濃姫 内田有紀。 【女優】今度は広瀬すずさんが帰蝶(濃姫)に!

麒麟がくるで注目の濃姫について 織田信長との夫婦仲はどうだった?

濃姫 内田有紀

沢尻エリカ 帰蝶(濃姫)に決定する 2020年大河ドラマの追加キャスト発表会見が3月8日都内で行われ、政略結婚で織田信長の正妻となる帰蝶(濃姫)役は沢尻エリカさんが演じることが発表されました。 「帰蝶(濃姫)は気高くて気が強いキャラクター。 今まで描かれた帰蝶(濃姫)よりもさらに気が強いキャラクターになっている。 自分の意思を大切にするので、信長に嫁入りする時もひと悶着ある」と今回の帰蝶像を説明。 「意思が強い、かつ、美しい帰蝶像」を求めたとし、「信長役が染谷将太さんなので、若さもないといけない。 そういう意味で、美しい沢尻さんにお願いした」と落合将チーフプロデューサーが起用理由を明かしました。 ネットの反応も以下のように好評価で、 などなど、それぞれが持っている帰蝶(濃姫)のイメージと女優をダブらせているようなコメントが多くみられます。 ただ、実際のところは帰蝶(濃姫)の史料は極めて乏しく実像には謎が多く確たることはほとんどわかってなく、その名前さえハッキリしない!? 絵本太閤記や武将感状記では濃姫として記されていることからこの名が有名になりましたが、美濃国の高貴な女性と言うだけの通称に過ぎず名前ではありません。 また、美濃国諸旧記では「帰蝶」であったとされ、武功夜話では「胡蝶」であったとされます。 更には、斉藤道三と小見の方との間に生まれた唯一の子であったとされ、信長と離婚した説、本能寺の変より前に死亡した説、本能寺の変の後も生きていた説などなど、帰蝶(濃姫)を調べれば調べるほど、名前も親も、どのように生涯を終えたかのかも謎。 謎ゆえに脚本家の好きなようにキャラクター設定ができてしまう都合の良い存在であることも事実。 時代劇で描かれる帰蝶(濃姫)の印象的なシーンは、明智光秀に襲撃された本能寺で薙刀を振るい信長と共に戦い、そしてその生涯を閉じるシーン。 香川京子 出典:にっぽん女優列伝 『風雲児 織田信長』 映画 昭和34(1959)公開 東映が制作と配給をした。 物語は信長の父、織田信秀の葬儀から始まる。 斉藤道三との会見を用心するように忠告。 信長の帰りを予期しなかった帰蝶(濃姫)はその無事を喜んだ。 桶狭間への出陣でも帰りを予期しておらず、今川義元の首級を馬前に清州上に引き上げた信長。 白装束で待っていた帰蝶(濃姫)には夢のようだった。 映画の説明文がある限りで言うと、この作品と『紅顔の若武者 織田信長』で 斎藤道三との会見までが描かれてますね。 父はマムシと呼ばれるほど恐ろしい男。 殿のお命を狙っているやもしれませぬ。 どうかお気を付けください。 と言うやり取りでしょうか。 こちらの画像もお若いころの雰囲気のあるものを掲載 菊川怜 出典:国盗り物語 『国盗り物語』 新春ワイド時代劇 平成17年(2005)放送 原作 司馬遼太郎 脚本 宮川一郎、大石静 音楽 沢田完 ナレーター 津嘉山正種 制作 テレビ東京 帰蝶(濃姫)登場のシーンで「帰蝶にございます」と信長へ挨拶。 監督の指示なのか女優独自の役作りなのかわからないが、 鼻から声が出てる。 そう、あのアパレルショップ店員のような発声。 物語の後半になるにつれこの発声はおとなしくなっていくが、信長役の伊藤英明さんが帰蝶のほっぺを抓るシーンがあって、結構な握力で抓ったのか帰蝶役の菊川怜さんが地声で「痛った~い」と言ってた。 そりゃ作られた声だよねと納得すると同時に取り直しをせずにそのまま採用した監督に感謝。 画像は動画からのキャプチャーで、本能寺で明智光秀の謀反を森蘭丸から注進される場面。 右手には「薙刀」が握られてる。 何とも勇ましい帰蝶(濃姫)である。

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【濃姫とは】子供はいたの?夫婦中は?ラブラブ?織田信長の奥様

濃姫 内田有紀

「ひたむきに演じていきたい」と語る内田有紀 -初めての大河ドラマ出演についての率直な感想をお聞かせください。 私自身、大河ドラマのファンでした。 子どものころから日曜の夜は祖父と祖母と大河ドラマを一緒に観て育ってきました。 渡辺謙さんの「独眼竜政宗」や中井貴一さんの「武田信玄」が特に好きで、子供ながらに家臣の忠誠心に涙が出たり、熱くなるものがありました。 ですから今回、役者として参加することができてとてもうれしく思っています。 -大河ドラマの持つ独特な緊張感のようなものは感じましたか。 クランクインして初めのころは、緊張感というよりも自分がどのようにその場にいたらいいのかということに少し戸惑いました。 テレビドラマの時代劇というものにあまりご縁がなかったので、現代劇での芝居とは違う感覚がありました。 「これが大河ドラマ」という印象が強かったですね。 -時代劇ということで苦労している点は? やはり立ち回りなどですね。 でもリハーサルのときに岡田准一さんが「この方が楽ですよ」「こういうふうにするとよく見えますよ」と弓の扱い方などを教えてくれましたので比較的早くできるようになりました。 佇まいや呼吸でどんなお濃になるか、そうした地に足の着いた、落ち着いたお芝居が必要になってくると思っています。 楽しみは毎回のセットです。 信長の正室ということで位が高いので豪華なセットばかりなので、役得でいい経験をしています。 -大河ドラマ出演に当たって周囲からの反響はありましたか。 友達からは「すごくきらびやかね」「いる場所がいつもすごいね」というセットの装飾の感想をよく聞きます。 ドラマの内容についての感想ではないのかと・・(笑)。 逆に私が感想を聞いてみたいです。 視聴者の方は回を重ねていくうちにいろいろな見方をしていくようになると思いますが、自分なりにお濃のキャラクターをつかめたら、あとはひたむきに演じていきたいと思っています。

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【女優】今度は広瀬すずさんが帰蝶(濃姫)に!

濃姫 内田有紀

呼び名 [ ] 広く知られた『』や『』で、 濃姫として登場している ことからこの名が有名になったが、これは美濃からきた姫、つまり美濃姫というの省略して濃姫とよんだ、と考えるのが正しく本名ではない。 同じく『美濃国諸旧記』で、秀龍が17年()にをに譲ってして、(再び)道三と号してに退き、翌年、この城から の信長のもとに嫁いだために、 鷺山殿(さぎやまどの)と呼ばれていた と書かれているが、これは当時の習慣に則したもので筋が通る。 信長の妻の称としては、 於濃の方 (おのうのかた)とも呼ばれるが、『絵本太閤記』等の通俗本の呼称である濃姫を元にするよりは鷺山殿の称の方が由来は明確である。 『美濃国諸旧記』では上総介信長の 北の方(正室)となったとの記述もある ので、それを信じるならば、鷺山殿が信長の正室であったと考えることができる。 またが、 安土殿と呼ばれていた女性が濃姫と同一人物であるという最近の説もある。 での隣に葬られた 養華院という女性が、信長の妻の1人として葬られていることは確かであるが 、それを濃姫であると断定するまでにはまだ検討の余地がある。 生涯 [ ] 濃姫は、斎藤道三の娘で、母は正室の。 『美濃国諸旧記』では、小見の方は、東美濃随一の名家であったというの出身であり、濃姫は正室唯一の子であったとされる。 小見の方は、『』『明智氏一族宮城家相伝系図書』ではの娘、の妹とされるので、(一説に光綱の子という)の叔母にあたることになり、濃姫と光秀はの関係にあったはずだが、光秀の出自自体に不明な点が多く、諸説があって正確な続柄はよく分からない。 生年を記した書物は『美濃国諸旧記』しかなく、濃姫は4年()の生まれだとされる。 道三が42歳の年である 。 (通説によれば)天文10年()頃、斎藤道三は・を放逐し、その連枝を殺害して美濃国主となった。 しかし、依然として土岐氏に従う家臣も多く、国内の秩序は乱れていた。 そこで、頼芸より下賜された・の子である長男・を頼芸のであると称して美濃守護に据えた。 斎藤勢はまず南方の織田勢()と交戦したが、過半が討ち取られ、下を焼かれた。 同時に西方よりも朝倉勢が接近したため、道三はそれぞれと和睦して事を収めることにした。 織田家との和睦の条件は信秀の嫡男・吉法師丸(信長)と娘とを結婚させるという誓約であり、他方で土岐家とは頼芸をに入れ、頼純をへ入れると約束した。 天文15年()、道三は朝倉孝景とも和睦し、土岐頼芸が守護職を頼純に譲るという条件で、新たに和睦の証(人質)として娘を頼純へ輿入れさせ、頼芸と頼純を美濃に入国させた。 主筋の土岐家当主への輿入れであることから相応の身分が必要との推測から、この娘は道三の正室を母とする濃姫であった、とする説がある。 この説に従えば、濃姫は数え12歳で、美濃守護土岐頼純の正室となったことになる。 信秀との約束は一旦保留となったが、織田・朝倉の方でも道三を討伐しようという考えを捨てておらず、天文16年()8月 、土岐頼芸と頼純にに拠って土岐氏を支持する家臣団を糾合して蜂起するように促した。 道三はこれを知って驚き、織田・朝倉勢が押し寄せる前に大桑城を落とそうと大軍で攻め寄せたので、頼芸は命からがら朝倉氏のに落ち延びた。 9月3日、信秀は再び美濃に侵攻して稲葉山城下を焼いたが、22日の夕暮れに退却しようとしている所を斎藤勢に奇襲され、敗北を喫した。 「」も参照 土岐頼純は、『美濃国諸旧記』では同年8月 の大桑城落城の際に討ち死に、または同年11月に突然亡くなったとする。 前出の同一人物説では、いずれにしろ濃姫はこの夫の死によって実家に戻ったと推測される。 天文16年から翌年にかけて、道三と信秀はを巡って再三争ったが、決着が付かず、和睦することになって、先年の縁組の約束が再び持ち上がった。 『美濃国諸旧記』によれば、信秀は病気がちとなっていたために誓約の履行を督促したとされ 、天文18年()に濃姫として知られる道三の娘は織田信長に嫁いだ。 はであったとされる。 この時、濃姫は数えで15歳であった。 一方で『』によれば、織田家臣のの(個人的な)政治力で和睦と信長の縁組みがまとめられたという。 『絵本太閤記』と『武将感状記』のよく知られた逸話に、結婚の1年後、濃姫が熟睡すると信長は毎夜寝所を出て暁に帰るという不審な行動を1か月も続け、浮気を疑う濃姫が尋ねると、信長は密計を図っていて、謀叛を起こす道三の2人の家老(、春日丹後守 )からの連絡を待っているのだと答えた。 濃姫はついにその旨を父に知らせると、道三は信長の離間策にはまって、家老の裏切りを疑って殺害してしまったというものがある。 ただし、この逸話に相当するような、道三が実際に家老を殺害した記録は存在しない。 天文22年()4月には、信長と道三が正徳寺で会見を行っている が、先年の婚儀以後、濃姫についての記載は『美濃国諸旧記』から途絶える。 道三の遺言でも一言の言及もない。 他方で、『』『』には、信長の御台所である斎藤道三の娘が、若君(御子)に恵まれなかったので、側室(妾腹)が生んだ奇妙丸()を養子とし嫡男としたという記述がある。 斎藤家の菩提寺に父・道三の肖像を寄進した(時期不明)と寺伝にあるのを最後に、濃姫は歴史の記録から完全に姿を消した。 このために濃姫は没年も不明であり、菩提寺も戒名も特定されていない。 濃姫のその後に関する諸説 [ ] 濃姫の史料は極めて乏しく、実証が難しいために、その実像には謎が多く、確たることはほとんどわかっていない。 2人の間には子ができなかったというのが通説であるが、信長の子供、特に女児の生母は不明の場合が多く、本当に子がいなかったかすら確かではない。 上記のように史料価値があると考えられている『信長公記』には入輿について短い記述があるだけでその後は一切登場せず 、その他の史書にも記載が少ないため、濃姫のその後については様々な推測がなされている。 この節では諸説について多角的に説明するが、いずれも仮説や推論である。 離縁説 [ ] 作家・は、『信長公記』など史料に入輿は記載されているが最後が記載されていないのは、織田家と縁が切れていたためと推測し、政略結婚の意義を失った濃姫との婚姻は無用のものとなったので、織田家を追放され、濃姫は実父の敵の義龍を嫌って母方の叔父・のに身をよせた、と考えた。 しかし他の女性についても輿入れ後の消息が記されている例はむしろ希少であり、『信長公記』には信忠生母についても何の言及もない。 女性の記録が少ないのは当時は普通であり、それらが全部縁を切られたと考える道理はない。 婿である信長を美濃国の後継者と定めた道三の国譲状 があったことを考えれば、濃姫を正室としておくことは美濃攻略の足がかりともなるので信長にとって必要であった。 また、の一人は信長の妹であって、重縁であるとの縁を切る必要があったとは考えにくい。 美濃衆が家臣団に加わりつつあったという状況ではむしろその縁は利用できたはずである。 また、基本的に人質としての性格のある道三の娘を、道三を殺した兄・義龍との戦争を理由に、わざわざ離縁して実家に返してやるという必然性は見いだせない。 離縁されたとするならば、何らかの特別な事情があったはずだが、そのようなことを記した史料は存在しない。 信長の家臣団には、斎藤氏と織田氏の共通の親族と言える武将が多数おり、『勢州軍記』にあるように信忠 を濃姫の養子として嫡男とした のなら、信長が家督を信忠に譲って美濃と尾張の支配を委ねたことは、道三の国譲状により、後継者の正統性を強調する非常に合理的な手段であったと言えるのである。 死亡説 [ ] 天文17年()、14歳で信長に嫁ぎ、正妻の座にあったが、初期の側室の生駒氏が弘治3年()に信長の嫡男・を産む以前に、20歳くらいで病死したのではないかと推測されている。 だが生駒氏は信雄の母と言う記録があるのみで信長の継室になった記録などなく信忠母も確定されていない。 生駒氏の記録のある武功夜話は近年その資料として精度に疑いを持つ評価が圧倒的である。 早世説 [ ] 寛永15年()頃に成立したとされる『』には、道三を殺した斎藤義龍が病没してその子・の代になった頃(話の内容からすると永禄4年()から同6年()の間と思われる)、義龍の娘に馬場殿 という大変美しい女性がいて、信長から妾(側室)にしたいとの話があったが、龍興が言うには、信長は道三の婿で馬場殿は信長の 妻の姪となるので、「其妻死後に遣り難し」と述べ、ましてや妾などとしてくれてやるのはもってのほかで、土岐氏の嫡流である当家の名が廃ると言ってと拒否した。 これを聞いた信長は、元来堪え性のない勇敢な人物だったので、憎々しい物言いだと怒って、稲葉山城に何度も攻め寄せて永禄7年(1564年)8月下旬に落城させたという話が書かれている。 これを信じるならば、濃姫が(少なくとも永禄7年、つまり28歳前後には)既に亡くなっていて、信長の正室にも別の人物が収まっていたことになる。 ただし、実際に稲葉山城が落城したのは永禄10年(1567年)のことであり、整合性には乏しい。 戦死説 [ ] 『本能寺焼討之図』(作) 中央右奥、安田作兵衛の向こう側で長刀を振るう女性は濃姫を描いたものである。 濃姫がの際にを振るって信長とともに敵兵と戦って戦死する場面がしばしば描かれてきたが、これは創作物における描写である。 本能寺の変の際に濃姫が戦死したという話は、一度として史料で確認されたことはなく、いわゆる小説の世界での話であり、確かなものではなかった。 としては、不動町には本能寺の変の際に信長の家臣の一人が濃姫の遺髪を携えて京から逃れて、この地に辿り着き埋葬したという濃姫遺髪塚(西野不動堂)がある。 (『美濃国諸旧記』の生年を信じるならば)信長とは1歳違いなので、本能寺の変の時に亡くなった場合、享年は48となる。 生存説 [ ] 生存説とは、つまり濃姫がその後も生きていた痕跡を探して存在の可能性を示そうというものである。 以下年代順に論じる。 同時代人の筆で良質の資料によるものでは、『』に、信長がを擁して上洛した後の12年()7月条に、斎藤義龍の後家(近江の方)を庇う 信長本妻という記述 があり、濃姫の生存を示すものである可能性がある。 また、『言継卿記』の同年の記に「姑に会いに行く信長」の記述も見られるが、これは濃姫の生母(小見の方)を指しているはずで、は姑の存在は濃姫が生存していたがこそであると主張している。 の『』 にも、安土城から落ち延びた 北の方の記述が見られる。 この御台や北の方は濃姫のことを指していて、変の時には彼女らは安土城にいたと考えても特に矛盾はない。 寛永年間に成立したとされる『』には、安土城二の丸の留守居であった御番衆のが本能寺の変直後にからへ「信長公 御台君達など」を避難させたという記述がある。 年間 に書かれた『』には、尾張平定後の饗膳の際に、 信長内室 が美濃討伐の命令を望む家臣達に感謝し、たくさんのアワビなどを振舞ったという記載がある。 『明智軍記』は史実と異なる点や誇張・歪曲している点なども多くみられるが、少なくとも江戸時代には一般的に濃姫は信長の正室として存在したと認識されていて、道三亡き後に濃姫が離縁されたり、亡くなったというような話は、伝わっていなかったと推測できる。 享保年間に成立した『』には、成菩提院 のの書像の奇譚 として、信長の「」が宿泊して図らずも安産ができたとする記事が存在する が、この御台所が誰を指しているか、いつのことかなのかは記されていないので、濃姫だとは断定できない。 『』には、永禄8年()に信長の新居城であるに生駒殿のために「御台様御殿」が増築されたとされ、、、、妹の須古女を伴って同御殿に入った生駒殿は翌年にそこで亡くなったので 、奇譚についても、生駒殿(御台様)の安産を指している可能性もあるが、『武功夜話』の書かれた年代については疑義が持たれている。 大正期にまとめられた『妙心寺史』によれば、天正11年6月2日に 信長公夫人主催で清見寺住持の(妙心寺44世)が一周忌を執り行ったという当時の記録があるそうで 、主催とは別の一周忌法会であるため、(於鍋の方)とは別人と推測され、他にも候補はいるものの、濃姫をさす可能性はあるとされる。 これらの生存説は、信長死後も濃姫は生存していたことを示しているように思われるという程度で、確証に乏しかったが、近年、個人を特定しようという新説が登場した。 安土殿説 [ ] 総見院・織田信長公供養塔。 養華院は興雲院の隣で格式高く造られている。 信長の次男・織田信雄が15年()頃の家族や家臣団の構成をまとめた『織田信雄分限帳』に、 あつち殿(安土殿)という女性が書かれているが、これが濃姫を指すのではないかと考えられている。 記載によると、安土殿は600貫文の知行を与えられているが、女性としては御内様(信雄正室、の娘)、岡崎殿(、信雄の実妹)に続く3番目に記載され、その次の大方殿様は信長生母・と推測され、5番目が(室、信長妹)となっていて、織田家における地位の高さが伺える。 安土城の「安土」という土地を冠されていることから、その地と所縁の深いのはすなわち信長の妻で、それも正室にあたるのではないかと推測された。 「安土殿」が濃姫だとすれば、この時点で生存していたことになる。 4年()、岡田正人は、調査によって鷺山殿の法名が蔵『泰巌相公縁会名簿』 に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と記されていたと発表した。 また京都のには「養華」と刻まれた五輪供養塔()があると奉じ、NHKの大河ドラマ『』内で、従来説を覆し、濃姫(鷺山殿)が17年() まで78歳の天寿を全うしたと放送した。 また岡田正人は養華院は濃姫であると主張し 、於濃(濃姫)の墓所との地元伝承のある墓所については(室)の生母は別人であろうと推定した。 これらが正しければ、濃姫は(織田氏の菩提寺である)大徳寺総見院に埋葬されている可能性がある。 上記の岡田正人の説に対して、永田恭教は養華院に関する大徳寺の記録は全て寵妾となっていることから、養華院は濃姫ではなく側室の一人であったと反論をしている。 濃姫が登場する作品 [ ] テレビドラマ [ ]• 徳川家康 (・ 演:・)• (お市編) (・ 演:)• (・ 演:)• (・NHK大河ドラマ 演:)• (・ 演:)• (・NHK大河ドラマ 演:)• (1988年・TBS 演:)• (・ 演:)• (・ 演:)• (・テレビ朝日 演:)• (・TBS 演:)• (・ 演:)• (・テレビ東京 演:)• (・テレビ朝日 演:)• (・テレビ東京 演:)• (・TBS 演:)• (・NHK大河ドラマ 演:)• (・テレビ東京 演:)• (2006年・テレビ朝日 演:)• (・テレビ朝日 演:)• (2012年・ 演:)• 濃姫II〜戦国の女たち (2013年・テレビ朝日 演:観月ありさ)• (・NHK大河ドラマ 演:)• (第2部) (2014年・テレビ朝日 演:)• (2020年・フジテレビ 演:) 映画 [ ]• (・ 演)• (・東映 演:)• (1965年・東映 演:)• (2005年・ 演:)• 戦国BASARA-MOONLIGHT PARTY-Remix (2012年・日本出版販売 演:長澤奈央)• 信長協奏曲 (2014年・東宝 演:柴咲コウ) 小説 [ ]• 『戦国の群像 : ・・・・・その生涯』岐阜県企画 2001. 『』(2014年 ぼくらのヤングジャンプ) 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 前述のように濃姫が信長に嫁ぐ前に頼純の正室となっていたとする説がある。 『近江国輿地志』にある成菩提院 で出産した信長の御台所を濃姫と仮定する説がある。 [説2]は『濃陽諸士伝記』による。 『美濃国諸旧記』では秀龍の娘。 通説では嫁いだ頃には信長は那古屋城に移っていたはずであるが、『美濃国諸旧記』の記述による。 於はと同じ、敬語を作る接頭辞である。 通常、「於濃の方」とさらに接尾にも言葉が足されて用いられる。 両名の名は『信長公記』にも見られるが、後者は人物不詳。 道空については比定が難しい。 これによれば、濃姫は信忠のとなり、正式に織田家後継者として信長に認められた。 それと同時に濃姫の実弟であるも信長から信忠付きの重臣となっている。 兄のも利治と同じく、留守居と共に信忠重臣として岐阜城の役を担っている。 平成28年2月19日、岐阜城の御殿(信長居館)跡から金箔瓦が見つかったと岐阜市が発表した。 の『』には「池のほとりには、金の瓦のある豪華な建物があり、を背にして建っていた」との記述があり、その金箔瓦の豪華な建物は、1階が迎賓の間、2階が信長の正室の住まいであったと説明した。 滋賀県立大の教授は「信長が濃姫のために計画を変えてまでも御殿を建てたのでは」と話した。 かつての教授は岐阜市がこの山麓館跡を「濃姫のために造営した御殿」としたことに疑問を呈し、「信長と妻子は普段、麓の御殿ではなく、山頂に住んでいたことが、当時の文献資料で明らかに」なっているので検証が必要と反論を延べていた。 『美濃国諸旧記』『濃陽諸士伝記』『絵本太閤記』『武将感状記』『明智軍記』『武功夜話』など、濃姫の話の登場する主な書籍は尽く史料とは言い難い読本の類で、名前も存在も何一つが確かではない。 信忠生母が生駒殿という説をとると、信忠は生駒殿が正式に信長の側室として迎えられる前に生まれた可能性があるため、惣領としての権威付けをする特別な理由があったと考えることは可能である。 義龍に娘がいたという記録はないが、道三を討ち取ったことで知られる小牧源太(道家)の家で預かられていたという。 ただし看板には「濃姫之墓」とある。 また、石碑は5年乙巳(1665年)との銘があり、江戸時代のものである。 信長が斎藤義竜の後家が所持していた、壷(茶器)を差し出すよう何度も催促したが、後家は岐阜落城の折(永禄10年)に紛失したと主張して「これ以上私を責めるならば自害する」と信長に抗議したとき、「信長本妻」が「兄弟女子十六人自害なすべし」と同調したとされる話。 近江の方の親族である「信長本妻」とは濃姫をさすと考えられる。 本来は「天正記」の一部である漢文の『』を仮名交り文に改めたもの。 最古の元版は1693年版。 「内室」は他人の正室を敬っていう言葉で、信長には正室として認知されている人物は濃姫しかいないので、濃姫のことをさすと推定される。 信長の御台所が安産した後で、ある時に護摩堂から失火したが、深砂王との掛け軸が飛んできて、柿木の掛かり、ここで火が鎮火した。 以来、人々はこの掛け軸に安産を祈願し、柿木を切り刻んでお守りとして持ち帰るようになったという内容。 9頁の記述。 『泰巌相公縁会名簿』は3年()以後、同寺で編纂されたもの。 出典 [ ] []• 244. , pp. 404-405. 国立国会図書館デジタルコレクション。 国立国会図書館デジタルコレクション。 111. , p. 239. 241. , p. , p. , pp. 49-50. , p. 141. , pp. 50-53. , p. , p. , pp. 33-35. 143. 日本経済新聞. 2016年2月20日. の2018年9月27日時点におけるアーカイブ。 2018年9月27日閲覧。 中日新聞. 2017年12月13日. の2018年9月28日時点におけるアーカイブ。 2018年9月27日閲覧。 読売新聞. 2016年12月11日. の2018年9月28日時点におけるアーカイブ。 2018年9月27日閲覧。 引用エラー: 無効な タグです。 「 anoi」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません• , p. 113. 412. , p. 397. [ ]• , pp. 158-159. , p. 159. , p. 51-52. , pp. 241-242. 川上孤山 上巻 妙心寺派教務本所、1917年、271頁。 国立国会図書館デジタルコレクション。 , pp. 159-160. 240-241. , pp. 397-398. , p. 245. , p. 162. 参考文献 [ ]• 桑田忠親『斉藤道三』新人物往来社、1973年。 西ヶ谷恭弘 『考証織田信長事典』 東京堂出版、2000年、239-241頁。 黒川真道編 国史叢書、1915年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 黒川真道編 国史叢書、1915年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 寒川辰清 大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系 ; 第3 6冊 〉、1915年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 ; 中川太古 『現代語訳 信長公記』(版) 〈新人物文庫〉、2013年。 近藤瓶城編 第19巻 近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 塙保己一編 『群書類従. 第拾四輯』 経済雑誌社、1893年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 黒川真道編 11巻 集文館〈日本歴史文庫〉、1911年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 「信長正室・斎藤氏」 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年、155-162, 397-398頁。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - 岐阜城ボランティア団体•

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