパイオニア50年史』パイオニア、1988年。 2020年5月1日閲覧。 cms. edu. city. kyoto. 2020年4月13日閲覧。 topics. smt. docomo. NTT DOCOMO. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 外部リンク [ ]• - (英語)•

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古関裕而

古賀 政男 古関 裕 而

NHK公式サイトの見解 登場人物のモデルについて NHKの番組公式サイトに、『エール』登場人物のモデルについての見解が掲載されています。 昭和の音楽史を代表する作曲家・古関裕而 こせきゆうじ 氏と妻で歌手としても活躍した金子 きんこ 氏をモデルに音楽とともに生きた夫婦の物語を描きます。 nhk. html 朝ドラ『エール』のモデルは、作曲家・古関裕而さんと妻の金子さんです。 より『エール』を楽しみたい方にとっては訪問する価値のある場所かと思います。 古関裕而に関する書籍 自伝としては『 鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝 (集英社文庫)』が、古関裕而が自身の作曲生活を振り返って記した一冊となります。 また、『 君はるか 古関裕而と金子の恋』は、 古関裕而の息子・古関正裕さんの著書で、父と母が残したラブレターを整理し、恋愛小説としてまとめ上げたものです。 古関裕而の妻・金子を主人公にしている小説としては、五十嵐佳子著『 金子と裕而 歌に生き 愛に生き』があります。 事実に基づいた小説で、女性らしい視点で書かれているのが特徴です。 朝ドラ『エール』には原作はありませんが、モデルとなった古関裕而の関連書籍は複数あり、新しい書籍も続々と刊行されています。 興味のある方は書店をチェックしてみてください。 『エール』登場人物のモデル一覧 以下に、朝ドラ『エール』登場人物のモデル一覧を掲載します。 主人公・ヒロイン以外のモデルはドラマ内の設定などから考察した人物となります。 古山家 役名 キャスト モデル 役どころ 村野鉄男 中村蒼 野村俊夫 裕一の幼なじみ 佐藤久志 山崎育三郎 伊藤久男 裕一の幼なじみ 藤堂清晴 森山直太朗 遠藤喜美治 裕一の恩師 双浦環 柴咲コウ 三浦環 音が憧れるオペラ歌手 木枯正人 野田洋次郎 古賀政男 裕一と同期入社の作曲家 役名一覧に掲載のない登場人物は、モデルが不明なキャラクターとなります。 判明した場合は追記していきますが、『エール』オリジナルキャラクターという可能性も高いでしょう。 『エール』各登場人物のモデルを紹介 朝ドラ『エール』登場人物のモチーフとなったモデルの方々を紹介していきます。 名前:古関裕而(こせき・ゆうじ) 本名:古關勇治(こせき・ゆうじ) 生年月日:1909(明治42)年8月11日 没年月日:1989(平成元)年8月18日(享年80歳) 出身:福島県福島市大町 子孫:長女・雅子、次女・紀子、長男・正裕 日本人として初めて国際的なコンクールに入選し、昭和に日本人が求めた曲を作り続けた作曲家です。 軍歌・応援歌・歌謡曲など、生涯で5,000曲以上を作曲しました。 古関裕而の生涯 古関裕而の生家は 福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」です。 近所には、後に作詞家・野村俊夫となる少年・鈴木喜八もいました。 音楽好きの父親や音楽指導に力を入れていた小学校担任・遠藤喜美治らの影響で子供の頃から作曲に親しむことになります。 長男として家業を継ぐため、福島商業学校(現・福島商業高等学校)に入学しましたが、学業より作曲に夢中でした。 折しも、在学中に家業の 呉服店が倒産してしまいます。 高校卒業後は、伯父・武藤茂平の経営する川俣銀行(現・東邦銀行川俣支店)に2年間勤務しました。 1929(昭和4)年、英国の音楽出版社チェスター社の作曲コンクールに、 舞踊組曲『竹取物語』を応募し、入賞を果たします。 日本人初の国際的作曲コンクール入賞は新聞でも大々的に報道され、報道を読んだ 愛知県豊橋市の内山金子が古関裕而にファンレターを送ります。 1930(昭和5)年、熱烈な文通を経て2人はスピード結婚します。 古関裕而20歳、金子18歳でした。 同年、山田耕筰の推薦で、 日本コロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京しました。 クラシックから流行歌へ舵を切ることを余儀なくされたため、苦労した時期もあったようですが、日本が戦争に入ると一転。 戦時中は『露営の歌(1937)』『若鷲の歌(1943)』など、 戦時歌謡(軍歌)で数々の名作を残し、その地位を不動のものとしました。 この時期、歌詞・野村俊夫、作曲・古関裕而、歌・伊藤久男で手がけた 『暁に祈る(1940)』も大ヒットします。 3人は福島県出身だったので、「福島3羽ガラス」と呼ばれました。 さて、戦時歌謡で一躍有名人となった古関裕而ですが、自分の歌を聴いて若者が戦死していくことへの自責の念を持っていたことから、戦後は日本を元気にするような曲を作ることに力を注ぎます。 1964(昭和39)年開催の東京五輪で、入場曲 『オリンピックマーチ』を手がけたことがその集大成となりました。 1973(昭和48)年、ラジオドラマなど数々の仕事を一緒に手がけてきた名コンビの菊田一夫が死去すると、古関裕而も第一線を退きます。 また、1979(昭和54)年にオシドリ夫婦といわれた愛妻・古関金子が68歳で死去します。 古関裕而が病気で亡くなったのは1989(平成元)年、80歳を迎えて間もなくのことでした。 「世界のマーチ王」ジョン・フィリップ・スーザになぞらえ、古関裕而は音楽に詳しい人たちから 「日本のスーザ」と呼ばれることがあります。 近世の日本のマーチ作曲者の代表的存在と評されたのです。 古山裕一(窪田正孝)のキャラクター 主人公・古山裕一 を紹介🎵 福島で代々続く老舗呉服屋の長男。 気弱でいじめられがちな少年だったが、西洋音楽との出会いをきっかけにその秘めた才能を発揮し、やがて作曲家の道へ。 公式サイトで確認した限りでは、結婚などの重大なイベントについては史実になぞらえて展開していくようです。 少年時代の古山裕一は、気弱でいじめられがちな少年として描かれます。 少々ぼんやりしていて、周りには取り柄がない子どもだと思われていた古山裕一が音楽に出会い、どのように才能を開花させていくのかが見どころです。 また、モデルの古関裕而は、文通で自分と金子の関係をドイツの作曲家ローベルト・シューマンとその妻クララ(夫婦で交換日記をしていた)に例えてしまうようなロマンチックな青年でしたので、古山裕一の恋愛を窪田正孝さんがどのように演じていくのかが楽しみです。 古山三郎(唐沢寿明)のモデルは古関三郎次 古山裕一の父・古山三郎(唐沢寿明)のモデルは、古関裕而の父・古関三郎次(こせきさぶろうじ)です。 古関家の3男に生まれましたが、兄2人が亡くなってしまったので 「古閑家7代目当主」となりました。 続く古関裕而は8代目に当たります。 父親の本名は「三郎次」で、代々当主の世襲名「三郎治」を継いだという記述も見られるのですが、古関裕而の長男であり、古関裕而を歌い継ぐライブユニット「喜多三」を主催している 古関正裕さんが自身を「 九代目三郎次」と称しているので、どっちがどっち?という疑念はあります。 古関家は、福島市で老舗呉服店「喜多三(きたさん)」を営む裕福な家柄でした。 江戸時代の当主は信夫山の薬王寺 大日如来坐像や旧祓川橋を寄進し、地域に貢献しています。 古関三郎次は従業員を十数人雇い、受け継いだ「喜多三」を繁盛させていました。 子宝に恵まれない時期を経て、待望の跡取り息子・古閑裕而が生まれます。 古関三郎次と妻・ヒサは大喜びで長男を可愛がりました。 古関三郎次は 音楽が好きで、当時は珍しい蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていました。 古関裕而は幼少の頃から音楽の中で育ちます。 古関裕而が家業を継ぐため商業高校に入学した1922(大正11)年、銀行恐慌が起こります。 「喜多三」は知人の借金の連帯保証人となっていたことで大損害を受け、存続できなくなります。 呉服屋廃業後は規模を縮小し再開。 場所を移転して、質屋と京染め取次業務を始めました。 従業員はおらず、古関三郎次と 次男・古関弘之の2人で店を維持している状態となります。 最後は次男に店を任せて父は引退。 そんな「喜多三」も、1927(昭和2)年に起った 昭和金融恐慌のあおりを受け、完全に倒産してしまいました。 古関三郎次の余生は悠々自適で、好きな音楽を楽しむ日々だったと言われています。 1930(昭和5)年に古関裕而が上京して以来、父と息子のやりとりはあまりなかったようですが、1937(昭和12)年に大流行した軍歌『露営の歌』が長男・古関裕而の曲だと知って喜んでおり、古関裕而も親孝行ができたと喜んでいたそうです。 古関三郎次は翌年、1938(昭和13)年に死去。 66年の人生を終えました。 古山三郎(唐沢寿明)のキャラクター 古山三郎 を紹介🎵 主人公・裕一 の父。 老舗呉服屋「喜多一 きたいち 」の4代目店主。 自由奔放な性格で、妻・まさ や周りを戸惑わせてしまうこともしばしば…。 ドラマオリジナルだと思われるのは、子ども達には自分の信じた道を歩んでほしいと願っていることでしょうか。 古関三郎次についても古関裕而の東京行きに反対していた節はありませんが、古山三郎は長男と次男両方に目をかけ、2人の夢をより積極的に応援してくれる父親になるのではないかと予想します。 古山まさ(菊池桃子)のモデルは古関ヒサ 古山裕一の母・古山まさ(菊池桃子)のモデルは、古関裕而の母・古関ヒサ(旧姓:武藤ヒサ)です。 老舗の呉服屋「喜多三」を営む古関三郎次の妻・古関ヒサは、絹織物産業が盛んな福島県川俣の出身。 福島県有数の資産家・武藤家の三女として生まれました。 兄に武藤家の跡取り・ 武藤茂平がいます。 武藤家当主は代々「茂平」を襲名しており、古関家当主の「三郎治」と同様です。 つまり、古関ヒサは「先代の武藤茂平」の娘で「当代の武藤茂平」の妹、「当代の古関三郎治」の妻という立場になります。 結婚後、子供が生まれず養子も考えていたところ、待望の長男・古関裕而が生まれ、大切に育てました。 また、次男・古関弘之にも恵まれました。 蓄音機から流れる音楽に夢中だった古関裕而に、古関ヒサは高級おもちゃのピアノを買ってあげました。 そうしたフォローもあり、古関裕而は小学生になると家の卓上ピアノで作曲を始めるようになります。 嫁ぎ先の「喜多三」が倒産してしまい、苦労があったと思いますが、東京で音楽に励む息子を見守ります。 1937(昭和12)年に大流行した軍歌『露営の歌』が息子・古関裕而の曲だと知ったときには、古関裕而に手紙を送り、喜びを伝えてくれる母親だったということです。 古山まさ(菊池桃子)のキャラクター 古山まさ を紹介🎵 主人公・裕一 の母。 川俣生まれ。 子供ができない兄・権藤茂兵衛(風間杜夫)からの養子要請と古山裕一(窪田正孝)の音楽の道を応援したい夫・古山三郎(唐沢寿明)との間で板挟みとなり苦労する役どころ。 史実では、子供にめぐまれずに養子まで考えていたのは呉服屋を営む妹夫婦のほうですが、ドラマでは、兄の方が妹の子供を養子にしたいという設定に変わっています。 古山浩二(佐久本宝)のモデルは古関弘之 古山裕一の弟・古山浩二(佐久本宝)のモデルは、古関裕而の弟・古関弘之(こせきひろゆき) です。 古関弘之は福島の呉服屋「喜多三」を営む古関家の次男として生まれます。 長男・古関裕而が家業を継ぐため福島商業学校に入学し卒業するまでの間(1922~1928年)に、「喜多三」の経営は傾き完全に倒産してしまいます。 その間、父・古関三郎次と一緒に縮小した「喜多三」を営業し、父が引退した後、1人店を存続させていたのは次男・古関弘之でした。 古関弘之がどのような志で家業に就いていたのかは分かりませんが、次男ならではの損な役回りを押し付けられてしまったようにも見えます。 推測するしかありませんが、商業学校に行く傍らで音楽活動に夢中になっていた兄・古関裕而に対しては複雑な思いを抱いていたかもしれません。 古山浩二(佐久本宝)のキャラクター 古山浩二 を紹介🎵 主人公・裕一 の弟。 まっすぐで責任感が強い🔥 音楽に夢中になり自分勝手に行動する兄・裕一に反発しがち。 経営が傾く、呉服屋「喜多一 きたいち 」を、立て直そうと奮闘。 東京へと出ていく兄への反発もあるようですが、自分の意志で福島に残って地元のために頑張ろうとする姿勢に気概が感じられます。 権藤茂兵衛(風間杜夫)のモデルは武藤茂平 古山裕一の伯父(母の兄)・権藤茂兵衛(風間杜夫)のモデルは、古関裕而の伯父(母の兄)・武藤茂平(むとうもへい)。 古関裕而の母・古関ヒサの兄にあたる人物です。 武藤茂平と妹・古関ヒサの実家である武藤家は、 福島県川俣で味噌や醤油を醸造する 「ちりめん屋」を営んでおり、 県内随一の資産家でした。 地主でもあり、自宅から見える景色は全て自分たちの土地といえるほど裕福な家系でした。 古関ヒサの兄・武藤茂平が古関裕而の人生に登場するのは、商業学校卒業後の古関裕而を、 武藤茂平が自身が頭取を務める川俣銀行(現・東邦銀行川俣支店)に就職させたからです。 継ぐはずだった「喜多三」が倒産し、就職先がなくなった甥に助け舟を出してあげたのです。 1928年から2年間、古関裕而は伯父・武藤茂平の家に居候しながら、伯父が経営する川俣銀行に勤めました。 そして、古関裕而が川俣銀行で在籍している間に、家族に内緒でイギリスの作曲コンクールに応募した『竹取物語』が入賞することになります。 権藤茂兵衛(風間杜夫)のキャラクター 権藤茂兵衛 を紹介🎵 裕一 の伯父であり、まさ の兄。 川俣の銀行を経営する実業家。 子どもにめぐまれず、古山家の兄弟のどちらかを養子として権藤家に迎えたいと思っている。 権藤茂兵衛(風間杜夫)は子どもにめぐまれず、古山家の兄弟のどちらかを養子として権藤家に迎えたいと思っているという設定ですが、モデルとなった武藤茂平については古関家から養子を貰おうとしたという話はありません。 念のため、古関ヒサの兄・武藤茂平に妻子がいたのか調べてみましたが、確実な情報は得られませんでした。 もし子供がいなかったとしたら、自身が経営する川俣銀行で働いていた甥・古関裕而がそのまま跡取りになってくれたら都合は良かったのかもしれません。 名前:古関金子(こせき・きんこ) 旧姓:内山金子(うちやま・きんこ) 生年月日:1912(明治45)年3月6日 没年月日:1980(昭和55)年7月23日(享年68歳) 出身:愛知県豊橋市 古関金子の生涯 内山金子は、父・内山安蔵と母・内山みつの三女として、 愛知県豊橋市に生まれました。 7人兄弟(長兄と女6人姉妹)の4番目の子です。 内山家は音楽好きだったようです。 家業は陸軍に物資を納入する業者でした。 金子が12歳の時、父・内山安蔵が亡くなってしまい、その後は母・内山みつが家業を継いでいます。 金子は活発で、文学、音楽、絵や空想も好きな少女でした。 豊橋高等女学校(現・豊橋東高等学校)を卒業後は、声楽家になることを目指しました。 1930(昭和5)年1月、金子は 「福島の無名の青年が国際作曲コンクールで入賞」という新聞記事を読みます。 古関裕而の『竹取物語』がイギリスのコンクールで入賞したという記事です。 金子は素晴らしい人がいるものだと感心、また自身が小学5年生の時に学芸会で 「かぐや姫」役を演じて以来、「かぐや姫」と呼ばれていたことから、『竹取物語』に運命を感じ、すぐに古関裕而に「楽譜を送ってほしいと」手紙を書きました。 金子が出した手紙がきっかけとなり、2人は熱い文通交際を始めます。 同年6月、古関裕而は愛知県豊橋市を訪問し内山金子にプロポーズ、金子は古関裕而について福島に行き、そのまま結婚します。 電撃スピード婚のため周囲を大いに驚かせました。 同年9月、古関裕而は、山田耕筰の推薦で日本コロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京します。 1931(昭和6)年、古関金子は 帝国音楽学校に入学し、本格的に声楽の勉強を始めました。 当時一緒に声楽を勉強していた中に、福島出身の伊藤久男がいました。 ベルトラメリ能子に師事し、舞台に出演。 一番弟子として認められていましたが、1932(昭和7)年に 長女・雅子が生まれ、1934(昭和9)年に 次女・紀子も生まれたため、声楽の勉強を中断します。 戦中は腸チフスに感染し危篤となりましたが回復し、戦後は日本初の 国際オペラ歌手・三浦環の意思を引き継ぎ、声楽の勉強を再開させます。 古関金子はドラマティックソプラノという珍しい声の持ち主で評判がありました。 そこで古関裕而は周囲から促され、妻のためにオペラ3作『朱金昭』『トウランドット』『チガニの星』を作曲します。 古関金子は出演のオペラは、1949(昭和24)年から1950(昭和25)年にかけてNHKで放送され、高い評価を得ました。 しかし、1946(昭和21)年に 長男・正裕が生まれていたこともあり、オペラ3作を最期に声楽家から引退しました。 その後は古関裕而さんを支える立場で活動します。 古関金子は1980(昭和55)年、乳ガンが全身に転移して、68歳で亡くなりました。 関内音(二階堂ふみ)のキャラクター ヒロイン・関内音 を紹介🎵 豊橋出身。 馬具の製造販売を行う関内家の三姉妹の次女。 意思が強く我が道を行く性格で、主人公・裕一 の人生を大きく動かす存在。 将来の夢はプロの歌手になること。 主人公・古山裕一(窪田正孝)同様、公式サイトで確認した限りでは、結婚などの重大なイベントについては史実になぞらえて展開していくようです。 モデルの古関金子は、声楽家の才能が有りながら、3人の子宝に恵まれています。 子育ての忙しさや戦争の影響などで声楽家としての活動を何度か中断後、やむなく引退しているので声楽家としては不完全燃焼だったかもしれません。 しかし、作曲・古関裕而、歌・古関金子という夫婦コラボでのオペラ3部作が世に出たことは良かったと思いますし、古関金子は人生を後悔することはなかったのでしょう。 ドラマの関内音には結婚後、プロ歌手になる夢と母や妻の両立が現代の視点でどのように描かれていくのかが見どころです。 また、関内音を演じる二階堂ふみさんは声が魅力的だと思うので、ドラマでの歌声が楽しみです。 関内安隆(光石研)のモデルは内山安蔵 関内音の父・関内安隆(光石研)のモデルは、古関金子の父・内山安蔵です。 内山安蔵は陸軍の獣医部を定年退職後、陸軍の御用商人となり、愛知県豊橋市で蹄鉄を作る工場を始め、豊橋市に駐屯していた 陸軍第十五師団に蹄鉄などを納めていました。 従業員も多くいたそうです。 しかし、 父・内山安蔵は金子が12歳の時に死去、家計は苦しくなります。 関内安隆(光石研)のキャラクター 関内安隆 を紹介🎵 ヒロイン・音 の父。 元陸軍の獣医。 今は陸軍に乗馬の道具を卸す仕事をしている🐎 音ら3人の娘たちにとってはとても優しい父親。 モデルとなった内山家も音楽が絶えない家庭だったようです。 史実に沿った展開とすると、関内安隆は関内音が12歳のときに亡くなってしまうのですが、ドラマではどうなるでしょうか。 ところで、モデルの古関金子には、 兄・勝英がいて、満州で事業をしたそうです。 女学校を卒業した金子は、満州の兄のところに遊びに行きましたが、帰国時、乗っていた 客船が座礁・沈没という出来事に遭遇し、金子は死を覚悟したというエピソードがあります。 ドラマの関内音(二階堂ふみ)には兄がいないので、この話をドラマで採用するとしたら、父との思い出として描かれるのではないかと予想します。 すると、父は単身満州に渡り、向こうで長生きしたという展開もあり得るのではないでしょうか。 関内光子(薬師丸ひろ子)のモデルは内山ミツ 関内音の母・関内光子(薬師丸ひろ子)のモデルは、古関金子の母・内山ミツです。 金子の父・内山安蔵の死後は、妻・内山ミツが家業を縮小して引継ぎ、7人の子供を女手一つで育て上げました。 関内光子(薬師丸ひろ子)のキャラクター 関内光子 を紹介🎵 ヒロイン・音 の母。 女性も自立すべきと考え、3人の娘たちには好きな道を歩ませたいと思っている。 女性も自立すべきと考え、3人の娘たちにはそれぞれ好きな道を歩ませたいと考えています。 モデルの内山ミツが家を支え、7人の子育てをしたしっかり者のお母さんなので、ドラマの関内光子も肝っ玉があるお母さんとなるのではないでしょうか。 朝ドラ『エール』の関内家の3姉妹は、長女・関内吟(松井玲奈)がオシャレ好き、次女・関内音(二階堂ふみ)が歌手を目指し、三女・関内梅(森七菜)が文学少女というそれぞれの特技を持っています。 一方、関内音(二階堂ふみ)のモデル、古関金子は7人兄妹でした。 長男・勝英を筆頭に、長女、次女、 三女・金子、四女、五女、六女となります。 したがって、誰がモデルということはできませんが、上のお姉さん2人の要素が関内吟(せきうちぎん)に、下の妹さん3人の要素が関内梅(せきうちうめ)に振られているのかなと思います。 実在の姉については、古関金子が夫と上京したとき、長姉の家に居候して新居を探したという話がありますし、上から2番目の姉とは特に仲が良かったという話もあります。 ドラマでも、なんだかんだと関内音の世話役・相談役になっていくのではないかと予想します。 実在の妹については、具体的な情報がないのですが、 古関金子自身が文学好きで、声楽家を目指すのでなければ、日本女子大学の文学科に進学したいと思っていたようなので、古関金子の文学少女の部分がドラマの妹・関内梅に反映されていくのかと思います。 村野鉄男(中村蒼)のモデルは野村俊夫 古山裕一の幼馴染・村野鉄男(中村蒼)のモデルは、作詞家・野村俊夫(のむらとしお)です。 野村俊夫(本名・鈴木喜八)は、1904(明治37)年、 福島県福島市大町の魚屋「魚忠」で生まれました。 ガキ大将として育ち、近所に住む 5歳年下の古関裕而とも遊んでいました。 その後、鈴木一家は県内の別の場所に引越し。 野村俊夫は福島市立第一小学校を卒業、福島商業学校へと進学します。 福島商業学校は古関裕而の母校でもありますが、5歳差があり野村俊夫のほうは中退しているので、在学期間は被っていないものと思われます。 1924(大正13)年、20歳の時に福島民友新聞社に入社。 1931(昭和6)年、日本コロムビア専属作曲家として上京していた古関裕而のすすめで上京します。 同年、 『福島行進曲』が発売されます。 この曲は、古関裕而が14歳の頃から参加している 「福島ハーモニカ・ソサエティー」との関連で、野村俊夫が作詞、古関裕而が作曲したものです。 戦時中リベラル派であったため仕事が先ゆかず、家族を養うため戦時歌謡の作詞をするようになります。 1939(昭和12)年の『上海夜曲』のヒットにより、日本コロムビア専属作詞家となりました。 戦後は、作曲家・ 古賀政男とのコンビで 『湯の町エレジー(1948)』を大ヒットさせ、以降、作詞・野村俊夫、作曲・古賀政男での曲を数多く手がけます。 1951(昭和26)年、日本音楽著作権協会(JASRAC)の理事となり、音楽家の権利の保護と地位向上に務めたのでした。 村野鉄男(中村蒼)のキャラクター 村野鉄男 をご紹介🎵 裕一 の幼なじみ。 子供の頃はガキ大将として有名だったが、一方で詩を愛する優しさを持っている。 史実同様、将来は作詞家となり、小山裕一・村野鉄男・佐藤久志のトリオで「福島三羽ガラス」と呼ばれ活躍することになっています。 佐藤久志(山崎育三郎)のモデルは伊藤久男 霧島の次は伊藤久男。 彼の哀愁ある歌声が堪能できる名曲揃いで、個人的には「美わしの琉球」「夜更けの街」「ブラジルの太鼓」「佐渡の雀」が好きです。 戦時歌謡が少ないのはキャパの都合だけではなく、全15枚構成の「軍歌戦時歌謡大全集」の企画がスタートしていたからでしょう。 保田武宏氏の解説。 — 懐メロ放浪人 REKOTETSU32 古山裕一の幼馴染・佐藤久志(山崎育三郎)のモデルは、歌手・伊藤久男(いとうひさお)です。 伊藤久男(本名・伊藤四三男)は、1910(明治43)年、福島県本宮市の 豪農の4男として生まれます。 父・伊藤彌は県会議員、兄・伊藤幟は衆議院議員であり、とても裕福な家庭に育ちました。 伊藤久男はピアニスト志望でしたが、家族に反対されます。 そこで、「東京農業大学」に進学するもこっそり退学、 「帝国音楽大学」に入学してしまいます。 「帝国音楽大学」には、古関裕而の妻・金子が在籍しており、住所も同じ 世田谷であったことから、伊藤久男と古関裕而は関係を深めます。 農大を退学したことが家族に知られて仕送りが中止されたため、日本コロムビアで合いの手やお囃子(おはやし)を吹込むアルバイトを始めます。 これがきっかけとなって歌手としての道を進み、日本コロムビアからデビューを果たします。 1938(昭和13)年に発売した『湖上の尺八』が初ヒット。 戦後は軍事歌謡を歌っていた責任感から酒に溺れ、ひきこもり状態になったらしいのですが、1947(昭和22)年、『夜更けの街(作曲・古関裕而)』で歌手に復帰し、1948(昭和23)年には 全国高校野球大会の大会歌となる 『栄冠は君に輝く(作曲・古関裕而)』を発売しました。 さらに、1949(昭和24)年に戦後の代表曲となる 『イヨマンテの夜(作曲・古関裕而)』が大ヒット。 1952(昭和27)年、第2回 NHK紅白歌合戦にも出場し、その後も計11回の出場。 1982(昭和57)年、第24回 日本レコード大賞特別賞を受賞。 結婚は2回しています。 佐藤久志(山崎育三郎)のキャラクター 佐藤久志( )をご紹介🎵 裕一( )の小学校の同級生で、裕福な家の息子。 のちに東京の音楽学校を卒業し、歌手となり裕一の曲を歌い人気を博す。 史実では、伊藤久男の出身地・福島県本宮市は、古関裕而、野村俊夫の出身地・福島県福島市大町からは少し離れており、伊藤久男との初めての出会いは古関裕而が上京した後の話となります。 年齢も古関裕而が1歳年上です。 ただ、2人には同年代ならではの仲の良さがあったようです。 したがって、ドラマで2人を小学校の同級生としたのは絶妙な変更だと思います。 後に「福島三羽ガラス」と呼ばれることを考えると、3人とも幼馴染だったとするほうがドラマチックです。 また、ミュージカルの申し子・山崎育三郎の歌声は楽しみでしかありません。 藤堂清晴(森山直太朗)のモデルは遠藤喜美治 古山裕一の恩師・藤堂清晴(森山直太朗)のモデルは、古関裕而の小学校の担任・遠藤喜美治です。 1891年(明治24)年、遠藤喜美治は農家に生まれます。 教師・遠藤喜美治の学歴は、今風にいうとなんと「小卒」になります。 実家近くの 要田小学校を卒業後、母校の小間使いや代用教員といった仕事をしながら勉強に励み、難関の文部省教員検定に合格して正式な教師となったのです。 遠藤喜美治は 福島師範附属小学校に教師として採用され、 古関裕而の担任を小学校3年から6年生まで務めました。 音楽に教育熱心な教師で、自分が作曲して聞かせたり、生徒に童謡を作らせたりと型破りな教え方をしています。 古関裕而は授業を一番楽しみにしており、遠藤喜美治から歌唱と綴り方の指導を受け、音楽に目覚めていくのでした。 その後、遠藤喜美治は他の地で教師をしながら学問に励み、私塾を開くまでになりました。 古関裕而が上京して10年ほどの1941(昭和16)年頃、遠藤喜美治は自分の母校・要田小学校の校歌の作曲を古関裕而に頼みます。 遠藤喜美治が作詞した校歌は、現在は歌詞が変わっていますが、今でも学び継がれているそうです。 裕一が大人になってからも良き相談相手となり、音楽の道を進む裕一を応援する。 音楽教育に情熱を傾けている先生で、古山裕一の作曲の才能をいち早く見いだして、音楽の道を応援してくれます。 古山裕一が大人になってからも相談相手として登場します。 シンガーソングライターの森山直太朗がどのように音楽を教える先生を演じていくのか楽しみです。 オペラ 『蝶々夫人』の蝶々夫人役で国際的名声を博し、『蝶々夫人』の作曲家プッチーニが「世界でただ一人の蝶々」と称えた 日本人初のプリマドンナでした。 1884(明治17)年、東京生まれで本名は柴田環。 幼少時から長唄、日本舞踊、琴を学びます。 1900(明治33)年、 東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)に進学。 ピアノは 滝廉太郎に教わりました。 在学中の1903(明治36)年、日本人による最初のオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』に出演し、注目されるようになります。 卒業後は 山田耕筰らを指導し助教授に。 ちなみに、山田耕筰は後に生まれる古関裕而の憧れの作曲家、三浦環は後に生まれる古関金子が憧れたオペラ歌手であります。 国内でプリマドンナとしての活躍を続け、1914(大正3)年に渡欧。 翌年ロンドンで『蝶々夫人』を歌って好評を博し、以後1935(昭和10)年の帰国までに、欧米各地で2000回出演を記録。 世界的プリマドンナとして活躍しました。 結婚は2回しており、恋多き女性でもあったようです。 三浦環が帰国すると、日本では古関裕而が作曲した 『船頭可愛いや(1935)』が流行していました。 この曲は、売れない古関裕而が日本日本コロムビアをクビになりかけたとき、やっと飛ばしたヒット曲でした。 三浦環は『船頭可愛いや』を気に入り、古関裕而にレコードに吹き込みたいと依頼します。 著名な芸術家から声が掛かることは大変名誉なことで、古関裕而、三浦環の大ファンだった妻・古関金子も大喜びします。 さらに、古関裕而が三浦環のために 『月のバルカローラ』をプレゼントすると、2曲ともレコードに吹き込んでくれたということです。 戦後、三浦環は音楽活動を再開するのですが、1946(昭和21)年に癌で死去しました。 62歳でした。 古関裕而の妻・古関金子は、三浦環の意思を引き継いで声楽を再開するのでした。 史実では、古関夫妻との出会いは三浦環が日本に帰国後となりますが、ドラマでは、11歳の関内音が双浦環と実際に出会い、東京の音楽学校で再開するという流れになります。 さて、柴咲コウさんは、静岡が舞台のNHK大河『おんな城主 直虎』で直虎を演じています。 柴咲コウさんは子供の頃の夏休みを静岡で過ごしており、静岡に縁を感じているそう。 そして、朝ドラ『エール』の双浦環のモデル・三浦環は東京出身ですが、両親のルーツは静岡にあります。 木枯正人(野田洋次郎)のモデルは古賀政男 洋次郎さん演じる 木枯正人さん 国民栄誉賞受賞者の 古賀政男さんとしか思えない — 佩華 夢次郎 muujiro 古山裕一と同期の作曲家・木枯正人(野田洋次郎)のモデルは、作曲家・古賀政男(こがまさお)です。 古賀政男(本名・古賀正夫)は、1904(明治37)年、福岡県に生まれました。 7歳で父が亡くなり兄のいる朝鮮半島で暮らします。 兄から マンドリン、従兄から 大正琴をもらい、弦楽器に目覚めます。 1923(大正12)年に明治大学予科に入学。 在学中にマンドリン倶楽部創設の一翼を担い、明治大学マンドリン倶楽部演奏会にて『影を慕いて』を発表しました。 1931(昭和6)年、 日本コロムビア専属の作曲家となります。 1930(昭和5)年には古関裕而が日本コロムビア専属の作曲家となっています。 古関裕而が曲が売れすクビになりかけていたとき、古賀政男が「芸術家にスランプはつきもの」と会社に抗議して助けたというエピソードがあるそうです。 テイチク所属期間を経て、1938(昭和13)年に日本コロムビアへ復帰。 戦中はあまりヒットが出なかったよう。 しかし、1948(昭和23)年、 作詞・野村俊夫でコンビを組んだ『湯の街エレジー』がヒット。 美空ひばり・島倉千代子・小林幸子などにもヒット曲を提供し、 国民的作曲家としての地位を確立しました。 制作した楽曲は5000曲ともいわれ、 「古賀メロディー」として今も親しまれています。 「古賀ギター歌謡協会」(後の古賀ギター学院)を設立。 日本作曲家協会初代会長として、服部良一らと「日本レコード大賞」を制定したことでも知られています。 木枯正人(野田洋次郎)のキャラクター 朝ドラ『エール』の木枯正人(こがらしまさと)は、コロンブスレコードに古山裕一と同期で採用された作曲家。 ギターという特技があり、モデルの古賀政男を思わせます。 主人公・古山裕一(窪田正孝)と同期なので、同じ作曲家として励まし合いときにライバルとして切磋琢磨する関係になると思われます。 野田洋次郎さんは、アニメ『君の名は。 』で有名になった「RADWIMPS」のボーカルとギターを努めています。 俳優としての活躍とドラマ内でのギターの弾き語りが楽しみです。 まとめ 以上、朝ドラ『エール』の出演者のモデルを紹介しました。 昭和の音楽史を代表するような方々がモデルになっており、キャストも実際に音楽活動をされている方が当てられているので興味深いですね。 既に書いてある通りですが、古関裕而さんと金子さんには娘さんが2人、息子さんが1人います。 息子の古関正裕さんはご存命で、古関裕而を歌い継ぐライブユニット「喜多三」を主催しています。 目元がお父様に似ていらっしゃるような雰囲気です。 気が早いようですが、ドラマの古山裕一(窪田正孝)&音(二階堂ふみ)の間には子供が生まれるのか?キャストは誰なのかも気になります。 他の登場人物を含め、新たな情報がありましたら、本記事も更新していきたいと思います。

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