女 たち の シベリア 抑留。 シベリアに1000人近い日本女性が抑留されていた! 数々の賞を受賞した「NHK BS1スペシャル」の話題作がついに書籍化

女たちのシベリア抑留…小柳ちひろ著 文芸春秋

女 たち の シベリア 抑留

終戦直後、満洲や樺太などにいた軍人や民間人など60万人近い日本人がソ連によって連行された「シベリア抑留」。 その中に数百人から千人近い女性捕虜が存在したことは、長く歴史の影に埋もれていた。 関東軍の陸軍病院で勤務していた従軍看護婦や軍属として働いていたタイピスト、電話交換手、開拓団の民間女性、そして受刑者たちが、極北の地シベリアに送られていたのである。 その中には「女囚」として10年を超える抑留生活を送った女性や、日本に帰る場所もなく異国の地で人生を全うした者もいる。 帰国を果たした女性たちにとっても、故国の人々のまなざしは決して温かいものではなかった。 戦後70年以上、長く沈黙を守ってきた女性たちをインタビューすることに成功し、2014年にNHK・BS1スペシャルで放送されたドキュメンタリー「女たちのシベリア抑留」は、文化庁芸術祭賞優秀賞、放送文化基金賞奨励賞、ATP賞テレビグランプリ優秀賞、ギャラクシー賞奨励賞、NHK放送総局長特賞など、その年のドキュメンタリー部門の賞を総なめにした。 その番組を担当した女性ディレクターが綴る本格ノンフィクション。 ロシア側から初めて提出された女性抑留者の記録「登録簿」の内容も明らかになる。 1976年秋田県生まれ。 同志社大学卒業後、映像製作会社テムジンに入社。 戦争の時代に生きた女性たちに焦点を当てたドキュメンタリーとして、「女たちのシベリア抑留」 2014年文化庁芸術祭賞優秀賞他 、「NHKスペシャル 女たちの太平洋戦争 従軍看護婦 激戦地の記録」 2015年放送文化基金賞他 、「サハリン残留 家族の歳月」 2017年ギャラクシー賞 、「戦争花嫁たちのアメリカ」 2019年 を製作。 2015年度放送ウーマン賞受賞 本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです.

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「女たちのシベリア抑留」書評 忘れられた存在 帰国後も「壁」|好書好日

女 たち の シベリア 抑留

シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、の後、されしたらが、(ソ連)によって主になどへとして移送隔離され、長期にわたる抑留生活と的により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。 ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上る。 環境下で満足なや休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人がした。 このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362人。 このソ連の行為は、武装解除した日本兵のを保証したに反するものであった。 ロシアの大統領は(5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した。 ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている。 「」および「」も参照 では後半頃からなどのに過酷な強制労働が課せられたが、これは不足を補う側面もあった。 体制下の以降は()の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。 初期の労働環境は非常に劣悪であり、建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所ではからにかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高いには囚人の10. スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、でが労働者不足を嘆いた際に「の捕虜を使えばいい。 わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた。 ではかつてドイツが支払いのためのを市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された。 この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。 ソ連はのに加わっていなかったため、以降独自規定として戦時の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。 以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている。 これらの捕虜の多くは等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。 特にドイツ人の死亡率は高く、での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった。 経緯 [ ] ソ連軍侵攻と停戦 [ ] 第二次世界大戦末期の(20年)未明、ソ連はに対して、を破棄してをし、満ソに展開する174万人のソ連に命じて、・日本領北部に軍事した()。 8月10日には、も日本に対して宣戦布告した。 日本はにを通して降伏を声明したが、ソ連はには日本領南へ、にへも侵攻して占領した。 樺太では直後に、千島のでは8月22日に、日本から命令が下り、降伏した。 これらの行動は、ソ連・・のに基づくものであった。 当時非公開であったでは、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南の返還との引き渡し、においてはの回復および港や・に対する優先的権利の認定が記されていた。 日本がを受諾したのち、8月16日にはから即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。 8月17日に派遣された皇族・がに到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、総司令官大将とソ連極東軍司令官元帥は8月19日に東部満ソ国境の近くで停戦交渉に入り、頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。 満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。 日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。 また捕虜の扱いについては一切言及されなかった。 抑留の決定 [ ] スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員に下していたが、8月23日にはこれを翻し、「決定 No. 9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した。 関東軍密約説 [ ] 8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。 帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。 この報告書は関東軍参謀・の述懐によると、草地が関東軍総司令官・と関東軍総参謀長・の決定を受けて作成しソ連側に送付したものだという。 また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。 ただし、これを作成したという参謀・本人は、この文書が偽造されたものであると主張している。 なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間でが結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長・や近代史が専門のノンフィクション作家・らによって主張されているが、ロシア側はそのようなを公開していない。 またこの交渉に同行したは、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦には密約を結ぶ権限はなかったと反論している。 北海道代償説 [ ] 8月16日にスターリンは、で約束されていた・の占領のみならず、日本敗戦直後にに連絡し、の((当時)からを結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。 理由は、「日本によるによってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。 しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。 このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No. 9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい。 移送 [ ] 占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。 この際多数の死傷者が出たという。 また、このとき、日本人捕虜はへの帰還を望んだが、ソ連軍はを認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。 日本人捕虜は、まず満州の施設のを撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。 の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州・団の男性が続々とに集められた。 彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、に詰め込んだ。 行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり、したことが伝えられる。 また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵はダモイ(帰れるぞ)と叫び、捕虜を貨車に乗せたという。 抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。 一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある。 モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている。 移送先 [ ]• シベリア以外にも、や、、、、、、などソ連の勢力圏全域やにも送り込まれたという証言があるが、ソ連側の史料が全面提供されないなか、(現)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。 によるがソ連国内数か所において許可されているので、その進展にしたがいより正確な収容所拠点、抑留者数、死亡者数が解明されることと期待される。 ソ連側の史料が全面提供されないなか、厚生省(現厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。 厚生省作成地図には各地点の抑留日本兵の動員数、死亡者数が含まれるが、地名はカタカナのみで記されてあったため、米国、英国ならびにソ連において発行されたソ連地図を参照し、地名を特定した。 (厚生省援護局。 「昭和21年頃におけるソ連・外蒙領内日本人収容所分布概見図」『引揚げと援護三十年の歩み』厚生省。 1976年。 p56。 厚生省社会・援護局50年史編纂委員会。 「ソ連邦・モンゴル(外蒙古)内各地点死亡者発生状況概見図」『援護50年史』。 ぎょうせい。 1997年。 pp524-525。 A)Union of Soviet Socialist Republic. Compiled and drawn in the Cartographic Section of the National Geographic Society for the National Geographic Magazine. Grovesnor, Gilbert. Washington. 1944. B U. and Adjacent Areas 1:8,000,000. Published by Department of Survey, Ministry of Defense, United Kingdom. British Crown Copyright Reserved Series 5104. 1964. C USSR Railways. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. 1973. D USSR Railways. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. 1976. E Soviet Union. Produced by the Cartographic Division. National Geographic Society. National Geographic Magazine. Grovesnor, Melville B. Washington. 1976. F Union of Soviet Socialist Republic. Moscow News Supplement. Main Administration of Geodesy and Cartography under the Council of Minister of the USSR. 1979. 収容所での生活 [ ] シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境とが原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した (犠牲者数に関しては後述)。 一方、の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。 新聞として「」が発行された。 「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった。 またなどソ連のとなり、戦後日本でを行った者もいる。 共産主義者の捕虜は「」を行い、思想を持たない捕虜を「」「」と呼び、「反ソ分子」の執拗なや露骨なを行った。 彼らは捕虜達からと呼ばれた。 有名な者には 、 がいる。 また、抑留中に起きた事件としてがある。 共産主義の労働に対する、との違いゆえ、捕虜達の中にはを起こした例もある。 ウズベキスタン [ ] の構成国の一つであったでは、約23000人もの日本人捕虜が現在のの地に強制連行され、そこで強制労働させられた。 公式データによると、3000人から5000人もの日本人捕虜はや、から迄のの建設を命じられたという。 彼らはが無い中、、と共に厳しい肉体労働を強いられ、は手で整備しなければなかった。 彼らは毎日3食たった600グラムのパン一つしか与えられなかった中懸命に働いた。 のであった若者、ボキ・オタ Boqi Ota は「日本人は真面目に働いていた」と彼らの勤勉さを大いに評価した。 ハバロフスク裁判 [ ] 「」を参照 1945年(昭和20年)11月になっては関東軍のがシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。 (昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「」が成立した。 (昭和27年)にのが収容所を訪問した。 このときな者は営外作業に出され、重症患者は別のに移されるなどの収容所側によるが行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな町へを見に行った」と平然と応えている。 1955年(昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあったのらによる収容所の視察が行われた。 視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を的に扱っている」とするためのものであったが、調理場の鍋にあったを味見したは思わず「こんな臭いを、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。 過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握りつぶし、やでの報告で「"戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。 一日八時間労働で日曜は休日となっている。 食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった 」などとの説明を行った。 元収容者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長のらはで追及を受けている。 帰国 [ ] (昭和22年)から日ソが国交回復するにかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。 (昭和24年)、ソ連政府は本年5月から11月まで全員引き上げるだろうと発表。 その数を95000人とした。 この時点で連合国軍最高司令官総司令部と日本政府が把握していた抑留者数は、約40万8700人としており食い違いが生じた。 1950年(昭和25年)には、一部の引揚者の帰国が遅れたのは書記長の要請として、国会で問われたが起こった。 中華人民共和国への移管 [ ] 「」を参照 また、ソ連当局の勧誘を受けに関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった(ロシアの英字紙、シベリアン・タイムズによると、元日本兵が現地のロシア人女性と結婚するのは珍しいことではなく、のカンスクでは50人の元日本兵がロシア人女性と結婚したと言われている )、などで帰国せずにソ連に残留してした例(など)もある。 また、ソ連側から帰国を認められなかった例()もある。 ソ連にとどまった総数は約1,000人とみられ、2017年(平成29年)時点でもロシア北西部に、元で出身の田中明男が存命であることが明らかになった。 田中の回想によると、に入って抑留者の日本帰国が本格化すると、収容所幹部が「末端の兵士以外は、帰国すれば裏切り者として()される」と残留を勧めるようになり、信じて残留を決めた者もいたという。 女性抑留者 [ ] 1000人近い、、民間人の女性がいて、「自決用の青酸カリ」の小瓶を渡され持ち歩いていたこと等が、発行、小柳ちひろ著「女たちのシベリア抑留」で著されている。 犠牲者数 [ ] ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している。 アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。 シベリア抑留中にソ連ので日本人144人が銃殺刑の判決を受けたことが判明しており、うち33人への執行が確認されている(79人のその後は不明)。 日本のは2019年(令和元年)現在でも、などから提供された資料を基に、旧ソ連や満州で死亡して新たに判明した日本人の氏名などの名簿更新を続けている。 賃金未払い問題 [ ] 上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はなどで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた。 国家賠償訴訟 ウィキニュースに関連記事があります。 シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の訴訟が行われている。 このうち、では2009年(平成21年)10月28日に、「国による行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された。 シベリア特措法 旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法()」が、(平成22年)に本会議で可決。 法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。 「」の約200億円を財源に支給される。 遺骨収集事業 [ ] 終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、(現・)や民間の遺族団体などによって、が進められ、遺骨のなどによって2010年(平成22年)までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡された。 その後、2019年に厚労省は1999年から2014年の間に戦没者の遺骨収集事業で、終戦後にシベリアに抑留されて死亡した日本兵の遺骨約650人分を国内に持ち帰ったが、2018年に専門家の指摘を受けて16人分の遺骨のDNA鑑定をしたところ、日本人でないことが判明し、残る遺骨についても約600人分が日本人でない可能性があるということを認めた。 取違えの疑いを14年前に把握しながら、ロシア側と協議せず事実上放置していたため信頼関係を損ねたとして日本の遺骨調査団の派遣がロシア側の意向で中止になった。 モンゴル抑留の日本政府による遺骨収集帰還事業はモンゴル国内12か所から1,501柱収集された。 現地慰霊碑 [ ] 抑留被害者については「」を参照• 全国抑留者補償協議会(全抑協 1979年結成、シベリア特措法成立と会員の高齢化により2011年5月解散)• 近畿地区シベリア抑留者未払い賃金要求の会• 財団法人全国強制抑留者協会 抑留者による記録 [ ] 当事者による手記(小説は除く)• 『望郷と海 』、 1997年、筑摩書房• 伊藤政夫『マホルカ - シベリア抑留記』(2002年、)• 井戸邊正則『シベリヤヤポンスキーサルダート』(2007年、文芸社)• 『捕虜の文化』(所収『捕虜体験記(3)ウラル以西篇』ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会編、平文社、1984年 初版 、1998年 重版 )• 井上三次郎『地獄のシベリア抑留記』(2010年、文芸社)• 小川護『私のシベリヤ物語 - 捕虜生活三年間の青春』(2011年、NF文庫)• 川島一芳『シベリア抑留の軌跡 - 私にとっての戦争』(2000年、文芸社)• 後藤治夫『シベリア抑留記 - 奥三河の山里から』(2005年、春風社)• 後藤敏雄『シベリア、ウクライナ私の捕虜記』(1985年、国書刊行会)• 斎藤邦雄『シベリヤ抑留兵よもやま物語 - 極寒凍土を生きぬいた日本兵』(1987年、光人社NF文庫)• 佐藤友治『朝が来て知る捕虜の命 - シベリア抑留生活千余日』(2002年、文芸社)• 佐野巌『シベリア抑留1000日 - ある日系二世の体験記』(1999年、)• 鈴木祥蔵『シベリア捕虜収容所「ラーゲル」の中の青春 - 一学徒兵五十五年目の回想』(1999年、)• 宗前鉄男『北斗の下で - 私のシベリア物語』(2010年、)• 『極光のかげに - シベリア俘虜記』(1950年、)• 竹田正直『酷寒シベリヤ抑留記 - 黒パン三五〇グラムの青春』(2001年、光人社NF文庫)• 棚橋嘉信『東京ダモイ - 日本に帰る』(1997年、日本図書刊行会)• 萩原金八『俘虜記 - シベリアの詩』(2004年、文芸社)• 古川和夫『試練の八年間 - シベリア抑留』(2008年、文芸社)• 穂苅甲子男『シベリア俘虜記 - 兵士の過酷なる抑留体験』(2009年、光人社NF文庫)• 松井功『青春を埋めた初年兵の抑留記』(1995年、近代文芸社)• 皆川太郎『ダモイ - シベリアからの帰還』(2006年、光陽出版社)• 村山常雄『シベリアに逝きし46300名を刻む ソ連抑留死亡者名簿をつくる』(2009年、)• 森野勝五郎著・森野忠編纂『遺稿 我が抑留記』(2002年、文芸社)• 山川速水『ラーゲルの軍医 - シベリア捕虜記』(1984年、北風書房)• 山下静夫『画文集 シベリア抑留1450日・記憶のフィルムを再現する』(2007年、デジプロ)• 山本喜代四『シベリヤ抑留記 - 21世紀を拓く青少年たちへの伝言』(1999年、元就出版社)• 勇崎作衛『画文集 キャンバスに蘇るシベリアの命』(2010年、)• 他多数『シベリア慰霊訪問記』(1994年、1997年、1998年、全国強制抑留者協会) ユネスコ記憶遺産 [ ] 白樺日誌(シベリア抑留者が白樺の皮に書いた日誌・舞鶴引揚記念館) 「」に、に収蔵するシベリア抑留と引揚関係資料『舞鶴への生還 1945-1956 シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』が、2015年(平成27年)10月10日に登録された。 資料寄贈者の、安田清一は日本初の生存作家となった。 シベリア抑留に関連する作品 [ ] 小説• 『一週間』(2010年、新潮社)• ノンフィクション• 村尾靖子『クラウディアの祈り』(2009年、)• 井上こみち『氷の海を追ってきたクロ』(2010年、)• 神津良子・北野美子『氷海のクロ - シベリア抑留(語り継ぐ戦争絵本シリーズ)』(2011年、)• 村尾靖子・小林豊『クラウディアのいのり』(2008年、ポプラ社) 戯曲• 『』()• 『君よ生きて』• 鐘下辰男『クラウディアからの手紙』 漫画• 『凍りの掌』(2012年、) - 著者が実父のシベリア抑留体験を基に執筆• 『幻の豹 The panther in Ukraina 1950』(1995年、大日本絵画)• 『』(2003年 - 2006年、・) - 主人公の本多勇介が抑留された。 『』(1948年、作詞:増田幸治、補詞:、作曲:、歌:、中村耕造など)• 『』(1954年・1972年、作詞:、作曲:平川浪竜、歌:、など) 映画• 『異国の丘』(1949年、制作:、脚本:・北沢誠、監督:渡辺邦男)出演:・・• 『帰国(ダモイ)』(1949年、制作:・、脚本:、監督:)出演:・・・• 『私はシベリヤの捕虜だった』(1952年、制作:東宝、脚本:沢村勉、監督:・)出演:・• 『岸壁の母』(1976年、制作:東宝、脚本:村尾昭、監督:、原作:端野いせ)出演:・ テレビドラマ• 『』(2006年、)主演:・ その他• 脚注 [ ]• プレスリリース , 厚生労働省, 2019年12月6日 , 2019年12月6日閲覧。 2007年5月11日. 2011年8月7日閲覧。 2015年10月23日. 2016年8月23日閲覧。 , pp. 118. , pp. 121. , pp. , pp. 182. 訳 2005年. 立命館法学. 2012年4月8日閲覧。 、299p• , pp. 130. , pp. 132. 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女たちのシベリア抑留…小柳ちひろ著 文芸春秋

女 たち の シベリア 抑留

昭和20年8月9日。 日ソ中立条約の存在があるため、絶対にソ連からの攻撃はないと信じて、ソ満国境地帯に暮らす民間人に対し 突然ソ連の爆撃機や戦車などの地上軍が襲い掛かった。 日本軍は8月15日の終戦宣言により、武装解除したが、戦利品として約50万人が苦役のためシベリアに送られ、その苛烈な環境下、一割の5万人が命を落とした。 この、シベリア送りとなった日本人の中に、数千名の女性が居た。 本書は主として、日本赤十字、日本軍に所属していたプロの看護婦たちと、プロではないが看護婦として勤務していて女性たち(菊水隊)約150名の記録である。 行く先も知らされずに貨車や船に乗せられ、ダモイ(帰国)と称してシベリア送りとなり、苛烈な環境下、ソ連兵に牛馬のごとく追い立てられ、肉体労働に従事させられた。 なかにはソ連兵に連行され、そのまま帰ってこない女性もいた。 しかし、日がたつにつれ、彼女たちの看護婦としての能力と毅然とした態度により、ソ連軍看護婦として使役され 徐々にソ連側の信頼を得るに至った。 彼女たち、従軍看護婦は過酷な目に遭った女性もいるが、多くは当時の捕虜としては優遇され、やがて一二年のうちに帰国できるようになった。 しかし、最終章にて語られる村上秋子さんのように、当時の北朝鮮で芸妓として働いているうちに、スパイ容疑で逮捕され、ソ連島最北端、死の収容所として恐れられているマガダンの収容所に送られ、のちに釈放されても帰国の道を選ばず、シベリアの墓に葬られている人もいる。 著者は、これらの人々をソ連側公文書に基づき丹念に取材、足跡を調べ、帰国している女性がいれば会いに行って直接話を聞くなどして、貴重なルポルタージュを作成している。 著者は本件をNHKBS1スペシャルとして放映したものだが、それをさらに補充取材したものである。 このほかにも数々の優れた取材作品をドキュメンタリーとして作成放映し、多くのの賞をうけていることを付記しておきます。 第二次世界大戦後、60万人以上の日本人がソ連に抑留され、飢えと寒さと重労働の三重苦の下で6万人以上が亡くなった。 ソ連軍によって連行されたのは男ばかりでなく、女性も連行されていた。 軍人だけでなく、軍属や一般市民もスパイの罪を着せられ、連行された。 そして十分な裁判もないままに5年、10年あるいはそれ以上の懲役を言い渡され、ソ連各地の収容所で過酷な労働に従事させられた。 その中に女性もおり、彼女たちは看護婦として病院で働いたり、収容所で仕事をさせられたりしていた。 そして生き残った人たちのほとんどは日本へ帰ってきたが、日本へ帰らずに、あるいは帰れずにソ連にとどまった人もいた。 もちろん彼ら、彼女らとて日本へ帰りたいとの思いはあったのだが…。 戦争は弱い立場の女性が真っ先に犠牲になる。 ソ連軍に女性を差し出し、生き延びた人たちもいた。 ぜひ若い人たちに進めたい本である。 女性がシベリアに抑留されていたとは知らなかった。 綿密な取材を元にNHKスペシャルを2014年に放送したが、その5年後に詳細な本にまとめたもの。 確かに良く取材していると思うが、ほとんどが看護婦の足跡を追ったものであり、待遇は比較的恵まれていたようだ。 しかし資料の残っていない女囚のことには部分的にしか触れられていないが、かなり過酷な運命を送ったのだろう。 この本の物足りないところは、ソ連軍の強姦や残虐行為などの事実がオブラートに包まれた表現になっているところだ。 帰還者やその家族に配慮しているのだろうが、もっと事実を生々しく書いてほしかった。 それがジャーナリズムではないのかと思う。 長々と書いている割には少し中途半端な感じがする。

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