さん け べつ ヒグマ 事件。 【深夜に読みたい】日本史上最悪のヒグマによる獣害~三毛別羆事件~

鼻息がかかる距離でヒグマに遭遇した私が、専門家に対策を聞きに行く

さん け べつ ヒグマ 事件

これは、今から100年ほど前の1915年(大正4年)12月9日~14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢(とままえぐんとままえむらろくせんさわ)周辺で発生した、 ヒグマによって死傷者12名(胎児含む)を出した、未曾有の大事件の全貌である。 事件初日 ヒグマに襲われた開拓農家の復元地 始まりの朝 当時ここの村には15戸の開拓者たちが生活していた。 12月9日、三毛別川上流にある、寄宿者含む4人が暮らす太田家にて、事件は発生したのである。 同日の午前、太田家の当主、太田三郎と、同家に寄宿していた長松要吉は、生業の伐採等のため、外へと出掛けていた。 三郎の内縁の妻である阿部マユと、太田家に預けられていた少年の蓮見幹雄は小豆選別作業をしならがら、留守番をしていた。 太陽が最も高く登った頃、要吉が食事のために家へ戻ってくると、幹雄が土間の囲炉裏の傍にポツンと座っていた。 要吉「ただいまー、幹雄ー。 あれ、寝てるのかー?山で良い物見つけたぞー!」 幹雄は自分を驚かすために狸寝入りをしているのだろう、と考えていた要吉が、大きな声で幹雄に話しかけていた。 幹雄の肩に手をかけたその時、要吉はあまりにも信じられない目の前の光景に、戦慄することとなった。 なんと、そこに無残な幹雄の姿があった。 幹雄の顔の側面には、大量の血が付着し、喉元が何者かによって剥ぎ取られていたのだ。 そして、側頭部には親指大の穴が開けられていたのである。 要吉は、恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、声が響く部屋の中には、幹雄の遺体と事件の痕跡だけが異臭とともに佇んでいるのであった。 現場の様子から、事件発生からあまり時間が経っていないようであった。 要吉は三郎と村人たちに助けを求めるため、家を飛び出し、下流へと走ったのである。 抵抗の痕跡 三郎と村人たちが現場についた時、この悲惨な状況に、ただ嘆くしかなかった。 ふと見回すと、村人たちは、窓を破り侵入し囲炉裏へと向かうヒグマの足跡に気づくことになる。 この時、初めて村人たちは、自分たちの置かれている危険な状況を把握した。 見つけた足跡から、ヒグマの仕業であると認識し、その先には、まだ火の消えていない薪がいくつか転がっている。 そして持つ部分が折れた血染めのまさかりがあったのだ。 部屋中を回るように残っていたヒグマの足跡は、部屋の隅に続いており、そこは鮮血が水たまりのようになっていたのである。 それは、燃える薪やまさかりを使い、深手を負いつつもヒグマから必死に逃げるマユが、抵抗虚しく捕まり、悲惨な最期を迎えたことを物語っていた。 そこからヒグマは、マユを引きずりながら、侵入経路に使った窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪がこびりついていたという。 村人たちには、もはや一刻の猶予もなかった。 その日のうちに、六線沢村の斉藤石五郎が使者役として、30km離れた苫前町の警察へ助けを求めるため出発した。 成人男性の平地での歩行速度がおよそ時速5kmであると言われている。 しかし真冬の北海道、斎藤石五郎は積雪状態の中10時間以上もかけて歩いたはずだ。 向かうのに半日以上、そして苫前町にて、助けと共に戻ってくるまでは数日はかかることを村人たちは覚悟していただろう。 捜索隊の奪還作戦 事件発生から翌日の朝、隣村にある三毛別の村長を交え、30人の捜索隊が結成された。 そして、ヒグマに奪われたマユの遺体を奪還するため、深い雪の積もる山の中へと捜索隊は足を進めた。 頼もしいことに、村人の中に銃器を持つものが5人もおり、持たないものはクワやカマなど手に持っていた。 昨日の足跡と血痕を追って150m程進むと、数十メートル先にヒグマの姿を発見することとなる。 その時、村人たちは自分たちの戦う相手が、未だかつて誰も見たことのない程の、巨大な怪物であること知るのである。 このヒグマの体長は 約270cm、立ち上がると 約350cmもの高さで、後に判明した体重が 約380kgである。 一般的なヒグマの体長が約180cm、体重が約200kgであることを考えると、この場で村人たちが身の毛がよだつ思いをしたことは間違いないだろう。 ここでひるんではいけないと、村人たちは銃口をヒグマに向ける。 しかし5丁のうち発砲できたのは、たった1丁であり、その銃弾ですら的はずれな方向へと飛んでいったという。 これは、致し方ないことなのである。 彼らの本業は農家であり、銃器の手入れや鍛錬などしているはずもないのだ。 この時、頼りにしていた銃器が役に立たなかった以上、村民にとってヒグマから自衛する手段は消滅したことに等しいのである。 捜索隊に襲い掛かってくるヒグマ。 為す術のない村人たちは、その場でバラバラに逃げていく。 しかし、ヒグマは彼らを深く追うことはせず、逃げたため、捜索隊は事なきを得た。 ヒグマの執念 銀世界と真紅の鮮血 翌朝、改めて周囲を探した捜索隊は、変わり果てたマユの遺体を発見するに至る。 血に染まった雪の一角に、 頭骨と頭髪の一部、ほとんど食い尽くされたひざ下の両足だけが転がっていたのである。 捜索隊は、この遺体を拾い上げ、太田家に持ち帰った。 この行動が後に、この事件をより悲惨なものにする引き金になるとはつゆ知らず。 再び襲来 その夜、太田家では、幹雄とマユの二人の通夜が執り行われていた。 多くの者は、ヒグマを恐れ、ごく少数での参列者となっていたようだ。 この通夜のしめやかな空気を、突如引き裂くように、あの黒い怪物は姿を表したのである。 そう、あのヒグマが再び太田家を襲ったのだ。 棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。 混乱の中、ある男はあろうことか自身の妻を押し倒し、踏み台にして自分だけで梁の上に逃れた。 以来、夫婦の間では喧嘩が絶えず、夫は妻に一生頭が上がらなかったという。 この騒ぎの中でも、気力を絞って石油缶を打ち鳴らしてヒグマを脅す者に勇気づけられ、銃を持ち込んでいた男が撃ちかけた。 さらに300m程離れた中川孫一宅で食事をしていた50人ほどの男達が、物音や叫び声を聞いて駆けつけたが、その頃にはヒグマはすでに姿を消していた。 しかし、これはヒグマの習性によるものだと考えられている。 捜索隊が見つけ持ち帰ったマユの遺体。 それはヒグマが雪をかぶせ、保存食にしていたものだったのだ。 ヒグマにとってマユの遺体は、自分のものであり、大切な食料である。 それらを奪われたことに怒り、取り戻しにやってきたのだ。 ヒグマの嗅覚は、 犬の100倍と言われている。 その嗅覚を使えば、血の匂いを嗅ぎつけ、マユの遺体の在り処を見つけ出すことなど、赤子の手をひねるようなものだろう。 「腹破らんでくれ、喉食って殺してくれ 」 太田家を再び襲ったヒグマは、それだけでは飽き足らず、討伐隊を待つ者たちが集まる明景家へと向かっていた。 そこには、明景家の女子供 妻・ヤヨ、力蔵、勇次郎、ヒサノ、金蔵、梅吉の6人と、村長の指示の下、避難してきた斉藤家の女子供、妻・タケ、 巌、春義、そして護衛係の要吉、合計10人がいた。 他の護衛は、腹ごしらえとして外出しており、太田家にヒグマが再び襲われたとあって、明景家に大人の男は要吉だけが残っている状況になっていた。 太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分頃、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。 ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉は無い。 その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。 かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。 ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。 そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついた後、3人を手元に引きずり込み、ヤヨの頭部をかじった。 だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。 追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。 要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。 ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。 この時、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気付いたヒグマは彼女にも襲いかかった。 居間に引きずり出されたタケは、 「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」 と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。 ヒグマに人間の言葉が通じるはずもない。 しかし、あまりにも無残である。 ヒグマに食べられることだけでも想像を絶するというのに、胎内に子を宿している母の気持ちとしては救いようのない絶望のみが、心を支配していただろう。 ヒグマが明景家を襲っている最中、50名の討伐隊が到着した。 ヒグマの存在を確認した彼らは、松明などで焼き払い討ち取ろうとするいのだが、生存者の声が聞えることもあり断念。 結果、この時に討伐はできなかったのである。 のちの証言によると、現場には「 ガリガリ、コリコリ」などの人間の骨が砕ける音が、周囲に聞えるほどに響いていたという。 中を見た男の報告として、こういったものが残されている。 飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。 上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、その時には少し動いていたという。 しかし一時間後には死亡した。 力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。 ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった。 急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。 日露戦争帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた。 巌は肩や胸にかみつかれた傷を負い、左大腿部から臀部は食われ骨だけになっていた。 その後、ヒグマ襲来の連絡は、北海道庁のもとにまで届き、北海道庁警察部保安課から羽幌分署長の菅警部に討伐隊の組織が指示された。 多くの協力を集め、ヒグマ捜索が行われるのだが、この時ヒグマは姿を表さなかった。 後にヒグマの習性を利用した待ち伏せ、つまり 遺体をおとりに使う作戦を施行するが、ヒグマはその気配を察知し、近くまで来たが、すぐ森へと引き返し、失敗に終わったという。 事件発生から4日後 事態の収拾の兆しがないまま迎えた5日目。 ついに陸軍の一隊が投入されることとなった。 この日もヒグマは勢い劣ることなく、避難後である村民のいない民家を次々と襲い、家畜や食物を食い荒らしていた。 更に寝具や服をズタズタにしており、特に女性が使ったものに、異様なほどの執着をみせていたという。 人肉の味、特に弱い立場にある女子供を捕食したことにより、これらの存在が美味であると学んでしまったのであろう。 ヒグマの最期 12月14日 この時になると、ヒグマはエサとなる女性が見当たらず激怒していたのか、むやみやたらに家に忍び込むなどの行動を見せ、警戒心は薄くなっていたという。 10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳)という熊撃ちがいた。 鬼鹿村温根 現在の留萌郡小平町鬼鹿田代 に住む兵吉は、若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽と日露戦争の戦利品であるロシア製ライフルを手に数多くの獲物を仕留めた、天塩国でも評判が高いマタギだった。 彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、だれもが悔しがった[3]。 孫によれば、 兵吉は 時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという。 兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。 ヒグマは頂上付近でミズナラの木につかまり体を休めていた。 その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在には全く気づいていない。 音をたてぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。 銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。 しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。 兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。 12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの屠(ほふ)られた姿だった。 北海道庁が動きだしてからの3日間で動員された討伐隊員は、のべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にもなるという。 ヒグマ一頭を討伐するものとは、思えないほどの数である。 しかし、人間をそれほどまでに脅かすほどの、獰猛さと狡猾さを、このヒグマは備えていたのだろう。 「サバサキの兄(あにい)」によって、仕留められたヒグマではあるが、彼がいなければ、もっと多くの被害者を出しただろう。 野生の動物、獣にとって我々は、時として、ただのエサにすぎないのである。 原因は我々に? これほどまでに、このヒグマが我々に牙を剥く原因となった理由は、人類が居住区を開拓していく中で、野生動物と人間の活動範囲が重なった結果であると言及されている。 もしやこれは、人類が触れてはいけない自然を侵しはじめたことを意味するのかもしれない。 開拓は進み、人類は今やいたるところに住んでいる。 人類には、火星や月への移住計画、地下開発、天空の住居、様々な計画が存在する。 このヒグマのように、人類を脅かす存在を、我々が自らの手で生み出す可能性は少なくないはずである。 あなたが愛してやまないペットや、身近にいる動物たちが、もし人肉の味を覚えてしまったら・・・。 我々が思うほど、人類は屈強ではないのかもしれない。 参照元:、、 この記事を友達にシェアしよう!

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【慟哭】頭からバリボリと人を食べるクマ~北海道のあの事件や熊本のあの事件など・・・

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三毛別羆事件をわかりやすくご紹介します

さん け べつ ヒグマ 事件

事件の経緯 巨大ヒグマの出没 1915年()11月初旬のある夜明け前、の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。 飼い馬が驚いて暴れたため、そのときの被害は保存食のとうもろこしに留まった。 村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田富蔵(いけだ とみぞう)はぬかるみに残った足跡の大きさ(約30cm)に懸念を持った。 11月、ふたたびヒグマが現れた。 馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から2人のを呼び、3人でることにした。 30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。 その夜、長男・富吉 (とみきち)や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(かめじろう・当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。 たちは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。 さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。 引用 最初の惨劇 秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷するさまざまな作業に追われていた。 のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男達の多くは出払っていた。 12月9日の朝、川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(ながまつ ようきち、当時59歳。 通称オド)が一足早く仕事に向かい、当主の(おおた さぶろう、当時42歳)も氷橋(すがばし)に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部マユ(あべ まゆ、当時34歳)と太田家に養子に迎えられる予定であった蓮見幹雄(はすみ みきお、当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。 同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。 ふざけてたぬき寝入りをしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手をかけてのぞき込んだ。 そのとき、要吉は幹雄の顔下に流れ出た血の塊と、何かで鋭くえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。 側頭部には親指大の穴があけられ、すでに幹雄は息絶えていた。 要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。 ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、の架橋現場に走った。 駆けつけた村の男たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。 入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。 トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。 足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。 ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。 それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。 そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。 要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きのが転がっていたという。 そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。 また、午前10時半過ぎにの村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。 彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、が獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、そのときは特に騒ぎ立てなかった。 これらのことから、事件は午前10時半ごろに起こったと推測された。 事件の一報に村は大騒動となった。 しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置したころには午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。 男達は太田家から500m程の明景安太郎(みようけ やすたろう、当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。 ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、取り急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村 現・力昼 の蓮見家への連絡を取らなければならない。 しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。 太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤石五郎(さいとう いしごろう、当時42歳)が引き受けることになった。 太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・鬼鹿)へ外出しなければならない。 明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(いわお、当時6歳)、四男・春義(はるよし、当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。 引用 第2の惨劇 そのころ、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(りきぞう、当時10歳)、次男・勇次郎(ゆうじろう、当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(きんぞう、当時3歳)、四男・梅吉(うめきち、当時1歳)の6人と、斉藤家から避難していた妊婦のタケ、巌、春義の3人、そして要吉の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。 前日の太田家の騒動を受け、避難した女や子供らは火を焚きつつおびえながら過ごしていた。 護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ再出没の報を受けて出動していたため、男手として残っていたのは要吉だけで、主人の安太郎は所用で鬼鹿村へ出かけており不在だった。 太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。 太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分ごろ、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。 ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉はない。 その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。 かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。 ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。 そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついたあと、3人を手元に引きずり込んでヤヨの頭部をかじった。 だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。 追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。 要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。 ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。 このとき、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気づいたヒグマは彼女にも襲いかかった。 居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた[7]。 川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。 そこへ重傷のヤヨと子どもたちがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。 重傷を負いながらも脱出してきた要吉を保護したあと、男たちは明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。 中からは、タケと思われる女の断末魔のうめき声、肉を咀嚼し骨を噛み砕く異様な音が響き、熊の暴れまわる鈍い音がした。 一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供達の生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。 一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。 裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破り表で待つ男たちの前に現れた。 先頭の男が撃とうとしたがまたも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは姿を消した。 ガンピ(シラカバの皮)の松明を手に明景家に入った者の目に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。 上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという[8]。 しかし1時間後には死亡した。 力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。 ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった[8]。 急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意にの声があがった。 帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた[注釈 5]。 巌は肩や胸に噛みつかれて傷を負い、左大腿部から臀部は食われて骨だけになっていた。 の全15戸の住民は、にある分教場(その後、小学校になるが廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。 巌は母・タケの惨死を知るすべもないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えた。 この2日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。 重傷者たちは翌日さらに3kmの家に移り、古丹別の沢谷医院に入院したのは12日のことだった。 引用 2日間で7名(内、胎児1名)が犠牲に 重症は3名 ヒグマの最期 空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。 銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急いで討伐隊を差し向ける決定が下された。 一行の他に、10日の深夜に話を聞きつけてに入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳。 小説『』では山岡銀四郎)という熊撃ちがいた。 鬼鹿村温根(現在の鬼鹿田代)に住む兵吉は、若いころに鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽との戦利品であるロシア製ライフルを手に数多くの獲物を仕留めた、でも評判が高いだった。 彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、誰もが悔しがった。 孫によれば、(兵吉は)時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという。 兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。 ヒグマは頂上付近での木につ体を休めていた。 その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在にはまったく気づいていない。 音を立てぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。 銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。 しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。 兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。 12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの死骸だった。 引用 ヒグマを倒したハンターは、山本兵吉さん ヒグマの特徴 ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2. 7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた大物であった。 推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。 これほど特徴のある熊を誰も見たことがないという。 隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者などさまざまだった。 やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。 終わってみると12日からの3日間で投入された討伐隊員はのべ600人、犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった。 ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。 しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数でそりを引き始めた。 すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた。 事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わりそりを引く一行を激しく打った。 言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。 この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。 引用 8歳ほどのヒグマで全長はなんと約3mにも及ぶ! 猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半かけてヒグマの死骸は青年会館に運ばれた。 から来たの夫婦は、「このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ」と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。 あるは、「でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」と言った。 山本兵吉は、「このヒグマが天塩での女を食い殺し、三人のに追われていた奴に違いない」と述べた。 解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみをあらわにした。 犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味はよくなかったという。 皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた。 その後、肝などとともに50円で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈られた。 毛皮や頭蓋骨は消息不明である。 引用 ヒグマの行動について ・火を恐れない 事件発生後、村民は火を焚いてヒグマを避けようとしており、人々が明景家に避難した際[22]や分教場に退避する際に多くの焚火が燃やされたこと[23]が記録されている。 これらの行動は一般に言われる「野生動物は火を怖がる」という風説を信じたものだが、実際は太田・明景両家の襲撃にみられるように、ヒグマは灯火や焚火などに拒否反応を示すことはない。 ・執着心が強い 事件はこの定説を裏づけている。 トウモロコシを何度も狙っている点や、以前に複数の女を食い殺したヒグマがでも女の衣類などに異常な執着を示している点からも確認できる。 また、阿部マユを食害した際に食べ残しを雪に隠したこと、太田家に何度も出没したことなども同じヒグマの特性による。 その一方で、馬への被害は皆無だった。 また、このヒグマは女や幼い男の子の肉の味を覚えてしまったことも原因である。 ・逃げるものを追う 明景ヤヨらがを得た理由は、ヒグマが逃げるオドに気を取られたためである。 このように、たとえ捕食中であってもヒグマは逃避するものを反射的に追ってしまう傾向にある。 ・死んだふりは無意味 明景家の惨劇において、気絶し無防備に横たわる明景ヒサノと、結果的には助からなかったが胎児はヒグマに攻撃されなかった。 これは、ヒグマが動かないものを襲わないというわけではなく、そのときにただ単に他に食べ物があっただけと考えられる。 ほかにも、ヒサノは女だがまだ幼く、ヒグマは大人の女の肉を好んだ可能性もある。 事実、妊婦を襲ってはいるが、胎児は襲わなかった。 ・一度人間の味を覚えた個体は危険 一般に熊は人を恐れ、人を襲うのは突然人間と出会った恐怖心からと言われている。 それを防ぐためには鈴などを鳴らして人間の存在を事前に知らせ鉢合わせする機会を減らせばよいとされる。 だが、人間の無力さと人肉の味を知った熊の個体は、人間を獲物と認識するようになる。 その場合、鈴の音などを鳴らすと獲物の存在を知らせることになり、かえって危険である。 引用 クマを背に逃げると助からない!.

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