なめ とこ 山 の 熊 あらすじ。 naoko_note: 「なめとこ山の熊」____死との融和_破綻した予定調和の世界

宮沢賢治 なめとこ山の熊

なめ とこ 山 の 熊 あらすじ

小十郎は貧しくて、一家の生計をたてるために、しかたなく鉄砲で、熊を撃って殺します。 そのとき、死んだ熊に対して、小十郎がこう語りかけています。 おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。 おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。 ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。 仕方なしに猟師なんぞしるんだ。 てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。 この次には熊なんぞに生れなよ。 」 そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。 いのちの尊さは、生きとし生けるものものすべて同じです。 しかし、人間は、生きていくために、動物のいのちを奪ってしか生きられません。 いのちは他のいのちを自分の血肉として生きています。 小十郎には、熊を殺生することでしか生きられない「いのちの悲しみ」と、それがゆえに、あふれてくる「いのちへの慈愛」があります。 ですから、あるときなどは、小十郎は、母熊と小熊が、月の光のなかで咲いている花を見て話しているのを聞いて、熊を撃つのをためらっています。 「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花。 」 「なぁんだ、ひきざくらの花だい。 僕知ってるよ。 」 「いいえ、お前まだ見たことありません。 」 「知ってるよ、僕この前とって来たもの。 」 「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう。 」 「そうだろうか。 」子熊はとぼけたように答えました。 小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。 風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退りした。 小十郎には、この母熊と小熊が愛しくなって、殺せないのです。 熊のことが心の底では好きなのです。 また、あるときは、ある熊が小十郎に語りかけ、二人は話しあっています。 「おまえは何がほしくておれを殺すんだ。 」 「ああ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。 それも町へ持って行ってひどく高く売れると云うのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。 けれどもお前に今ごろそんなことを云われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ。 」 「もう二年ばかり待って呉れ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。 二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。 毛皮も胃袋もやってしまうから。 」 小十郎はじっと考えました。 すると熊は背中をみせてゆっくり歩き出します。 小十郎がいきなり熊の背後から鉄砲で撃ったりしないことがわかっているかのように、ゆっくり歩いて去っていくのです。 そして時を経て、それからちょうど二年後のある朝に、あの熊が横になっていました。 そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。 小十郎は思わず拝むようにした。 このように、小十郎は、その一匹の熊のやりとげたいこと、熊のいのちのかけがえなさをわかる人でした。 その一方で、くまとりの小十郎は、街に熊の毛皮や肝を売りにいくときは、商売人に安くたたかれ、頭が上がらず、小さくなっています。 そして最後には、この小十郎は、大きな熊に殺されてしまいます。 そのとき、大きな熊は小十郎に語りかけ、小十郎も熊たちに自分の思いを告げています。 「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった。 」 もうおれは死んだと小十郎は思った。 そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。 「これが死んだしるしだ。 死ぬとき見る火だ。 熊ども、ゆるせよ。 」と小十郎は思った。 なめとこ山の熊たちを殺してきた小十郎が、今度は、その熊に殺されてしまう。 本当の意味で、「支えあって生かされている」いのちの現実を、ここに賢治は教えてくれています。 その物語の最後のシーンでは、熊たちが、半分座ったまま死んだ小十郎の遺体を、輪になって取り囲んでいます。 そこには、いったいどういう意味があるのでしょうか。 「熊ども許せよ。 」そう言って死んでいきます。 それから三日目の晩、熊たちは小十郎の遺体をなめとこ山の頂上の岩の上に置きまして、お通夜をする。 彼のまわりに集まって、熊たちが輪になって。 賢治は、この作品の最後を次のように結んでいます。 「それらの黒い大きなものどもは、琴の星(昴でしょうか)、空の真ん中に来ても、もっと西に傾いても、じっと化石のように動かなかった」と、お通夜をしているのですね。 ・・・・・・とても私が勝手にこの童話を加減することを許さん、何か深さと厳しさ、それから広さを持っている作品と思います。 この作品をつらぬく一本の太い線、それを私は宿業と言ってみたいのです。 ・・・・・・宿業のめざめが開いてくれる交わりこそ連帯の世界原理であり、平等の地平を開く根源的感覚であり、それが宿業のめざめだと思うわけであります。 まさに一如平等、熊と小十郎との一如平等の、怨親平等の世界がこのように具象化している、表現している作品を私はまだ知りません。 「宿業」とは、いのちあるすべてのものが、時代を超え、地域を超えて、相互に支えあって生かされているとともに、実際には、はるかなる過去から、相互に傷つけあったり、殺しあったりしてしか生きられない姿を意味します。 熊を愛する小十郎が、生計を立てるために、しかたなく熊を鉄砲で撃ち、その熊の皮と肉を街で売っていることも、宿業の姿です。 反対に、熊が、小十郎に「おまえを殺すつもりはなかった」といいながら、小十郎を殺すのも、宿業の姿です。 殺生してしか生きえないいのちの現実にきづき、「熊ども許せよ」と涙することが、真実にめざめた誠実な生き方なのです。 また、「怨親平等」とは、愛と憎しみを超えて、自分にとって都合のよい愛すべき者も、都合の悪い憎むべき者も、まったく同じ重さをもったいのちであり、すべてが同じように願われ、かけがえのないものとして見抜いていく心です。 熊たちは小十郎の遺体をいきなりむしゃむしゃと食べたりはしませんでした。 熊たちは、自分たちの仲間を鉄砲で撃ちながらも、愛してくれた小十郎のことをよくわかっていました。 天に輝く星が西に傾いても、夜の間ずっと、小十郎の死骸のまわりを、熊たちが輪になって囲み、ただじっと化石になったかのように、小十郎を見守っています。 ひとつのいのちが終わりを迎えたとき、人も動物も、生きとし生けるものすべてに、黙ってそばにいるお通夜が必要であるように感じてなりません。 死別の悲しみから、私たちははじめて亡くなった存在に愛され、支えられていることを知ることができるからです。 【註】• 「なめとこ山の熊」 『宮沢賢治全集7』 58-70頁。 ちくま文庫。 『新校本 宮澤賢治全集』 第九巻。 筑摩書房。 円日成道・田中郁朗著 『もえいづる芽』 「なめとこ山の熊」 58-59頁。 永田文昌堂。 堀尾青史は、「こうして憎しみあうことなく命のやりとりをした同士は、生きる悲しさをもっとも理解しあって、ある高い心の境地に到り得たと察しられます。 」とわかりやすく解説している。 『フォア文庫 なめとこ山のくま』所収。 岩崎書店。

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なめとこ山のこと

なめ とこ 山 の 熊 あらすじ

仏教徒だった賢治の「人は他者の命を奪わなければ生きていけない」という摂理への葛藤が込められた作品。 賢治は「ビジテリアン大祭」において「本当にやむを得なければ泣きながらでも動物を食べてもいい。 その代わり自分が食われる立場に陥った時は抵抗してはならない」という一応の結論を出している。 「なめとこ山~」はそれを裏付けるものと言っていい。 熊狩りの名人小十郎は生活のため、二束三文にしかならない熊の毛皮と胆を得るためだけに熊を殺し続ける。 彼にはそれ以外に生きるすべは無く、「今度は熊なんぞに生まれるなよ」と供養しながら、それこそ泣きながら熊を狩る。 そして最後は熊の返り討ちに遭いあっさりと死ぬ。 こんなやり方でしか人間は自然と共存できないのか、という賢治の忸怩たる思いが興味深い。 そんな人間に対し、熊のほうはむしろ好意を寄せている。 日々仲間たちが殺されていると知りながら小十郎を好きで好きでたまらないなめとこ山の熊たち。 正当防衛で彼を殺した熊でさえも「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」と咆哮する。 彼らには弱肉強食の摂理が染みついているからこそ、無条件に小十郎を同じ山の友として受け入れることができる。 自然界の姿を体現したかのような熊たちこそ、賢治が夢想した悟りの境地「デクノボー」だったのかも知れない。 それは野原、山、風、雲、果てはでんしんばしらに至るまで、森羅万象から「これらのわたくしのおはなし」をくみ取ることのできた賢治ならではの視点だと言える。

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なめとこ山の熊とは

なめ とこ 山 の 熊 あらすじ

この記事を読むのに必要な時間は約 9 分です。 こんにちは、このかです。 娘が成長すると、改めて「女性の生き方・働き方」について考えさせられます。 娘の将来は、もちろん母として応援しますが、自分軸で生きたい私は、まだまだ生きている限り自分にも可能性があると思うのです。 女性の一生は、子供が独立するときに一つの大きな区切りを迎えます。 今は、それに向かって準備をする時期だと思っています。 「仕事」と一言で言っても、いろんなものがありますね。 「仕事」と「労働」、この2つは同じようで実は異なるんですよ。 多くの文学者や思想家がその違いについて書いていますが、私が真っ先に思い浮かぶのは、宮沢賢治の 『なめとこ山の熊』です。 すごく短いお話なので、あらすじを説明するより読んだ方が早いですよ。 「仕事」は使命感を持ってする尊いもの 「なめとこ山」に住む小十郎の「仕事」は、 熊捕りです。 「マタギ」と呼ばれる職業でしょう。 小十郎が山刀と鉄砲を持って大きな熊をしとめる姿は、ヒーローのようにかっこいいです。 おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。 」 彼の天敵である熊たちも、実のところ、そのように言う小十郎の事が好きなのでした。 狩猟は、まさしく小十郎の天職でした。 「熊捕り」こそ小十郎の使命、 【仕事】だったのです。 彼はその【仕事】に美学を持っていて、熊に対して、常に真摯な態度をとり続けます。 人は自分の本当にするべきこと、これをやるために生まれてきたのだと思える【仕事】に従事できたとき、小十郎のように輝けるのだと思います。 そして、小十郎と熊の関係は、狩るものと狩られるものでありながら、お互いを認め合った崇高さすら感じる関係でした。 スポンサーリンク 「労働」は生活するお金を得る手段 その後、小十郎は町に下りて、先程しとめた熊の「皮と胆」を、お店の人に買い取ってもらいます。 小十郎にはたくさん家族がいて、稼ぎ手は小十郎だけです。 彼は、米などの食料を買うための 「お金」が必要なのです。 お金を得るために熊の「皮と胆」を売りに行く事は、 本当はしたくないけれど、お金を得るためにしなければならないことでした。 小十郎は、お店の人に買いたたかれても、とにかく頭を下げてお願いします。 ここには、資本主義経済の原理が働いています。 お店の主人は資本家で、小十郎は労働者です。 店の主人は、小十郎がどうしても売りたいと思っている事を知っているので、偉そうな態度をとり、足元を見て安く買いたたきます。 小十郎は、命がけで仕留めた「熊の皮と胆」が2円にしかならないと言われても、売るしかありません。 さらに、小十郎は、はいつくばって繰り返しお礼を言いました。 そんな小十郎を見て、店の主人は満足げでした。 小十郎と命のやり取りをした熊は、町に持っていくと、たった2円の価値しかないただの「物」になってしまうのです。 そして、大きな熊と対峙した小十郎は、町ではただの貧しい哀れな労働者でしかなかったのです。 「なめとこ山」にいるときの堂々とした小十郎とは全く違う「町の」小十郎の卑屈な姿を見て、宮沢賢治が思わず「語り手」として言葉を差しはさんでいます。 賢治の言う「仕事」と「労働」の違いに納得 小十郎の2つの行動を、宮沢賢治が対照的に描いた理由を考えたいと思います。 「猟師の小十郎が、熊を捕ってそれを町の店に売りに行く」、これは一連の仕事のようで、全く違う2つの行為が含まれています。 ・熊を捕るのは、小十郎の【仕事】 ・町の店に熊の「皮と胆」を買い取ってもらうのは【労働】 宮沢賢治は、 【仕事】と【労働】をはっきり区別しています。 彼の代表作の1つ 『農民芸術概論綱要』の中にも、 「今われらにはただ労働があるばかりである」という嘆きの言葉を残していますよ。 賢治は、ただ生活する目的のためにお金を得る【労働】をするのではなく、自分が生まれてきた使命を意識して、それを【仕事】にすべきだと言いたいのです。 彼だけでなく他の思想家たちも、似たような言葉を残していますよ。 例えば、 吉田松陰も、同じようなことを弟子たちに伝えています。 私も、これから何かをするなら、手早くお金を稼ぐためでなく、それが自分の生きがいになり、同時に誰かのためになる【仕事】をしたいと思います。 「理想」と「現実」の間で悩むのが人間 宮沢賢治の作品、特に晩年の作品には「まこと」「ほんとう」という言葉が強調されています。 「ほんとうのさいわいは一体何だろう」 「ぼくわからない」(引用元:『銀河鉄道の夜』) ほんとうのさいわい ほんとうのいいこと 自分がこの世に生を受けた「ほんとう」の理由・使命・・・ みんなのさいわいにつながる「まこと」の道・・・ 人は「ほんとう」の道を求めずにはいられないのに、現実は、生活のために手っ取り早くお金を稼げる労働に時間を奪われがちですね。 自分が今しているのが「仕事」なのか「労働」なのか、じっくり考えてみるのも大切だなと思うのでした。 こちらの 新潮文庫の「注文の多い料理店」には、表題作のほかに「雪渡り」「茨海小学校」 「なめとこ山の熊」など19編の作品が収録されています。

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