慰安婦。 暴露される韓国の慰安婦問題の「嘘」 反日運動に異変も?

暴露される韓国の慰安婦問題の「嘘」 反日運動に異変も?

慰安婦

林博史・関東学院大学教授 「慰安婦」はいなかったとする「否定派」の主張を、資料の検証や元「慰安婦」の聞き取りを行っている歴史学者、政治学者らが反証し、問題の争点を浮上させた映画『主戦場』。 4月から上映している東京・渋谷の映画館イメージフォーラムではいまなお終映日未定のロングランとなっており、現代ではアンタッチャブルとなりつつあった「慰安婦」問題への関心が高まっている。 これついては、「表現の自由」の制限のみならず、歴史を歪曲する動きが表出したことも懸念すべき点だといえよう。 それを裏付けるように、大阪市の松井一郎市長は8月5日に記者団に対し、「慰安婦問題は完全なデマ」などと語っている。 歴史学において事実だとされている「慰安婦」問題。 だが、それを否定するような政治家の発言や、外務省などの対応は国際的にも非難を浴びている。 しかしながら、現在の学校教育においては教科書から「慰安婦」の文字が消え、どこに火種があるのか、なにが国際的に非難されているのか、理解している人は少ない。 また、韓国とのあつれきに耳目が集中するため、問題が朝鮮人「慰安婦」に狭められることで、取りこぼされる事実も。 そこで今回の特集では、改めて「慰安婦」問題の全体像を取り上げてみたい。 第1回は、長年「慰安婦」問題を研究し、『日本軍「慰安婦」問題の核心』(花伝社)などの著書を持つ、林博史・関東学院大学教授に「慰安婦」の実態や問題の本質を解説してもらった。 林博史氏(以下、林氏) 日本軍「慰安婦」制度というのは、軍専用に女性たちを集めて、兵士のセックスの相手をさせることを指します。 明治以降、日本では国が性売買を公認・管理する公娼制が敷かれ、その場合は「娼妓」などの言葉を使っていました。 日本軍も最初は同じような言葉を使っていたんですけれども、次第に兵士を「慰安」する女性として、「慰安婦」を使い始めた。 研究者も、日本軍が使っていた歴史用語として「慰安婦」を使いますが、この言葉は実態をまったく表していない。 彼女たちは「慰安婦」ではなく、性暴力の被害者・性奴隷です。 そのためカギ括弧を付けて使用しています。 そして「慰安婦」になった経緯や被害のあり方も、まったく異なります。 もちろん一人ひとり事情は異なりますが、「慰安婦」問題の全体像を把握するために、国籍ごとの傾向を教えてください。 林氏 まず日本軍が国内にいる場合は、各駐屯地の近くに売春宿があり、兵士たちは普段からそこに通っていました。 日中戦争が始まってそれぞれの部隊が中国へ行くことになると、通っていた売春宿に「女性たちを連れて一緒にきてくれ」と頼むわけです。 だから最初は、日本人女性が連れて行かれました。 ただ、普段から売春に関わっている女性は、性病にかかっている率が高く、兵士にうつるケースが多い。 そこで、性病になっていない、若くて売春に関わっていない女性を集めようという発想になる。 しかし日本国内で女性を集めると大問題になるので、朝鮮半島や台湾といった植民地から連れてくるわけです。 どちらも植民地になってから日本の公娼制度が持ち込まれ、業者が若い女性を借金漬けにして売春に従事させる仕組みが完成されていますから、日本軍が直接関わらなくても、業者を使って女性を集めることができました。 そのため、朝鮮人・台湾人の場合は人身売買が多い。 韓国国内やアメリカ、ドイツ、オーストラリアなど、海外にも設置される。 「歴史戦」と呼ばれる、海外での「慰安婦」問題の論争の火種のひとつともなっており、設置された国や都市において、外務省が撤去のため積極的な手回しをしていることが海外でも問題視されている。

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意外とあっけなかった韓国の「慰安婦タブー」 WEDGE Infinity(ウェッジ)

慰安婦

林博史・関東学院大学教授 「慰安婦」はいなかったとする「否定派」の主張を、資料の検証や元「慰安婦」の聞き取りを行っている歴史学者、政治学者らが反証し、問題の争点を浮上させた映画『主戦場』。 4月から上映している東京・渋谷の映画館イメージフォーラムではいまなお終映日未定のロングランとなっており、現代ではアンタッチャブルとなりつつあった「慰安婦」問題への関心が高まっている。 これついては、「表現の自由」の制限のみならず、歴史を歪曲する動きが表出したことも懸念すべき点だといえよう。 それを裏付けるように、大阪市の松井一郎市長は8月5日に記者団に対し、「慰安婦問題は完全なデマ」などと語っている。 歴史学において事実だとされている「慰安婦」問題。 だが、それを否定するような政治家の発言や、外務省などの対応は国際的にも非難を浴びている。 しかしながら、現在の学校教育においては教科書から「慰安婦」の文字が消え、どこに火種があるのか、なにが国際的に非難されているのか、理解している人は少ない。 また、韓国とのあつれきに耳目が集中するため、問題が朝鮮人「慰安婦」に狭められることで、取りこぼされる事実も。 そこで今回の特集では、改めて「慰安婦」問題の全体像を取り上げてみたい。 第1回は、長年「慰安婦」問題を研究し、『日本軍「慰安婦」問題の核心』(花伝社)などの著書を持つ、林博史・関東学院大学教授に「慰安婦」の実態や問題の本質を解説してもらった。 林博史氏(以下、林氏) 日本軍「慰安婦」制度というのは、軍専用に女性たちを集めて、兵士のセックスの相手をさせることを指します。 明治以降、日本では国が性売買を公認・管理する公娼制が敷かれ、その場合は「娼妓」などの言葉を使っていました。 日本軍も最初は同じような言葉を使っていたんですけれども、次第に兵士を「慰安」する女性として、「慰安婦」を使い始めた。 研究者も、日本軍が使っていた歴史用語として「慰安婦」を使いますが、この言葉は実態をまったく表していない。 彼女たちは「慰安婦」ではなく、性暴力の被害者・性奴隷です。 そのためカギ括弧を付けて使用しています。 そして「慰安婦」になった経緯や被害のあり方も、まったく異なります。 もちろん一人ひとり事情は異なりますが、「慰安婦」問題の全体像を把握するために、国籍ごとの傾向を教えてください。 林氏 まず日本軍が国内にいる場合は、各駐屯地の近くに売春宿があり、兵士たちは普段からそこに通っていました。 日中戦争が始まってそれぞれの部隊が中国へ行くことになると、通っていた売春宿に「女性たちを連れて一緒にきてくれ」と頼むわけです。 だから最初は、日本人女性が連れて行かれました。 ただ、普段から売春に関わっている女性は、性病にかかっている率が高く、兵士にうつるケースが多い。 そこで、性病になっていない、若くて売春に関わっていない女性を集めようという発想になる。 しかし日本国内で女性を集めると大問題になるので、朝鮮半島や台湾といった植民地から連れてくるわけです。 どちらも植民地になってから日本の公娼制度が持ち込まれ、業者が若い女性を借金漬けにして売春に従事させる仕組みが完成されていますから、日本軍が直接関わらなくても、業者を使って女性を集めることができました。 そのため、朝鮮人・台湾人の場合は人身売買が多い。 韓国国内やアメリカ、ドイツ、オーストラリアなど、海外にも設置される。 「歴史戦」と呼ばれる、海外での「慰安婦」問題の論争の火種のひとつともなっており、設置された国や都市において、外務省が撤去のため積極的な手回しをしていることが海外でも問題視されている。

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「挺対協」を告発した元慰安婦、日韓合意に「日本国民にも感謝」

慰安婦

の慰安婦については「」を、の慰安婦については「」をご覧ください。 慰安婦(いあんふ、 Military Prostitutes)とは、かつて主に戦地で将兵の性の相手をした女性のこと。 一般に慰安婦というと日本軍慰安婦を指すことが多いが、「慰安婦」という呼称は後日本軍が消滅した後の韓国軍でも使用されていた。 また、同義の女性はドイツ軍やフランス軍にも存在した。 慰安婦は軍隊が配置された場所ので働き、利用者は前述の国の将兵に限らず、同盟国やの将兵もいた。 慰安所で働く女性たちは、、 、 及び 並びに 、 及び の駐留時など、当時の戦地、訓練地、駐留アメリカ軍基地周辺の基地村 などでも存在が報告されており、、 、アメリカ軍 および国連軍 の・に対して業を行っていた。 概念・呼称 [ ] 慰安とは [ ] 一般的に「慰安」とは「心をなぐさめ、労をねぎらうこと。 また、そのような事柄」「日頃の労をねぎらって楽しませること」で 、2016年時点の日本の法令では従業者に対する厚生福利の一部を成す概念として、たとえば以下の規制文書に、この言葉が用いられている。 (平成17年6月1日国土交通省令第65号)• (昭和63年1月21日建設省令第1号)• (昭和62年2月20日運輸省令第7号)• (昭和40年3月31日政令第97号)• (昭和39年3月31日運輸省・建設省令第3号)• (昭和32年3月31日法律第26号)• (昭和29年4月1日通商産業省令第15号)• (昭和23年7月10日法律第103号)• (昭和23年11月10日運輸省令第32号)• (昭和22年9月1日法律第100号) これら同様2016年時点で有効な法規制文書である「10年()付けの保険部長発各健康保険組合理事長宛通知第339号 保健施設ニ関スル件」によると、のうち「健康ノ保持以外ノコトヲ主タル目的トスル施設」で「健康祝賀会ノ開催等慰安」を行う施設として「慰安」が用いられている。 このように、日本の法令では「慰安」が保険衛生に基づき事業者が従業者に与す厚生福利の一部であり、その会計上の費用細目としても用いられている。 一方で、これに関する「慰安婦」については、過去の歴史的経緯から、現在の日本語体系においては、「戦地で将兵の性の相手をする女性のことで性の相手をさせられた女性」という意味が持たされている。 広辞苑での「慰安婦・従軍慰安婦」の記載の変遷 [ ]• 初版()慰安婦「戦地の部隊に随行、将兵を慰安した女」 1970年代以降になって「従軍慰安婦」問題が社会問題となり 、日韓の外交問題にまで発展。 広辞苑第4版()慰安婦「戦地の将兵を慰安する女性。 広辞苑第5版()従軍慰安婦「、期、日本軍によって将兵の性の対象となる事を強いられた女性。 多くは強制連行された朝鮮人女性。 」とらが、史実と異なる記述であり、にもとづく記述は辞書に値しないと批判。 広辞苑第6版()従軍慰安婦「日中戦争、太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となる事を強いられた女性。 植民地・占領地出身の女性も多く含まれていた」、「」の項目「日中戦争・太平洋戦争期に100万人を超える朝鮮人を・(サハリン)・沖縄・などに強制的に連行し、労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。 女性の一部は日本軍の 慰安婦とされた。 広辞苑第7版 記載されず 他の事典・辞書の記載 [ ]• 第2版()従軍慰安婦「期に、戦地・占領地で日本軍の監督下に置かれ、軍人・軍属の性交の相手をさせられた女性。 」「その本質は軍である」と解説している。 第3版(2006年)慰安婦「や中、朝鮮などアジアから集められ、戦地で日本軍将兵の性の相手となることを強要された女性たち。 (2006年)慰安婦「かつて、主に戦地で将兵の性の相手をさせられた女性。 」 軍用売春宿 [ ] 詳細は「」を参照 近現代史において主要各国の軍隊は公認の売春宿を指定あるいは設置し、制を前提として活用したとされる。 これを軍用売春宿と呼ぶことがある。 日本軍が活用した軍用売春宿の呼称が「(陸・海)軍慰安所」である。 韓国で発生した国連軍・米軍のための軍用売春宿は「基地村(Camp Town 기지촌 Kijichon)」と呼ばれ、そこで働く女性は「洋公主(Western princess 양공주 Yanggongju)」「UN マダム(유엔마담 UN madam)」などと表現されていた が正式名称は慰安婦 Wianbu 위안부 であった。 公娼制と慰安婦の歴史 [ ] 国家によるを制度といい、慰安婦・慰安所も公娼制の一種として研究されている。 「」も参照 前近代の公娼 [ ] ヨーロッパ [ ] 制度の歴史は古く、古代のは公共娼家を設立した。 アテナイの公娼は下級売春婦であったともいう。 でも公娼と私娼があり、売買奴隷、捕虜、さらわれた女性や捨て子などが娼婦となり 、娼婦登録制や課税等の統制政策 や、仲介業者や娼家経営者を規制する法令も出された。 は、は捕虜女性をとし「日本軍と同様の慰安制度」を採用していたと主張している。 中世のヨーロッパでは売春は批判されたが、公娼制度は保護され、徴税の対象となった。 娼家は登録制で、フランス、イタリア、イギリス、ドイツでは大規模な娼家街があった。 アヴィニョンの国営娼家の設置目的は街頭娼婦の追放であった。 遠征では「売春婦部隊 」・「従軍売春婦」 が従軍した。 以降、売春は罪悪視され、処罰されるようになった が、16世紀にはスペイン軍がオランダ侵攻した際に売春婦が1200人随行したとされ、またドイツで1598年に刊行された軍事教科書では随行売春婦の役割について論じられている。 中国 [ ] 古代中国ののも公娼制を創設しており 、捕虜女性が性奴隷になるのは古代中国でも同様であった。 中国でも被征服者が公娼となる場合が多く、では征服された国の女性がとして皇帝や軍人・官僚を喜ばせた。 またに破れたの女性は強制連行され、に入れられとされた。 明の初期には前代の元朝の支配層であったモンゴル人女性が後宮に入っている。 朝鮮の妓生制度 [ ] 詳細は「」を参照 には中国の制度が伝わったとされる(きしょう、기생、キーセン)制度があった。 時代に伝わった とも、時代の「源花」が発祥とする説もある。 また、遺民でだったらが流浪しているのを高麗人李義民が男をに女は妓籍に登録管理したことに由来するとも 、百済遺民の女性を飾り立て高麗女楽を習わせたことが発祥ともいわれる。 制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生 官妓 を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった。 は官妓()として政府直属のを設立した。 李朝時代に妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、族の出没する付近の4か所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手やをし、士気を鼓舞した。 から末期まで約1000年間、常に2万 - 3万名の妓生がおり、李朝時代には官婢として各ごとに10 - 20名、に30 - 40名、に70 - 80名ほどが常時置かれていた。 のには妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子をことになるとの危惧が出された。 はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている。 4代国王は、妓生を廃止すると官吏 奉使 が人妻を奪取するという論を認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した。 はを設置し、ソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳 - 20歳の女子に妓生の育成を行った。 李王朝の歴代王君のなかでは9代国王と10代国王が妓娼をこよなく愛した。 とりわけは暴君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した。 燕山君は、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ献上させるよう命じ 、未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫した。 妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて斬殺した。 燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には万歳山上の月宮に妓生3000余人が囲われた。 官卑・奴婢としての妓生 高麗・李朝時代の身分制度では賤民階級としてのとがあった。 七賤とは商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・・()のことでではなかった。 これに対して、は主人のとして隷属するもので、七賤には及ばない身分であった。 はさらに公賤と私賤があった。 奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された。 では、奴婢の子は奴婢であり、したがってまた主人の財産であり、自由に売買()された。 そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった。 妓生は官妓だったが、身分は・官卑だった。 朝鮮末期には妓生、内人(宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた。 婢女は「事実上の家畜」であり、婢女を殺害しても罪には問われなかったとして、林鍾国は「韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年ごろの娘たちの遺棄死体があったといわれる。 局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった」と述べている。 林鍾国は、婢女が主人の性の玩具になった背景には、朝鮮の・制度のほか、当時の「は地位が高いほど夫人のいる内部屋へ行くことを体面にかかわるものと考えられたので、手近にいる婢女に性の吐け口を求めるしかなかった」ためとし、若くて美しい官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せて官婢に身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている。 朝鮮社会では様々な・の形態があり、の総称を蝎甫 カルボ といい 、も含まれていた。 また、性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生ともいった。 妓生は一牌 イルベ といわれ、妓生学校を卒業後は宮中に出たり、また自宅で客をとったり、30歳頃には退妓し、結婚したり、遣り手や売酒業 実質的には売春業 を営んだ。 二牌(イベ)は、殷勤者 隠勤子 といい、隠密に売春業を営んだ女性を指す。 一牌妓生崩れがなったという。 三牌は搭仰謀利といい、近代化以前は京城に散在していたが、のちに詩洞(シドン)に集められ、仕事場を賞花室(サンファシル)と称して、三牌も妓生と呼ばれるようになった。 ほかカルボにはで尼僧として売春をおこなった花娘遊女(ファランユニョ)がいる。 僧侶が仲介したのは李朝時代に儒教が強大になった結果、僧侶は賤民の地位に落とされ、寄進等も途絶えたためともいう。 また昼は曲芸や仮面劇を興行し、夜は売春を行った女社堂牌がおり、男性の男寺堂(ナムサダン)はの相手を、女性の女寺堂(ヨサダン)は売春した。 社堂(サダン)集団の本拠地も安城の青龍寺という寺院だった。 色酒家(セクチュガ)は、酌婦で、旅館などで売春を行った。 売酒と売春の店舗をスルチビといい、近年でもバーやキャバレーにスルチプ・アガシ(酒場女)、喫茶店()ではタバン・アガシ(茶房女)、現在でもサウナ房(バン) や「」ともよばれる理髪店でミョンド・アガシ(カミソリ娘)という女性がいる。 朝鮮にははないとも一部でいわれてきたが、画家やの「四季春画帖」など性交の場面を描いた朝鮮の登場人物はほぼすべて妓生と客であった。 川村湊はこうしたエロティックアートで妓生だけが登場人物となった背景に朝鮮儒教があり、「朝鮮儒教の道徳律はたとえ虚構の絵画のなかであっても、淫らなことを行い、性を剥き出しにし、露骨な痴態を示すのは妓生だけでなければならず、人妻や町娘や大奥の女たちが登場している江戸期の浮世絵春画こそ、秩序も抑制も限度もない、放縦で非道徳な不倫行為を勧奨するものに他ならなかったのである。 道徳的な春画。 これが朝鮮の春画を表すもっともふさわしい言葉かも知れない」と指摘している。 政治外交と妓生 など王が女淫に耽ったため、臣下も風俗紊乱であった。 はこの時代を「畜妾、畜妓は当たり前のことであり、妓生の、妓生による、妓生のための政治というべきもの」で、朝鮮は「妓生政治・妓生外交」を行っていたと評し 、さらに現在の金氏朝鮮 が全国から美女を集め「」と呼んで、気に入った女性を要人のに供していたことから、は「燕山君などの正統な後継者」と評している。 妓生は中国に(コンニョ)つまり貢ぎ物として「輸出」された。 高麗時代にはの使いやまた明や清の外交官に対しても供与された。 李朝時代でもが辺境の娼妓は国境守備の将兵の裁縫のために置いたものだが都の娼妓は風俗紊乱をもたらしているために妓生制度を廃止したらどうかと提案したところ、臣下は「中国の使臣のために女楽を用いるため妓生は必要です」と妓生の外交的有用性をもって答えたため、成宗は満足して妓生制度を公認している。 これらは日本人(倭人)に対しても行われ、1507年の『権発日記』には倭の「野人」にも美しい妓生を供進したと記録されている。 は、朝鮮の中国外交は常にを貫き、使臣への女色の供応は友好外交のための「安価な代価(生け贄)にほかならなかった」とし、また以後の総督府政治もこのような「妓生なくして成り立たない国家体制」を引き継いだものであるとした。 妓生が公娼かどうかの議論については、後述を参照。 近代公娼制の確立 [ ] 18世紀のヨーロッパでは売春が盛んになり、私生児も増加したため 、の『公営売春宿擁護論』では公娼制による解決が主張された のち期以降のヨーロッパでは公娼政策がとられた。 しかし非登録の私娼も多く、1843年頃はロンドンに9万人、パリに3万人、ベルリンに1万人 、1860年のロンドンでは30万人の娼婦がいたとされる。 性病対策としての近代公娼制 近代公娼制は、対策と軍隊慰安によって設置され、フランスで確立し、その後ヨーロッパ、アメリカ合衆国や日本にも導入された。 軍陸軍大臣はと男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだとされる。 、フランスで警察による公娼登録が開始された。 1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった。 18世紀末にが流行し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがったが、同時に医学研究もすすんだ。 プロシアでは一旦廃止されたあと1851年に性病予防のために公娼制度が軍によって再開され 、風紀警察が特別に設置された。 イギリスはの際の性病問題に対してイギリス軍の提案 で1864年から1869年にかけての伝染病 性病 法によって公娼制度が導入され 、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された。 1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された。 日本の制はの一形態として発展し、徳川幕府に認可されたが形成されていた。 後は、1872年のを契機にとを出したが、遊郭は人身売買を糊塗した制度の中で存続するようになった。 1880年代国内では遊郭、貸座敷業者、娼妓の数が倍増し、その後1924,5年まで増え続け、軍の連隊駐屯地などに遊郭が新設されている。 1900年の判決「娼妓廃業届出書に調印請求の件」 によって自由廃業運動が盛んになり 、同年が制定。 娼妓の年齢を18歳以上とした 従来は15 - 16歳。 1904年に欧州で「」が締結され 、1910年には「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」が締結された。 1876年に開国したの日本人に日本の遊郭も開業し、1881年以降は貸座敷業者と芸娼妓の営業規則が定められ、営業許可証の取得、課税も開始された。 の京城領事館達「売淫取締規則」によりでの売春業は禁止された。 しかし、後 以降 は料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され 、釜山、ソウル、等で遊郭が再び形成された。 以降朝鮮にも公娼制度が導入され 、1916年には朝鮮で娼妓年齢下限が内地より1歳低い17歳未満に設定された。 1905年のの勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降、朝鮮での日本の売春業者が増加した。 1906年にが置かれ制度が整備されるとともに遊郭、朝鮮人業者も増加した。 1906年に京城に新設された桃山遊郭は龍山駐屯の軍人を見込んで設置されている。 、警視庁は・娼妓取締令を出し、朝鮮の伝統的な売春業であるを許可制にし、公娼制に組み込んだ。 取締理由は売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためとされた。 中国 での日本でもに日本人娼妓の営業を禁止されたが、・酌婦の行為は黙認された。 1910年には「日韓併合により、正式に公娼制度が導入された」と秦郁彦は書いている。 前後には戦争景気で朝鮮のは全盛を極めた。 一方で、併合初期には朝鮮人女性は妻と詐称し売られていたが、1910年代後半には路上で騙され誘拐される事例が増加し、13歳の少女も検挙された。 「曖昧屋」とも呼ばれた小料理店 に女性を騙して売却するものもいた。 1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円 - 1200円であった。 仁川の敷島遊郭の前借金の場合、日本人娼妓が700円 - 2500円であったのに対して朝鮮人は200円 - 700円であった。 遊郭業者・女衒の手口 朝鮮では「性経験のない女性がその80パーセントは斡旋先が売春業であることを知らされずに外地に売られた」と金富子は書いている。 「忘八」と呼ばれた遊郭業者は 、日本でもしばしば就業詐欺を働き、娘を騙して海外に売っている。 『廊清』1937年7月号は「女給、ダンサー募集の美名で女性を偽り、北支・上海などに売り飛ばす不届き者がある」と伝えている。 維新政府の娼妓解放令の後も「娼妓達が悲惨な籠の鳥であるという実態は変わらず」 、悪徳業者にかかると借金の泥沼から抜け出す事ができず、「まさに前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題(廊清会の内相あての陳情書)に違いない」と秦郁彦は書いている。 伊明淑は「元慰安婦51人の内、31名が誘引・就業詐欺によって募集された」という。 公娼の廃止に向けた取り組み [ ] 世界の公娼制度は19世紀後半から次々と廃止されるようになった。 イギリスは1886年に廃止し、ノルウエー、スエーデン、デンマーク、ニュージーランド、カナダなどが次々と廃止し、1930年までに存続していたのは、日本、オーストラリア、イタリア、スペインなどの国だった。 日本においても、1920年代になると廃娼運動が盛んになり、「公娼制度は事実上の奴隷制度である」などの理由により、公娼廃止決議、公娼廃止を決定する都道府県が続出した。 しかし政治家と結託した遊郭業者は35年に東京で大会を開き「公娼は我が国体に立脚して神の御威光の下に定められた制度である」と息まき、宮城を遥拝して「天皇陛下万歳」を三唱したという。 廃娼運動を推進した廊清会の機関誌『廊清』1938,7月号によると、中国に娘子軍をつれていく業者がおびただしい数であるという。 廃娼運動は国際条約に結実し、1904年5月に欧州12カ国で「醜業を行わしむるための婦女売買取締に関する国際協定」が、ついで1910年5月に13カ国間で「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」が締約された。 国際連盟では規約23条でこれら取決めの一般監視を行うとしたため、1921年9月の第二回国際連盟総会においてとして再締約された(23カ国)。 このさいに日本も条約に加盟したが、すでにがあり年齢に関する条項(21歳未満を禁止)については留保した。 東南アジアでもマレーのペナンでは1919年に公娼制が廃止され、フィリピンには「公娼制度なし」と報告されており、ラングーンでは1921年に醜業婦禁止条例が公布され、シンガポールでは1888年に性病検査義務を廃止、1929年には一切の売春宿を禁止した。 1930年の日本領事館の報告によると公娼制度があるのは、フランス領インドシナと香港、タイのみであった。 吉見義明は、東南アジアでは公娼制度を廃止するか縮小し「売春をなくす方向で施策が行われていた」とする。 植民地公娼制 [ ] しかしこのような廃娼運動も、植民地においては本国と比較して後れを取った。 1870年代になってジョセフィン・バトラー らの売春婦救済運動(廃娼運動 )が盛んになり、19世紀末のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止される。 しかし、植民地においては存在し続けた(秦郁彦 、ヒックス 、藤目ゆき )。 イギリスはのに調印しながらも植民地での公娼制は維持された。 アメリカ合衆国もフィリピンなどでは、米軍基地目当ての売春宿や性病検診と登録制は1990年代になっても廃止されなかった。 秦郁彦は、第二次世界大戦当時の英米では兵士の慰安婦はから中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したと指摘している。 植民地の公娼制について藤目ゆきは「植民地においてこそ、帝国主義軍隊の維持がより重大であり、だからこそ公娼制の温存は植民地において本国より重視された」と指摘したうえで、娼家の供給は「貧しい親に売られるのも、だまされて売春を強要されるのも、前借金に縛られ逃げられない状態に置かれたのも、日本人の娼婦に限ったことではない」と指摘している。 軍隊による公娼(軍用売春・慰安婦) [ ] 連合軍によって制圧されたパリではドイツ人と親密であった女性たちは頭を刈られ服を引き裂かれて引き回された 戦争におけるレイプなどの性暴力については1990年代以降、「」として研究されている。 戦争において性暴力は、勝者への褒美、敗者への懲罰、また単なる快楽として行使されてきた。 そして、それを防ぐため、軍当局があらかじめ女性を「用意」する例が現れるようになる。 第一次世界大戦時の性暴力と性政策 [ ] 開戦直後にはドイツ兵によるフランス人女性への強姦が発生し、妊娠した女性の堕胎を認めるべきか論争が起こった。 また、第一次世界大戦敗戦後のドイツではライン河左岸を占領した連合軍兵士のなかにモロッコ、チュニジア、アルジェリア、マダガスカル、セネガルなどの植民地兵がおり、1920年代にはアフリカ系兵士によるドイツ人女性の強姦が問題とされた。 また、第一次世界大戦の際にはフェミニストのはエジプトの軍を看護するための従軍女性ボランティア団体を組織し、病気に悩む兵士に対して「女が必要なら、病気のないきれいな女を与えなさい」と語っている。 第一次世界大戦時の米軍ではが推進された。 アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった。 市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると、強制収容され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された。 この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、兵士で処罰されたものはいない。 第二次世界大戦時の性政策 [ ] によれば、第二次世界大戦当時の戦地での性政策には大別して 自由恋愛型(私娼中心。 イギリス軍、米軍)、 慰安所型(日本、ドイツ、フランス )、 レイプ型(ソ連)の3つの類型があった。 自由恋愛型とは英米軍が該当し、私娼中心で公娼制度を公認しないもので、その理由はとくに女性からの批判によって公娼制を公認できなかったためとされる。 その代わり、現地の娼婦の利用を黙認したが、性病が蔓延したともいわれる。 バトラーらのによる批判や廃娼運動については前述を参照。 植民地においては慰安所が存在し、また英米軍が占領後に日本軍慰安所を居抜きで使用した場合もある。 アメリカ軍もフィリピンなどの植民地慰安所をのぞくと慰安所を設置しなかったが、したアメリカ軍が多数のフランス女性をレイプし、性行を行っている姿を見ないで街を歩くことが出来ないほどの状態になったためでは市長が郊外に慰安所の設置をアメリカ軍指揮官に懇願したがアメリカ軍はこれを拒否している。 軍は国家管理型の慰安婦・制を導入し500箇所あったといわれ、ドイツと同様の制度を導入した日本軍慰安所は400箇所あったとされる。 フランス軍、インド駐留イギリス軍、イタリア軍にも慰安所があったが、慰安婦を現地で募集する場合とそうでない場合とがある(詳細は下記節で述べる)。 設置にあたっては性病対策のほか強姦対策もあった が、強姦罪は跡を絶たなかったともいわれる。 では日本軍による虐殺とともに強姦が発生したともされるが、研究者間で確定しておらず論争になっている(を参照)。 『戦場心理の研究』 によれば1938年の上海では強姦や輪姦が頻発し、南京では「に強姦されたら、幸運に思え」と怒鳴った隊長 [ ]がいたと報告している。 日本の内地においては1941年の灯火管制下の治安維持のためにを制定し、性犯罪の厳罰化が図られた。 レイプ型による大規模な被害例 [ ] ソ連軍による戦時性暴力と慰安婦 [ ] ()では慰安所は設置されていないがが黙認された。 は敵国の女性をとする「戦地妻」を容認し、「わが軍兵士のふるまいは絶対に正しい」と兵士を鼓舞した。 ソ連軍は占領したで集団強姦を広範囲に行い 、レイプの被害者数はベルリンでは9万5000 - 13万、東プロイセン等では140万人、ドイツ全域で200万人にのぼった。 ソ連軍によって監禁された約170名の日本女性が強姦を受け23人が集団自決したも起きている。 また(通河県)ではソ連軍による慰安婦提供の要請を受けて、2名の志願慰安婦を提供した事例もある。 満州開拓団にソ連軍が進駐した際には兵士の妻でなく単身女性が慰安婦として提供された黒川開拓団や郡上村開拓団の例がある。 朝鮮における引揚女性への性暴力 [ ] 朝鮮人()ものやなどでソ連兵とともにの女性への行為をおこなった。 強姦によりした引揚者の女性を治療したの(21年)の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人であり、場所は朝鮮半島が38件と最も多く、満州4件、北支3件であった。 1947年に閉鎖されるまででは4,500件の中絶手術が行われた。 ヨーコ・カワシマ・ワトキンズの自伝『』でもソ連軍や軍に日本の市民が朝鮮半島において暴行・の被害にあったことが記録されている。 詳細は「」を参照 慰安婦の総数が把握できる正確な資料が発見されていないため、軍人の総数・の人数などから複数の研究者により推論されている。 その数は2万~40万人と幅広いが韓国やでは20万人説が多い。 ただし日本ではこの20万人説について根拠がないとの反論がある。 (を参照) イギリス軍の慰安婦 [ ] 1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14 - 18歳だった。 当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した。 主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた。 売春婦登録簿は1888年まで記録されている。 第一次世界大戦 [ ] フランス戦線に派兵されたによれば、フランスのには「慰安所」があり、3人の慰安婦がいた。 料金は10フラン(当時の8シリング)で、彼が目撃した時には、150名からの兵士が順番待ちの列を作っていた。 女性たちは、毎週一個にのぼる兵士の相手をした。 こうした生活は3カ月が限界だったと言う :213。 第二次世界大戦 [ ] 第二次世界大戦では、イギリス軍は公認の慰安所は設置せず、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。 1944年3月の米軍の日系2世のカール・ヨネダ軍曹のカルカッタでの目撃証言では、6の英兵が10歳のインド人少女に乗っている姿が丸見えで、「強姦」のようだったとして、またそうしたことが至るところで見られたという。 性病感染率の記録からは、ビルマ戦戦では6人に1人が性病に罹っていた。 また、日本軍の慰安所を居抜きで使用したともいわれる。 イギリス軍の捕虜になったは、英軍中尉がビルマ人慰安婦を何人も部屋に集めて、「全裸にしてながめたり、さすったり、ちょっとここでは書きにくいいろいろの動作をさせて」楽しんでいたという。 ドイツ軍の慰安婦制度 [ ] フランスので慰安所に入るドイツ軍兵士(1940年)。 建物は以前のユダヤ教施設()。 軍は日本軍と非常に類似した国家管理型の慰安婦・制を導入し500箇所あった。 ドイツ政府は「にはない」と宣言し、様々なを行なっているが、当時のドイツ軍による管理売春・慰安所・慰安婦問題はそうした補償の対象とはされてこなかった。 しかし、日本軍慰安婦問題がきっかけとなり、検討されるようになった。 また秦郁彦が1992年に日本の雑誌『』 で紹介したフランツ・ザイトラー『売春・同性愛・自己毀損 ドイツ衛生指導の諸問題1939-1945』 はドイツでも知られていなかったため、当時来日していたドイツ人の運動家モニカ・ビンゲンはドイツに帰国してこの問題に取り組むと語った。 しかし、2015年2月現在は国防軍の元慰安婦に対する謝罪を行っていない。 ドイツ正規軍将兵用の慰安所(軍用売春宿)以外にも、ナチスドイツではに囚人用のが存在していた。 これに関してクリスタ・パウルが『ナチズムと強制売春』を1994年に 、また2009年にはロベルト・ゾンマーが『強制収容所の売春施設:ナチス強制収容所での性的強制労働』を発表した。 詳細は「」を参照 ザイトラーの著作によれば、1939年9月9日、ドイツ政府は軍人の健康を守るために街娼を禁止し、売春宿 Bordell は警察の管理下におかれ、衛生上の監督をうけ、さらに1940年7月にはブラウヒッチュ陸軍総司令官は、性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止した。 入場料は2-3マルク、高級慰安所は5マルクだった。 なお、ソ連のスターリンは売春を禁止していたため、東方の占領地では売春宿を新設し、慰安婦はしばしば強制徴用されたといわれる。 1月、ドイツで放映されたドキュメンタリー番組「戦利品としての女性・ドイツ国防軍と売春 Frauen als Beute -Wehrmacht und Prostitution 」では、ドイツ軍が1904年、フランス人の売春婦を使い官製の慰安所を始め、後にはやの女学校の生徒を連行し、慰安婦にしたことを報じた。 強制収容所における囚人用慰安所 [ ] 詳細は「」を参照 時代のには囚人用のが存在した。 フランス軍の慰安婦制度 [ ] フランス軍、特にフランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があった。 「移動慰安所」は、フランス語で、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、・・、の際に存在した。 移動慰安所はで成立したといわれ 、ほか、にも存在した。 慰安婦には北アフリカ出身者が多かった。 現地人女性は上の観点から好ましくないとされた。 秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している。 米軍用公娼 [ ] アメリカの公娼制と売春禁止運動 [ ] アメリカ合衆国では時に性病予防のための管理売春を計画し、戦後のにセントルイスでヨーロッパ型の制が導入され 、ニューヨーク、シカゴ、シンシナティー、サンフランシスコ、フィラデルフィアでも計画がすすめられた。 同時に公娼制度・売買春反対の運動がおこり、1880年代からはが社会浄化運動を行い 、米国純潔連合、米国自警協会、米国社会衛生協会などの組織がつくられ、娼婦を「白人奴隷」と表現し、公娼制度を「白い奴隷制度」とセンセーショナルに報告し、WASPの公共心に道徳的なパニックをひきおこした。 またアメリカでは娼婦への反感と人種差別がむすびつき、1875年には世界ではじめて中国人娼婦の入国禁止法を制定し、のちに国籍問わず娼婦の入国を禁止し 、さらに中国人娼婦を口実に1882年に中国人排斥法が成立し、また日本人娼婦も排斥された。 サンフランシスコ労働者党のは中国人と日本人排斥運動を行い、1892年5月にサンノゼ市のサンタクララ町で、「(中国人と)同じアジアの奴隷が流れ込んでいる。 日本には馬も馬車も何もなく、人間がその代役を勤めている。 女は十歳にしていうをはばかる職業に従事するため、政府より許可状をもらう」「日本人には貞操という観念はまったくない。 男と女が野獣と同様に無茶苦茶に交合する」などと演説し、日本人娼婦や労働者の排斥を訴え、群衆から拍手で迎えられた。 当時のアメリカの売春宿は一般的に最貧地域にあり、黒人、東欧移民が多く、太平洋沿岸では中国人、日本人娼婦がおり、肌の色で区分されることもあり、たとえばサンフランシスコの娼家では最上階は白人娼婦、下の階に中国人、日本人、メキシコ人女性が営業していた。 1903年、1907年、1910年と外国人女性を含む娼婦排斥法が厳格化し、1910年のマン法では不道徳な目的による女性の移動が禁止され、さらにあらゆるセックス行為が罪に問われるようになり、紅灯地区は閉鎖され、売買春は地下に潜るようになり、娼婦は公共の売春宿を失ったため、電話、街頭、マッサージ・パーラー、ダンス・ホールなどで客をとるようになり、また経営も組織犯罪シンジケートに移っていった。 植民地フィリピンの米軍用売春と公娼制 [ ] アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、植民地で公娼制度を導入した。 でスペインに勝利したアメリカが1898年にを占領してからは雨後の筍のように売春宿が蔓延し、また米軍は、現地の娼婦のを施したため、宣教師がこれらを訴えた。 1902年4月、キリスト教婦人矯風会 WCTU、 のマーガレット・エリスがマニラ管理売春やの実態を報告するなどフェミニズムからの抗議を受け、米国政府は性病検査と検査料金徴収を中止し、健全な娯楽施設、読書室、体育館をかわりに建設するとした。 ルーズベルト大統領は現地娼婦と軍との関係を不明瞭にしたが、フィリピン軍政責任者のルート陸軍長官は診断料や診断証明書の料金がなくなっただけと語ったような実情であった。 のちにマーガレット・エリスと政府とのあいだで裏取引が発覚しており、その後も米軍慰安所は実質的に存続し、フィリピンで売春街を紅灯街に限定するようにし、性病検査を継続しながらもアメリカ政府が公式に関与していないように努力した。 米軍目当ての売春宿と性病検査はその後も第二次世界大戦、ベトナム戦争、1990年代の米軍の一時撤退まで継続し、廃止されることはなかった。 また、アメリカ人女性、フランス人、イタリア人、ロシア人、ユダヤ人の白人娼婦もボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、上海、ハルビン、マニラなどで就業した。 フィリピンの状況はその後も断続的に報告されるが、管理売春反対運動は後退した。 理由としては当時のフェミニストは米国の帝国主義と植民地主義を支持していたことがあげられ、矯風会もフィリピン、ハワイ、プエルトリコ領有を支持し、米国が神の目的を実現する救済者国家であると信じていた。 ハワイ・中国・占領地での米軍 [ ] アメリカ軍は1941年米陸軍サーキュラー170号規定において、「兵士と売春婦との接触はいかなる場合でも禁止」されたが、実際には買春は黙認されていた。 米海軍の根拠地であるハワイでは「組織的売春 organized prostitution 」が設置され、登録売春宿(慰安所)が設置されていたとされる。 が始まると、の近くにはホテルストリートが設けられ、その通り沿いにあるホテルでは、兵士が服を脱ぎ、消毒液で自分たちのを洗い、を付けた後、女性が一人につき3分でを済ますというサーヴィスが工場の流れ作業の様に行われていた。 その事から、この兵士はと呼ばれるようになった。 それから、この通りは「lubed , screwed and tattooed 」と呼ばれるようになり、そのホテルの売春婦は1日に100人もの相手をした。 1942年にでは、が性病感染で有名な売春宿のせいで「空軍の半数が飛べなかった」とのの証言がある。 1943年夏のシシリー島占領後は、ドイツ・イタリア軍の慰安所を居抜きで利用している。 太平洋戦線ではビルマ方面で日本軍の慰安所を参考に売春婦をインドで集め慰安所を設置していた。 しかし慰安所について米国国内で論争が発生し、1944年9月には、売春宿(慰安所)の廃止が決定され 、1945年4月24日付で「海軍作戦方面における売春について」との通達が米国陸軍高級副官名で出され、同年9月1日に発令された。 敗戦後の日本における米軍向け特殊慰安施設協会 RAA [ ] 安浦に設置した慰安所に群がる 占領軍による日本の一般女性に対するレイプ事件が予測された為、日本政府は「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」 による を募集し、連合軍向けの慰安所を設立し 、最盛時には7万人、閉鎖時には55000人の女性が働いていた。 占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている。 占領軍の性対策については警視庁が8月15日の敗戦直後から検討し、8月22日には連合軍の新聞記者から「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が入った。 また佐官級の兵士が東京丸の内警察署に来て、「女を世話しろ」ということもあった。 8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣は警視庁総監に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画し、翌日の8月18日には橋下政実内務省警保局長による「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」との通達が出された。 早川紀代によれば、当時の慰安所は東京、広島、静岡、兵庫県、山形県、秋田県、横浜、愛知県、大阪、岩手県などに設置された。 また右翼団体の国粋同盟(総裁)が連合軍慰安所アメリカン倶楽部を9月18日に開業している。 こうした慰安所は公式にはと称され、英語ではRecreation and Amusement Association(レクリエーション及び娯楽協会, RAA)と表された。 しかし、占領軍はRAAだけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が9月28日に、東京都衛生局防疫課長与謝野光に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した。 また、与謝野光は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた。 またGHQは「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはいけない」と検診を命令し、与謝野はこれを受けて東京都令第一号と警視庁令第一号で性病予防規則を制定し、週一回の強制検診を実施した。 1945年12月時点で在日連合軍は43万287人駐屯していた。 その後のでは韓国人女性が慰安婦として集められる とともに、日本人慰安婦も在日米軍基地周辺、また朝鮮半島へも日本人慰安婦が連れて行かれたこともあった。 に諸国とを締結し 、関係諸国との請求権問題を解決し 、また同時にの駐留が容認された。 その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51、暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校4年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した。 1952年の奈良の慰安施設RRセンターでは2500名の慰安婦がいた。 日本の運動側には「醜業婦」観があり、、たとえばYWCAのは『婦人公論』 1952年5月号 で「アメリカの寛大な統治を悦び、感謝しており」とする一方で慰安婦たち「卑しい業を廃めさせ」るよう要求したり、「パンパン」を「大方は積極的に外人を追いかけて歩き、ダニのように食いついて離れぬ種類の婦人」と述べたり、「あんなに悪性のパンパンに対しては、白人の方だって、あの位の乱暴は働きたくなりますさ」などと語るなど 、売春問題を買う男ではなく売る女性の方を問題としていた。 敗戦後日本において設置された RAA のうちのある慰安所では、和服女性150人をそろえてアメリカ兵を受け入れると初日に47人もの相手をした女性もいた 報酬は2ドル。 在韓米軍用慰安所(ジューシーバー) [ ] 詳細は「」および「」を参照 また近年、韓国でアメリカ軍を相手とするで働くフィリピン女性たちが人身売買の状況下に置かれている問題がある。 韓国では売春は違法行為であるがアメリカ軍相手の売春を行っているバーなどは当局の摘発対象外とされている。 アメリカ軍相手の売春を強要されているフィリピン女性たちは、フィリピンに進出している韓国企業によって韓国で歌手として働くためと称した募集に応じた女性たちである。 自身もこれらの女性たちは歌手、ダンサーになることを夢見て韓国に来たが売春を強要されていることを報じている。 フィリピン女性たちはヤンキー売春婦、コメで動くチビ茶色のファッキンマシーンなどの軽蔑的な呼称で呼ばれてきた。 1000人を超えるフィリピン女性、ロシア女性を米軍基地周辺のクラブで人身売買したとしてクラブ経営者が訴えられることもあったが韓国の裁判官は訴えを却下してきたが 、2002年にアメリカのが韓国に人身売買された女性たちが売春を強要されていることを報じると 、翌年からは監禁され売春を強要させられていた一部のフィリピン女性への賠償を命じる判決を出したり、フィリピン女性たちを監禁して売春を強制していた経営者に対しては、の判決を下すケースも存在するようになった。 2000年以降、韓国の売春宿に監禁されている外国女性などが多数火事で焼死する事件が相次いでいる。 これらの事件の存在は現代の慰安婦と米軍の関係を研究する学者たちの共同論文『Modern-Day Comfort Women:The U. Military, Transnational Crime, and the Trafficking of Women』にて公にされている。 2009年にアメリカ軍の機関紙であるは、韓国でジュースをクウォーター制で売る女性たちは売り上げ次第で店主から売春を強要させられていることを明らかにしている。 これらの状況に対して、フィリピン大使館はフィリピン女性たちが売春を強制されているバーの監視リスト作成したり女性たちの裁判を支援する動きを見せている。 2010年、は韓国の米軍基地周辺のバーで働く女性達の状況について、現在進行中のであるとする報告を行っている。 にはで高いドリンク代を支払うことは現代におけるの一つであるを支援することであるとする動画をに投稿した。 ベトナム戦争 [ ] までに、に進駐しているのキャンプごとに設置される。 米軍内部における性的暴行問題 [ ] を相手とする慰安婦の登録がに実施されたことを報ずる東亜日報1961年9月14日付 第二次世界大戦後、朝鮮半島はよりに移り、旧日本軍の基地周辺の公娼地区も引き継がれ、娼婦は「 洋パン(ヤン・セクシ)」 「 洋公主(、ヤンコンジュ、ヤンカルボ)」などと呼ばれた。 を背景に、1948年に建国されたは公式に慰安婦を募集し、正式名称として「 特殊慰安隊」と呼び 、また尉官将校だったの証言では陸軍内部の文書では慰安婦は「 第5種補給品」(軍補給品は4種までだった)と称されていた。 本部編『後方戦史(人事編)』(1956年)では「固定式慰安所-特殊慰安隊」とある。 朝鮮戦争後は、「 美軍(アメリカ軍)慰安婦( 美軍慰安婦)」 「 国連軍相対慰安婦(UN軍相對慰安婦)」 「 ( 정신대)・国連挺身隊」 とも呼ばれ、「ドルを稼ぐ妖精」「民間外交官」とも。 のの判決文では「慰安婦」を「一般的に日常用語において、売春行為をしている女性」と定義された。 また毛布一枚で米軍基地について回るという意味で「 毛布部隊」とも呼ぶ。 時は「 ディズニーランド」とも呼んでいた。 これら韓国における慰安婦の英語表記はかつては comfort girl だったが 、近年は comfort woman である。 韓国軍・在韓米軍慰安婦は一般に Korean Military Comfort Women と表記される。 ほかに special entertainer、 businesswoman、 hostess、 bar girl とも呼ばれた。 また、フィリピン人などの娼婦に対してジューシーガール( juicy girl)、エンタテイナー entertainer という言い方もされる。 概要 [ ] 後、朝鮮半島はにおかれ、1948年8月15日に大韓民国が、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が独立する。 1950年より南北朝鮮の間でが勃発、1953年7月27日に休戦する。 この朝鮮戦争中に韓国軍は慰安婦として「特殊慰安隊」を募集している。 また韓国はとの関係を緊密にし、やでは連合軍を形成したため、韓国の慰安所および慰安婦は米軍をはじめとする(UN軍)も利用した。 に韓国教授のが韓国陸軍本部が編纂した『後方戦史(人事篇)』(1956年)の調査 で、時にが慰安婦を徴集していたことを明らかにしたが、韓国の学会や運動団体からは韓国軍慰安婦はであるし、また「身内の恥をさらすもの」「日本の極右の弁明の材料となりうる」と警告し、韓国国防部所属資料室の慰安婦資料の閲覧は禁止された。 大将は韓国軍慰安婦は恥ずかしい軍部の恥部であるが事実であると証言している。 その後、新証言なども出され、のケースでは政府やアメリカ政府による強制があったとされている。 朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性は強制的に慰安婦にされることもあった。 さらに韓国軍のは北朝鮮でとにより慰安婦をおいていた。 韓国軍は慰安婦を「」と名付け、を公式に設置した。 金貴玉によれば、韓国軍慰安婦の類型には、軍人の拉致、強制結婚、型、昼はとして働き、夜には慰安を強要されたり、また慰安婦が軍部隊へ出張する事例もあった。 特殊慰安隊の設置理由は、兵士の士気高揚、性犯罪予防であり、これは日本軍慰安婦と同様のものであった。 計画は陸軍本部室が行い 、1950年7月には韓国政府は軍作戦識見を米軍を中心とした国連軍に譲渡しており、最終的な承認は連合軍が行ったとされる。 韓国政府・軍は慰安婦に対して「あなたたちはドルを得る愛国者」として「称賛」されたという。 設置時期は、韓国に韓国軍慰安所、に連合軍慰安所が設置され 、には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される。 地区には3ヶ所 、ほか、、、にも慰安所が設置された。 慰安婦は前線に送られる際には、にひとりづつ押し込めて、トラックで移送し、前線では米兵も利用した。 1953年7月27日のの休戦にともない各慰安所は3月に閉鎖された が、その後も存続した。 金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」としている。 朝鮮戦争後も売春斡旋業者による少女誘拐事件が発生している。 1956年4月には「売淫ブローカー」によって少女2名が誘拐。 また同1956年7月11日の東亜日報は「田舎の処女誘引 売春窟に売った女人検挙」との見出しで、少女を誘拐し売春を強要した容疑で老婆が逮捕されたと報道している。 、東光劇場で伊淡支所主催の慰安婦向け教養講習会が開かれ、800余名の慰安婦、第7師団憲兵部司令官、民事処長など米韓関係者が出席、慰安婦の性病管理について交流を行った。 同1961年、ソウル市社会局が「国連軍相手慰安婦性病管理士業界計画」を立案、9月13日には「UN軍相対慰安婦」(用慰安婦)の登録がソウル市警で開始された。 では韓国軍兵士を対象とした売春施設(慰安所)が設置されていたにもかかわらず、韓国軍兵士がベトナム人女性を多数し 、韓国軍が制圧した地区で殺害されなかった女性は、ほとんど慰安婦にされた。 その結果大勢の(𤳆大韓)という混血児を置き去りにしたことが米公文書に残されている。 朝鮮戦争(朝鮮戦争1950年6月25日-1953年7月27日)に入っても慰安婦を名目とした売春婦の募集と経営が行なわれており(例えば「1961年1月31日東亜日報新聞に『慰安婦教養講習伊淡支署主催』」との記事がある)、休戦後も韓国国内の売春は外貨獲得の手段としてほぼ容認された。 までは韓国人女性達は、韓国政府やアメリカ人により相手の売春を強制されていた。 その後、ロシア人女性やフィリピン人女性達が増加した。 朝鮮戦争時に設置された束草の慰安所は休戦後、の集娼地が形成され、1990年代まで軍の慰安所として機能していた。 以降の韓国では、アメリカ軍基地の近くで人女性達が、韓国人業者により売春を強制されている。 1990年代中ごろからまでに5000人のやフィリピン人女性達がさせられた上で売春を強制させられていた。 現在のアメリカ軍基地近接地で売春を強制させられている女性に占めるロシア人女性の比率は減少しているがフィリピン人女性の比率は増加している。 なお、韓国では現在はは違法行為である。 、の元慰安婦らが米軍と韓国政府に対して提訴した()。 原告の慰安婦らは韓国政府は米軍のためのだったと批判している。 9月には長として風俗街「ミアリテキサス」の取締りを行ったこともある漢南大学警察行政学科教授の金康子はの番組 で韓国では生計のために売春業を行う女性たちへの支援制度もなく、また警察力の限界もあるとして限定的な制度を導入すべきと主張した。 朝鮮戦争中に韓国では、ドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで前線を移動して回っていた。 後のにおいては、連合軍による軍政が敷かれ慰安所、慰安婦ともにアメリカ軍に引き継がれた。 アメリカの支援を受けて建国された韓国では、以降、韓国政府が韓国軍・米軍向けの「」を設立した。 に韓国の研究者金貴玉が、時の韓国軍にも慰安婦制度があったとし、韓国軍は1948年の政府の公娼廃止令に背いて、約3年間不法に公娼を設置・運営していたと発表して以降 、の実態調査も開始されたが公文書の閲覧が制限されてもいる。 (詳細は本項参照)。 、が南朝鮮(現韓国)での公娼制を廃止。 、韓国に軍慰安所の設置、に連合軍の慰安所の設置がされる• 、釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所の設置が許可される。 韓国軍慰安所が設置される(特殊慰安隊)。 韓国陸軍本部は韓国での慰安所の設置理由を以下のように説明している。 士気昂揚はもちろん、戦争という事実に伴う避けることの出来ない弊害を未然に防ぐことができるだけでなく、長時間にわたる報われない戦闘によって後方との行き来が絶えているため、この性に対する思いから起こる生理作用による性格の変化などによって鬱病、その他の支障を招くことを予防するために、本特殊慰安隊を設置させた。 陸軍本部軍事監室「後方戦史(人事編)」1956年、148頁• 韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は自殺や中毒により死亡することもあった。 9月の韓国保健社会省の性病保菌実態の報告では、接待婦の15. 国連軍による性暴力 [ ] 時には敵国ではない韓国において国連軍がソウル市北部の村で日中、を連れて女性を捜索し、発見後に強姦に及んだり、またジープにのって民家を訪れ女性をして性暴力をはたらいたり、韓国人兵士が韓国人女性に性暴力や性拷問をはたらいたといわれ 、また性暴力をうけたのは女性だけでなく、10歳位の男子がを強要され喉が破裂したこともあった。 娼婦たちは「ドルを稼ぐ愛国者」「真の愛国者」「ドルを稼ぐ妖精」と韓国政府から称賛された。 その後、謝罪と補償を求める女性たちもいるが 、韓国最高裁は売春である不法行為に基づく損害賠償請求であるとして棄却している。 1980年までに韓国における米軍相手の売春を生業としてきた女性は100万人を超えた。 1992年10月には、米兵のケネス・マークル Kenneth Markle が米軍クラブの従業員の尹今伊を殺害し、膣にコーラ瓶、肛門には傘が刺され全身に洗濯用洗剤がまかれたままの遺体で見つかるというが発生し、反米運動にまで発展し、翌1993年には駐韓米軍犯罪根絶運動本部が設置された。 韓国におけるアメリカ軍への売春を強制されていた女性達はアメリカ兵に残忍に殺害されることや、アメリカ兵によるとされる放火で命を落とすこともあった。 朝鮮戦争の時代 の時代には政府も、韓国軍と国連軍のための慰安所を運営した。 韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、韓国陸軍本部は特殊慰安隊実績統計表を作成していた。 部隊長の裁量で周辺の窟から女性を調達し、兵士達に補給した。 韓国軍によりトラックで最前線まで補給された女性達は、夜になると開店しアメリカ兵も利用したといわれる。 朴正煕政権(1963年 - 1979年) 1953年に朝鮮戦争が停戦して以後も慰安所は存続し、のでは、慰安婦への教養講習が伊淡支署主催で行われたことを報じている。 政権は性病を規制をする目的として、慰安婦をに所属させ、身元などを正確に把握させた上で相互監視を行わせる教育と管理システムを運営し、自治会長は韓国警察や韓国公務員によって選定されていた。 初、アメリカ軍は韓国政府に基地村浄化事業を行うよう要求した。 8月、吴致成が各に保健当局と協力して慰安婦の性病予防策を講じ教養を強化するように命令した。 モンキーハウス 慰安婦たちの写真や個人情報などはアメリカ軍も管理しており 、韓国におけるアメリカ軍相手の慰安婦は性病の疑いをもたれると韓国警察により(몽키하우스)と呼ばれる窓に柵のされた施設に留置され強制的に薬を完治するまで飲まされることとなっていた。 また、性病に罹患した女性達は治るまでの間は強制的に拘置所に隔離されていたと在韓米軍の性病報告に記録されている。 また、病気ではないと証明された場合には犬のようにタグを付けることを強制された。 韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は容易に行為の相手から見分けがつき易いように番号札をつけることを強制されていた。 韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は韓国政府から特別な講義をしばしば受け、「真の愛国者」や「ドルを稼ぐ妖精」と称賛されていた。 また、韓国政府は女性達に韓国を助けるために来た兵士達が満足するように清潔にしなさいと指導した。 全斗煥政権(1980年 - 1988年)• 大統領による基地コミュニティー浄化キャンペーンが実施されると売春婦とアメリカ兵との関係の発展を目指して、エチケット講義が行われるとともに頻繁に薬物療法が行われるようになった。 医師免許を持たない医者達の前で脚を広げることを強制され、抗生物質を打たれて死にいたる女性もいた。 女性達が逆らうと医者達に暴力を振るわれて監禁されることとなっていた。 総数 [ ]• の日本占領当時は日本女性55,000人であった。 韓国陸軍本部が1956年に編纂した公文書『後方戦史(人事編)』によると韓国軍慰安婦は1952年における4小隊に限ったケースだけでも89人の慰安婦が204,560回の行為を行わされていたとされる。 総数は不明である。 のソウル市警察局によると米軍相手の性売買女性は61,833名であり 、の韓国ではアメリカ兵相手の慰安婦として2万名以上が登録されていた。 末期にはでは30万人から50万人の慰安婦がいた Cynthia Enloeによる。 第3旅団(将兵4000名)ではベトナム女性60人が住み込みで相手した。 までに100万人超の韓国女性が米軍の相手をした。 利用料• の韓国の相場では、ショートタイムで2ドル、ロングタイムで5ドルであった。 固定的な性的関係を持つことによって月給をもらう女性もいた。 判決文によれば、当時に慰安婦が月5,000の収入を得ていた。 時のベトナムでは、料金は500(2ドル)で、女性の手取りは200ピアストル(0. 8ドル)で、残りは業者のものとなった。 では、料金は8(0. 08ドル)で1日に47人のアメリカ人の相手をした女性の手取りは2ドルであった。 在韓米軍慰安婦問題• 米兵との性的行為を1960年代から1980年代にわたり強制されたとして、当時の韓国政府指導者・韓国政府・米軍を、韓国の元慰安婦のグループが、アメリカの裁判所に告発、損害賠償を求める訴訟を起こした。 その他の国の慰安婦制度 [ ] 中華民国軍 [ ] 1952年から1992年まで「軍中特約茶店」または「軍中楽園」()、または電話番号から「831」()と呼ばれる慰安所があった。 金門島の跡地は「特約茶室展示館」 となっている。 シリア反政府軍 [ ] でを支えるために数百人の女性が慰安婦として従軍している。 イスラム戦士の慰安婦になる事は「性の()」と呼ばれ、配偶者以外の不特定多数の男性と性的関係を持つ事も「性の聖戦」の場合は正当な行為だとされる。 慰安婦を描いた作品 [ ]• 2002年2月24日. の2002年2月23日時点におけるアーカイブ。 2010年3月9日閲覧。 日曜時報 2002年3月26日323号 (朝鮮語)• 2004年9月3日. の2008年2月1日時点におけるアーカイブ。 2010年3月9日閲覧。 2002年2月26日. 2010年3月9日閲覧。 産経新聞 2015. 2015年3月29日閲覧。 の2013年9月28日時点におけるアーカイブ。 2010年3月9日閲覧。 1995年10月27日. 2012年7月8日閲覧。 中央日報. 2008年10月30日. 2010年3月8日閲覧。 2011年11月28日. 2012年7月9日閲覧。 デジタル大辞泉• 大辞林 第三版• 総務省 管轄法令• 昭和10年5月15日 社会局保険部長発各健康保険組合理事長宛 通知第339号「保健施設ニ関スル件」• 『広辞苑の嘘』光文社2001,pp210-211• :『広辞苑』が載せた「朝鮮人強制連行」のウソ。 から抄訳• 李娜榮 日本軍「慰安婦」と米軍基地村の「洋公主」 立命館言語文化研究 23 2 , 209-228, 2011-10-00• から抄訳。 145• 山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」ユン貞玉編『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』三一新書,1992年,p129. 齋藤茂「妓女と中国文人」(東方選書、2000年)p13• 齋藤茂「妓女と中国文人」(東方選書、2000年)p14• 「李能和全集2」韓国学研究所• 川村湊『妓生』p. 野村「賤民」の文化史序説(『いくつもの日本5』岩波書店、2003年所収)を補訂したもの)2012年11月15日閲覧• 川村湊『妓生』p. 韓国女性史編纂委員会『韓国女性史』第一巻、梨大出版部、1978年、p519-520• 40-43• 第2版、• 川村湊『妓生』p. 35-38• 『ソウル城下に漢江は流れる』(平凡社1987年),p147• 川田文子「戦争と性」明石書店,1995年。 p76-77• 44-51• 川村湊『妓生』p. 112-3• 川村湊『妓生』p. 113• 『妓生』作品社、2001年、p. 38-39• バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p287• ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p289-291• ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p300• ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p301• ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p304• 54-55• 189• 5 昭和6 「国際信義と公娼廃止」(神戸大学近代デジタルライブラリ)• , p. 190• 『天皇と朝鮮人と総督府』金一勉著、p38• , p. 202• 宋連玉『朝鮮植民地支配における公娼制』p56、「日本史研究」371号• (編)の『関東局施政三十年史』(1974年)• , p. 『朝鮮新聞』1911年4月19日記事• 1918年6月12日『京城日報』• 「日本の植民地支配と国家的管理売春-朝鮮の公娼を中心にして」(『朝鮮史研究会論文集』32集、1994年、pp. 37-88, 緑陰書房)• , p. , pp. 42-43• 三省堂 大辞林• , pp. 197-201• , p. 195• , p. 吉見義明『日本軍「慰安婦」制度とは何か』p45、p46岩波ブックレット• 吉見義明『日本軍「慰安婦」制度とは何か』p45、p46岩波ブックレット、油谷治郎七の「欧米列強風紀及性病法制画概観」• , p. 194• , p. 神埼清『売春』p26、現代史出版、1974• , p. 195• 報知新聞 1931. 5 昭和6 「国際信義と公娼廃止」(神戸大学近代デジタルライブラリ)• , pp. 108-109• , p. 108• , p. 109• 『日本売春史』新潮社,p149,2007年• , p. 146• , p. , p. 146• , p. 立命館言語文化研究• 2013年2月。 柴田修子「戦時性暴力の被害者から変革の主体へ」p. 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」p29. 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」p30. , p. 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