ぎゃーてーぎゃーてー 歌詞。 [mixi]教授のベートーベン第九に思う

「…なんだそうだ、般若心経」第一章

ぎゃーてーぎゃーてー 歌詞

正しくは菩提寺にお尋ねください。 般若心経の和訳 上記玄奘訳を元に、仏教や哲学の専門用語をなるだけ使わずに日常語で意訳しました。 玄奘訳で欠けている部分の大筋などを 「大本(完全版)」やサンスクリット原本で補いました(青字部分)。 また、 分かりやすくするため説明を付加しています(緑字部分)。 般若心経の和訳 私はこのように聞いています。 お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。 人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する 5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。 しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。 そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。 お釈迦さまの弟子で長老の シャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。 「シャーリプトラよ、 体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。 体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。 体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。 これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです( つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません)。 シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。 汚れているとか、清らかであるということもありません。 迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。 このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。 目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。 目に映る世界から、心の世界まですべてありません( つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません)。 迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。 同様に 迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません( つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません)。 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません( つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません)。 知ることも、修行の成果を得ることもありません。 また、得ないこともありません。 心に妨げがないので恐れもありません。 誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。 ですから知らないといけません。 」 この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。 そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。 『般若心経』とは? 『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経』と言いますが、インドのサンスクリット語の原典にはタイトルはなく、中国で、結びの言葉に「経」を付加してタイトルにしたのです。 「般若波羅蜜多」について説く経典は多数あって、それらを総称して般若経典と呼びます。 般若経典は紀元前後から作られ始め、12世紀頃まで作られました。 『般若心経』はその中の一つで、般若経典の神髄を短くまとめたとする経典です。 『般若心経』はいつどこで書かれたのか? 『般若心経』がいつどこで書かれたかははっきりしませんが、インドで観音信仰が広がり、仏教が密教化していった5-6世紀頃ではないかと推測されています。 4-5世紀に生きた鳩摩羅什によるとされる漢訳本があるため、もっと早く成立していたと思われていましたが、最近の研究では羅什訳は後の時代の偽作の可能性が強く、『般若心経』の成立が確実に確認できるのは7世紀初頭頃になってからです。 『般若心経』には、玄奘訳のように観音菩薩の説法に当たる本文だけからなる「小本」と、本文の前後に物語の基本的な設定に当たる序文やエピローグを含んだ「大本」の2つの系列があります。 上の和訳では「大本」だけにある部分は青字で大筋を訳しました。 この部分がないと、お釈迦様も登場せず「仏説」としての根拠がないので経典として成立しません。 歴史的には、最初に般若経典から神髄だけを抽出した「小本」が作られて、後に経典として体裁の整った「大本」が 作られたようです。 般若心経の意味 「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。 「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。 大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言い ますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。 「心」と訳されている「フリダヤ」は、直訳すると「心臓」ですが「神髄」という意味で使われます。 つまり「般若心経」とは、「般若波羅蜜多の神髄」であると共に「般若経典の神髄」という意味です。 「フリダヤ」は「真言」という意味でも使われるので、「般若波羅蜜多の真言」という意味だと解釈する説もありますが、結局はどちらでも同じです。 なぜなら、『般若心経』の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の神髄は真言である」ということだからで す。 『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。 お釈迦様の生きておられた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、お釈迦様は、あるがままを観察する瞑想で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱ができると考えました。 仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(シャマタ、サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッシュャナー、ヴィパッサナー)」と呼びます。 「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。 観自在菩薩と長老シャーリプトラ 『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。 観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でているとも解釈できる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。 仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。 原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。 小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがお釈迦様の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始ま りとも言われています。 「観」の瞑想では、どのように集中するかということと、どうような教説に即して観察・分析し智慧を得るかということが問題になります。 以下にこの2つを説明しましょう。 「空」の思想 『般若心経』が「般若波羅蜜多」の修行で得られる智慧として説いているのは、大乗仏教の「空」の智慧です。 つまり、「般若波羅蜜多」の智慧は「空」を理解する智慧であり、瞑想修行の中ですべてを「空」であると洞察するのです。 『般若心経』が次々と数え上げながら、「空」である、「無い」と否定しているのは、「五蘊」「十二処」「十二縁起」「四諦」など、お釈迦様が説かれたとされる仏教の中心的な教説、教説で使われる基本的な概念で、「法(ダルマ)」と呼ばれるものです。 小乗仏教(部派仏教)はお経を解釈しながら、世の中のあらゆるものを細かく分析して、真に存在するものを「法」としました。 そして、観の瞑想によって「法」を見極め、我々が一般に存在していると思っているものは観念でしかなく、しかも、真に存在しているこの世の「法」(有為法・行)は無常なもので、し たがって執着することは苦であり、どこにも私はないのだという智慧を得て、煩悩をなくすことで悟りが得られるとしました。 そして、「法」は、悟りと関係し た清いものであったり、煩悩と関係した汚れたものであったり、また、生じてはすぐに滅するものだなどと考えました。 これら小乗仏教の思想は「アビダルマ論」と呼ばれます。 しかし、大乗仏教は、小乗仏教が「法」を大切にし過ぎるあまり、これらを実体のように考えていると批判しました(当時、大乗仏教が批判の対象にしていたのは、小乗仏教の中でも主に「説一切有部」と呼ばれる部派であり、その後、東南アジアで主流となっている「上座部」とは違います)。 『般若心経』は、小乗仏教の「アビダルマ論」を知っている人を対象にして、「法」も含めてすべてのものは「空」であって、もともと真実に存在しているもの ではないのだから、生まれることも、滅することも、汚れているということも、清らかであるということもないのだと、一つ一つ批判しているのです。 『般若心経』は決して「五蘊」「十二処」「十二縁起」「四諦」などの仏教の基本的な教説を否定しているのではなく、これら「法」を実体視することを否定しているのです。 そして、この「空」を洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いています。 一連の「空」の説法の中でも最も重要なのは、大本が最初に観自在菩薩が見極めた内容だと語る「五蘊」の「空」です。 玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されていますが、サンスクリット原典では「五蘊があり、それが空である」と書かれています。 つまり、お釈迦様が悟られた五蘊説をまず認め、次にそれを実体と 見ることを否定しています。 五蘊説は「無我」を説く仏教の基本的な教義で、これを理解することが『般若心経』を理解する基本になりますので、長い付加的な説明をつけて訳しました。 五蘊の無常を瞑想する修行法は「五蘊観」と呼ばれ、古来、これだけで悟りに至れるとされてきました。 「色」は一般に「形あるもの」とか「物質」と訳されることが多いですが、自我への執着をなくすために説かれた本来の「五蘊説」の文脈では「体」ですので、ここでは「体」と訳しました。 ちなみに「蘊」は「集合体」の意味で、実体ではないということですが、5つ集まっているから集合体なのではなく、五蘊の それぞれが集合体でどれも実体ではないという意味です。 また、玄奘訳に「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という有名な一節がありますが、サンスクリット語の大本などにはこの前に「色性是空 空性是色」などと訳される部分があって、三段階の説明となりました。 経文を直訳すると下記のようになります。 (1) (A) 色は空性であり (B) 空性こそ色である (2) (A) 色は空性と別ではなく (B) 空性は色と別でない (3) (A) 色なら空性であり (B) 空性なら色である 似た文が6つ並んでいます。 『般若心経』は読経や瞑想修行を目的として、リズムや繰り返しを重視して書かれているので、それぞれの文の違いにはあまり意味がないかもしれません。 (1)、(2)、(3)は表現は違いますが、論理的には意味はほぼ同じです。 ただ、(A)と(B)については、インド仏教の伝統では下記のように大きな意味の違いがあると解釈されてきました。 (A)は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。 それに対して、(B)は何も存在しないという極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。 (B)は大乗仏教が重視する智慧で「後得智」と呼ばれるものです。 言葉による 認識はあっても、それらを実体視せず、執着もない状態であり、最終的には、言葉のない直観的な認識と言葉をともなう認識が完全に一致・両立します。 この智慧があってこそ、人を救うことができるのであって、小乗仏教の阿羅漢とは異なる大乗仏教の仏の智慧であると考えられました。 上の和訳では、(A)から(B)への認識の進展を(1)から(3)の流れの中で表現しようと試みました。 「真言」の修行法 『般若心経』で述べられている「空」の思想は、思想として勉強するためのものではなく、「観」の瞑想をするための指針です。 つまり、小乗仏教では「アビダルマ論」に沿って「観」の瞑想を行うのに対して、『般若心経』では「空」の思想に沿って「観」の瞑想を行うのです。 ちなみに、南伝アビダルマ(上座部)の修行道は『清浄道論』に、北伝アビダルマ(説一切有部系)の修行道は『阿毘達磨倶舎論』に、大乗仏教の般若経系の修行道は『現観荘厳論』にまとめられています。 般若経系の修行道は、北伝アビダルマの修行道を、空思想と菩薩の利他主義の観点から組み直したもので、「五道」という形にまとめられています。 ただ、『般若心経』は後半部で「真言(呪文・マントラ)」を称えて紹介しています。 具体的な説明はしていませんが、「般若波羅蜜多」の修行は「真言」を繰り返し唱える「念誦法」と呼ばれる方法を使った修行なのでしょう。 しかし、「真言」を唱えるからといって密教ではありません。 智慧を得て解脱するためには「観」の瞑想を行うのですが、深い智慧を得るためには、まず、何か一つのものだけに集中し続けて、言葉による認識のない状態でその対象との一体化を目指す「止」の瞑想が必要なのです。 小乗仏教でも、まず、呼吸など40種類の対象(四十業処)に集中する「止」を行って集中力を高め てから「観」に移ります。 「止」を行う際、集中する対象を指す言葉を繰り返し唱えながら集中することもあります。 例えば、呼吸に集中する場合は、「息を 吸った、息を吐いた」と繰り返し唱えます。 これに対して『般若心経』が説いている「般若波羅蜜多」の瞑想法は、「真言」を繰り返して唱えてそれ自身に集中する方法でしょう。 まず、「真言」を唱え ながら心を「真言」に集中し一体化します。 その後、おそらく「真言」を唱え続けながらも、自分が体験していることや外界の存在などの現実を対象にして観察 します。 日常的な主観を排除して、『般若心経』で述べられている「空」の教説に沿って、自分がそれらに対して妄想や執着を持っているけれども、実際にはそ れらが存在しないこと、つまり、「法」も含めてすべては「空」であると理解します。 「五道」の修行の階梯にそって智慧の深まりを簡単に紹介しましょう。 最初の「資糧道」では、空の思想を言葉によって知的に勉強します。 次の「加行道」では、それを言葉を使いながら「観」の瞑想の中で理解します。 分析を進め、集中力もついてくると、しだいに言葉のない状態で洞察を行う「止」と「観」が一体の瞑想になり、直観的にあるがままを認識する「空」の智慧が生じます。 そして、瞑想をやめて言葉の世界に戻っても、空の認識が生きた「後得智」が働きます。 この段階が「見道」です。 さらに瞑想修行を進めて、先天的な煩悩まで取り除いていくのが「修道」です。 最終的に、一切の煩悩がなくなると、言葉のない直観と言葉のある認識が一致して、すべてを知る仏の智慧が生まれま す。 この最後の段階が「無学道」です。 真言の意味 「真言」は、それをただ唱えれば何かがかなえられるという魔法の言葉ではありません。 本来、「真言」は経典や 仏の智慧を心の中に呼び起こして保持するための言葉です。 「真言」を唱える瞑想の中で、集中力の高まった直観的な智慧の体験を何度も経験していて初めて、「真言」を唱えることが条件反射的に智慧の体験を導くのです。 一般に「真言」の内容は、教説を凝縮した象徴的な言葉であったり、祈願や帰依の言葉ですが、「真言」は日常の言葉とは異なっていることが望ましく、言葉の意味よりも響きが重要とされます。 そのため、『般若心経』の「真言」も音訳されることが多く、上の訳では、インドの原典の発音をカタカナにしました。 「波羅蜜多(パーラミター)」は、「完全な」「完成」という意味だと書きましたが、語呂合わせ的には「パーラ」=「彼岸(悟り)」に「イター」=「到った」と解釈できるので、仏教の伝統ではこの解釈もされてきました。 この解釈は「般若波羅蜜多」を擬人的に表現したものですので、自然に「般若波羅蜜多」を人格的に考えるようになりました。 真言の「ガテー」は「行く」という言葉の過去受動分詞、女性単数の呼格と思われます。 『般若心経』のテーマである「智慧(般若)」はインドの言葉では女 性名詞です。 ですから「ガテー、ガテー、パラガテー」は「彼岸に到った貴女よ」と「般若波羅蜜多」に呼びかけています。 「パーラミター」と同じ意味の 「パーラガテー」を掛けているのでしょう。 つまり、 『般若心経』の「真言」は「般若波羅蜜多」の智慧に呼びかけるものであり、修行の目標そのものを意味しています。 もともと「真言」というものは智慧を導び き、智慧に等しいものですから、 『般若心経』の「真言」は「真言」そのものであり智慧そのものだと言えます。 そして、過去にも菩薩達がこの「真言」を唱えた結果、実際に智慧を完成させて 悟りを得て目標を達したのだから、この「真言」はその言葉の内容を実現する力がある真実のものであるということになります。 ですから、「般若波羅蜜多」の 神髄は「真言」であり、「般若波羅蜜多」=「真言」であるというのが 『般若心経』の主張なのです。 「智慧」は女性名詞であり、「智慧」によって仏が生まれるということから、『大般若経』では「般若波羅蜜多は諸仏の母」と書かれ、密教の時代には「般若 仏母」と呼ばれる女性の仏であると考えられるようになりました。 『般若心経』は密教が盛んになり始めた頃に作られたものだと推測されているので、「智慧」 を女神のように考えていたという側面がすでにある程度あったのでしょう。 ただ、密教以前でも、大乗仏教が生まれた当時のインドは、ヘレニズム文化圏の東端にあたり、ギリシャ、イラン(ペルシャ)系の王朝が次々と支配し、その 文化の影響を受けていました。 仏像が生まれたのはギリシャ彫刻の影響ですし、救いや光の性質を持ったたくさんの仏・菩薩が生まれたのはイランの神々の影響 です。 当時のヘレニズム文化圏では宗教を超えて霊的な「智慧の女神」に対する信仰が広がっていましたので、『般若心経』にもその影響があったかもしれませ ん。 ギリシャの智慧の女神ソフィアの影響を受けて、イランでは河の女神アナーヒターが智慧の女神となりました。 アナーヒターは観音菩薩の誕生にも影響を与 えたと言われています。 まとめ 読経と写経 『般若心経』は「真言」の念誦について説いていますが、『般若心経』の「読経(読誦)」や「写経」については何も語っていません。 しかし、『般若心経』は明らかに読経しやすいことを配慮して翻訳されています。 小乗仏教では寺院に多額に相当する布施をすることが功徳とされましたが、大乗仏教では一般民衆を対象に布教していましたので、多額のお布施よりも「読 経」や「写経」をすることが功徳になるとしました。 また、大乗仏教では、お経そのものに対する信仰も生まれました。 「読経」や「写経」は心を集中させることができますし、仏教の教えに心を向けることで邪念を避けることができるのは間違いないでしょう。 いい葬儀で葬儀場・斎場を探す エリアを選択してください 北海道・東北地方 探す• 関東地方 探す• 中部地方 探す• 関西地方 探す• 中国・四国地方 探す• 九州地方・沖縄 探す• いい葬儀の鎌倉新書が運営するサービス•

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般若心経の意味を分かりやすく解説!「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」の意味がついにわかる!

ぎゃーてーぎゃーてー 歌詞

その一 題名について[仏説摩訶般若波羅蜜多心経] 題名を分解 ちょっと乱暴ですが、このお経の題を分解してみましょう。 つまり「どこかの誰かが無責任にいったわけではない。 ちゃんと仏さまがおっしゃっているのです」ということです。 インドを印度と書くのと同じです)。 摩訶の意味は「偉大な」「大きな」です。 ただの不思議ではなく、とても不思議なことを摩訶不思議といいますが、その摩訶です。 もともとは「智慧」を表す「パンニャー」という言葉です。 ちなみに、日本で般若といえば恐い形相をしたお面(嫉妬した女性の顔)のことですが、あれは般若坊という名前の人が打った面のことです。 では先をつづけましょう。 「あちらの岸」という意味の「パーラム」の音写です。 日本でおなじみの 彼岸 ひがん ( 彼 か の岸)ということ。 彼岸に対してこちらの岸を 此岸 しがん といいます。 私たちがいるのが此岸です。 此岸では、何かを自分のものにしたいという「むさぼり」がはびこっています。 また、自分のご都合通りにしたいという「わがまま」も横行しています。 そして物ごとを自分の思い込みで判断してしまう「おろかさ」が 野 の ばなしになっている場所です。 この「むさぼり」「わがまま」「おろかさ」が原因になって「苦しみ」が生じるのが此岸です。 こんなところで四苦八苦していては、どうにもなりません。 苦しみがなく、安らかな気持ちでいられる所、それが彼岸で、梵語でパーラム(波羅)というわけです。 春秋のお彼岸にお墓参りするのは、本当は「むさぼり」「わがまま」「おろかさ」をしずめ、 謙虚 けんきょ に生きるためなのだと考えると、より良いお墓参りができます。 そして「ムイ」という音が「ミ」に変化して「パーラミター」となって、漢字で[ 波羅蜜多 はらみった ]となります。 インドの言葉は横書きです。 ですから仏さまの教えも横長の板に、横書きです。 この横長の板をつなぐのに、縦に通されたのが縦糸(経)です。 そこで仏さまの教えが書かれているものを 経 きょう というわけです。 題名を再編成 音写された部分をまとめてみると、マハー・パンニャー・パーラム・イター(摩訶般若波羅蜜多)となります。 題全体の「 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 ( ブッセツマーカーハンニャーハーラーミーターシンギョウ )」というのは、「仏さまが説いた[仏説]、彼岸に到るための[波羅蜜多]、偉大な[摩訶]、智慧の[般若]、エッセンスの[心]、教え[経]」ということです。 唱え方の基礎 お経の題名のことを 経題 きょうだい といいます。 おおぜいの人が唱える時は、経題だけは誰か一人が唱えます(この人のことを 経頭 きょうとう といいます)。 あとの人は[ 観自在菩薩 カンジーザイボーサー ]という本文から一緒に唱えます。 この唱え方も慣れないと意外にむずかしいものですが、基本的には経題を唱えた速さで[ 観自在菩薩 カンジーザイボーサー ]とつづけます。 声の高さもなるべく合わせたいものです。 ……ということで、(その一)経題についてはここまでにしましょう。 それにしても、心やすらぐ彼岸に到るために、どんな智慧を、どのように身につけるというのでしょうか。 次からはその内容です。

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「…なんだそうだ、般若心経」第一章

ぎゃーてーぎゃーてー 歌詞

呪文ってことはつまり、言葉の意味はどうでもよくて「音」が大事。 だから「ぎゃーてい」と読む漢字も、「ぎゃーてい」と発音するための当て字。 それを日本語に訳すとか、あんまり意味ないわけですね。 「ひらけゴマ!」って、なんでゴマなんだよって答なんかないでしょ? しかし意味なんかないんだよ、で終わっちゃっては気持ち悪い。 せめて呪文の効能は知っておかないと、使うに使えない。 その効能を説明しているのが、ぎゃーてい より前の部分なんですね。 しばらく前、こんな新訳も話題になりました。 【般若心経ロックについた現代語訳】 超スゲェ楽になれる方法を知りたいか? 誰でも幸せに生きる方法のヒントだ もっと力を抜いて楽になるんだ。 苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。 この世は空しいモンだ、 痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。 この世は変わり行くモンだ。 苦を楽に変える事だって出来る。 汚れることもありゃ背負い込む事だってある 以下略。 オリジナルはニコニコ動画なのでリンク割愛します 上記の訳でなんとなく、般若心経の意味はわかったけど、それでも呪文とはまだつながらないぞ。 な~んか満足できない。 でもご心配なく。 上記の本にはしっかり解説してあります。 般若心経には何が書かれているのか この本は、ひとことで言えば般若心経の解説本です。 般若心経をしっかり理解するために、お釈迦様が作った仏教と般若心経の違いを比較しながら、説明が進む。 このお陰で、まず般若心経のベースとなる考え方をつかむ事ができるんです。 さっき引用した現代語訳を読めば、だいたいどういう事を言っているかは分かるようになる。 だけど、なぜそんな事を言っているか、なぜ 色即是空なんて言わなきゃならなかったか、なんで最後に「ぎゃーていぎゃーてい」なのかは、背景を理解しないと分からない。 この本は、そこから、いやむしろその背景を中心に説明してくれるわけです。 これがもう、すごく深く、新しくて驚くんです。 この世界は何でできているか? 私とは何か? といった近代科学、哲学みたいなことも書いてあるし、 自分の感情をコントロールする術 といった、最近のビジネス書に近い話が既に組み立てられている。 もう驚きですよ。 現代のビジネス書なんて何千年も前の思想の焼き直しなのかな。 ビジネス書の新刊買うより、お寺に行って説法聞いてる方がよほどええんちゃうかと思えてしまう。 さすがは何千年も残ってるだけはある。 しかし仏教や般若心経がこんなに理論的なものだとは知らなかった。 それを知るだけでも、面白い。 そこに気づくためだけでも、この100分de名著を読む価値はあります。 結局般若心経とはどういうものなのか ちょっと脱線しました。 これだけでは何も中身が分からないですよね。 ここに本を読んで得た、 般若心経に対する 私の解釈を書いておきます。 まず「生きるってしんどいよね」という前提がある。 そのうえで仏教とは「この世をどう解釈するか」という考え方を体系的にまとめたもの。 概念あるいはこの世の定義づけとも言える。 これをはっきりさせることにより、楽になる方法が生み出せる。 こういう仕組みになってるから苦しいんだ。 だからこうしたら楽になるよね、ってこと。 問題がはっきりするから、答が出せる。 その問題とは、六道輪廻。 おおざっぱに言えば、他世界も含めた生まれ変わり。 死んでこの世からおさらばしても、別の世界に生まれ変わるだけ。 生まれ変わった先の世界でまた苦しい思いをしなきゃならない。 たとえ極楽の世界に生まれ変わったとしても、永遠に極楽にいられるわけではない。 もう二度と苦しい思いをしないためには、生まれ変わりのサイクルから抜けて、涅槃 ニルヴァーナ という境地に入らなければならない。 じゃあ どうやったら涅槃に入れるのか。 般若心経では、 呪文を唱えれば良いぜ!てことらしい。 なんかいきなりライトな話になってきたけど、それが大事。 だってヘヴィーな修行なんて庶民にはできないから。 ヘヴィーな修行をしないと救われないよ、という考え方では、庶民は救われないのだ。 修行するような強靭な精神も持ってないし、庶民なりに守らなきゃいけないものがいろいろあるから、全て捨てて出家なんてそうそうできないしさ。 それでも救いは欲しいし。 そんなとき、般若心経はこう語りかけてくれる。 この世の全ては無なんだから、心を落ち着けてこの呪文を唱えさえすれば、大丈夫。 「ぎゃーていぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそーぎゃーてい ぼーじーそわか」 というわけ。 「こうすれば大丈夫」を伝えるために般若心経はあるんだと思います。 そんなわけでなかなか、お勧めの本です。 ちょっと世界が広がります。

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