風 立ち ぬ いざ 生き め や も。 【風立ちぬ】いざ生きめやもの意味と誤訳だと言われている理由|おさるの空飛ぶリンゴの見つけ方!

【風立ちぬ、いざ生きめやも。】はどういう意味ですか?

風 立ち ぬ いざ 生き め や も

堀辰雄の小説「風立ちぬ」の冒頭近くで語られる有名な台詞「風立ちぬ、いざ生きめやも」。 これは美しい響きの言葉であり、印象深い句なのだが、誤訳であることでもよく知られている。 原詩のほうは、一般的によく使われるフランス語の言いまわしで、特に難しいものではない。 英語に訳すと、「The wind is rising, you should try to live」くらい。 後ろの句の主語は本来はweなんだろうけど、この句は自分に言い聞かすような言葉なので、youのほうがいいとは思う。 それで和訳すると、「風が起きた、生きることを試みねばならない」の意味となる。 要するに、吹いた風を契機に、著者の「生きるぞ!」との決意を現わしているのである。 ところで、堀辰雄はここの部分を、「いざ、生きめやも」と訳している。 「生きめやも」は「生き+む(推量の助動詞)+やも(助詞『や』と詠嘆の『も』で反語を表す)であり、現代語になおすと「生きるのかなあ。 いや、生きないよなあ」となる。 ダイレクトに訳してしまえば、「死んでもいいよなあ」であり、つまりは生きることへの諦めの表現である。 「生きめやも」を逆にフランス語に訳せば、Vous ne devez pas tenter de vivre. くらいになるだろうけど、いずれにせよ、己の生への強い意志を詠じた原詩とはまったく反対の意味になってしまう。 それゆえ、堀辰雄の「いざ生きめやも」は誤訳の典型として知られてきており、例えば大野晋、丸谷才一の両碩学による対談で「風立ちぬ」が取りあげられたとき、両者により、堀辰雄は東大国文科卒のわりには古文の教養がないと、けちょんけちょんにけなされている。 ただ、誤訳といえば、誤訳ではあろうけど、私は小説「風立ちぬ」では、「生きめやも」でもいいと思う。 結核に冒された人達の生活を描いたサナトリウム文学を代表として、結核患者が著書の作品には独特の世界が広がっている。 結核は抗生物質のある現代では治療の方法のある感染症の一つであるが、20世紀前半までは、効果的な治療法のない死病であった。 今の感覚でいえば、末期癌のようなものであり、これに罹ったものは、自身の命を常に見つめて生きていくことになる。 それゆえ、結核患者の作品は、短く限られた命を真摯に見つめ、その貴重な時を文章に凝集させていくため、清明でありながら密度が濃い、独自の文学を創造している。 彼らの残した作品は、堀辰雄をはじめ、梶井基次郎、立原道造、富永太郎、…と日本近代文学の珠玉の宝物となっている。 そういった人たち、毎日死と向き合っていた人たちの作品として、「風立ちぬ」を読んでみれば、季節の移り変わりに吹いた風に、「生きよう」という意思が立ちあがるとは思えず、季節の流れとともにこのまま静かに命が消えても、という感慨が起きても不思議ではなく、かえって自然な感情とも思える。 元々「風立ちぬ」は軽井沢の療養所で、死を迎えいく若い男女の、残された日々の静謐な生活を描いたものであり、「il faut tenter de vivre」という能動的な精神はどこにもなかった、と思う。 ヴァレリーの原詩では、いくつもの魂の眠る墓地に地中海から風が吹き付け、そこで著者は「生きねばならない」という強い意思を抱くわけであるが、軽井沢の森に吹いた秋の訪れを知らせる風は、地中海の風のようにある意味精神を鞭打つような剛毅なものとはほど遠く、もっと人の心に寄り添うような、人に赦しを与えるようなやさしいものであったには違いない。 それゆえ堀辰雄は、吹く風にヴァレリーの詩を想起したとき、敢えてあのように訳したのでは。 「風立ちぬ」という不朽の名作につきものの誤訳問題。 いろいろと意見はあるようだが、私は堀辰雄を擁護したい。 堀辰雄著.

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「仰げば尊し」から間違いやすい「いととし」と「別れめ」の意味と現代語訳

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「風立ちぬ、いざ生きめやも」の意味がわからない?古文文法から解説! それでは、「風立ちぬ」や「いざ生きめやも」の言葉意味について紹介します。 「風立ちぬ、いざ生きめやも」は元はポール・ヴァレリーの詩で、堀辰雄が訳したものです。 先に結論を言うと、映画の場合内容を考えると「風立ちぬ、いざ生きめやも」は「風がふいた、さぁ生きよう!」という意味です。 ここからは文法的な内容を含めて紹介します。 「風立ちぬ」と「ぬ」の意味 まず、「風が立つ」とは風がなかったところから、風がふき始めたということです。 次に「ぬ」ですが、ここでの「ぬ」は完了・強意の助動詞の終止形です。 (「ぬ」には打消しの助動詞「ず」の連体形もありますが、ここでは違います。 ) なので、「風立ちぬ」とは分かりやすく言うと、「風が出てきた」と表現できます。 「いざ生きめやも」の意味 こちらも分解して意味を解読していきましょう。 「いざ」は、思い切って行動を起こすときに使います。 「さぁ、~しよう」というような行動をする前の、「さぁ」の強い語感をイメージしてください。 次に、「生きめ」の「め」ですが、意思の助動詞「む」の已然形となります。 ここでは意志なので、「生きていこう」という意味になりますね。 「やも」は反語の助詞で「~かなあ、いや~ない」という意味です。 なので、「いざ生きめやも」は「さあ、生きていこう、いや死のう(生きていかない)」となります。 ここで、本作を観た人は、「ん?」となるかと思います。 il faut tenter de vivre」は「風が立った、生きようとしなければならない」という意味とされているので、原作者堀辰雄の誤訳と言われています。 (誤用というべき?) なので、映画の場合内容を考えると「風立ちぬ、いざ生きめやも」は「風がふいた、さぁ生きよう!」という意味になりますよね。 カプローニさんも「君は生きねばならん!」って言ってますしね。 ここまで解説してみましたが、実は最初の電車のシーンで「風が立った、生きることを試みなければならない」と二郎が口にしているんですね。 「風立ちぬ」が伝えたかったこと 「風立ちぬ」は堀越二郎の飛行機への憧れや夢、カプローニとの時空を超えた友情、菜穂子との愛がテーマとなっている作品です。 この作品はこれまでのジブリ作品に比べても、分かりにくいというか、1度見ただけでは解釈に困る部分が多いと思いました。 「風立ちぬ」のタイトルの通り、飛行機に関わる部分やカプローニと会う夢に、菜穂子との出会いや再開などでは風が吹いており、「風」が吹いたシーンは重要なポイントだったと思います。 「風」が吹いてカプローニが出てくるシーンは主に夢にフォーカスしていて、菜穂子との出会いや再開の部分は愛にフォーカスしていましたよね。 また、表現は違えどカプローニや菜穂子の「生きる」という言葉が度々出てくるので、「生きること」ということを伝えてくれる作品だったのではないかと思います。 わたしは初めて観たときや2回目観たときと感じるものが違いました。 観ている人の年齢(歩んできた人生)や今置かれている状況とかでも伝わってくることが違うと思います。 なので、「風立ちぬ」が伝えたかったことの正解はないものと考えました。 わたしも数年後にまた「風立ちぬ」を観たとき感じるものが違うと思うので、それも楽しみなるかなと思いました。

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風立ちぬの意味がわからない?古文・文法や「いざ生きめやも」とは?

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【風立ちぬ】いざ生きめやもの意味と誤訳だと言われている理由 映画の二郎と菜穂子の列車での冒頭シーンにこんなフランス語が出てきます。 これを和訳しますと、「風 吹き起る・・・生きねばならぬ。 」となります。 ポール・ヴァレリーさんの原詩は、「風が吹いた!さあ生きよう!」という生への強い意思を感じてさせるものとなっています。 しかし、「風立ちぬ」の著者 堀辰雄はこの部分を 、「いざ、生きめやも」と訳してるんですね。 これを現代語訳すと 、「さて、生きたものでしょうか。 いやあ、生きないんだなぁ」 という感じになります。 生への意志の強さよりも 諦観の意味になります。 己の生への強い意志を詠じた原詩とは、まったく反対の意味に堀辰夫さんは訳されています。 その為、大野晋、丸谷才一の両碩学による対談で「風立ちぬ」が取りあげられたとき、両者により、堀辰雄は東大国文科卒のわりには古文の教養がないとけなされているわけです。 ただ、【風立ちぬ】の小説の世界は、結核に冒された人達の生活を描いたサナトリウム文学です。 結核は、20世紀前半までは、効果的な治療法のない死病でした。 今でいう末期がんのようなもので、これに罹った人は、自身の命を常に見つめて生きていくことになります。 この詩は、ヴァレリーの 「海辺の墓地」の最終節の一句で、詩人が海岸沿いの墓地に立った時の言葉です。 なので、諦観の思いととってもおかしくないと思います。 生と死とを一つのものとして、捉える気持ちがあるようにも感じ取れます。 この 【生きやもめ】という言葉は、生の賛歌ではなく、死を厭う物語でもなく、諦観の意味が込められてるようにも感じられます なので、わたしは、誤訳ではないと思いました。 小説【風立ちぬ】の世界観なら、「生きやもめ」という言葉がとてもしっくりくるのですが、いかがでしょうか? ここまでお読み頂きありがとうございました。

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