チャンドラ ニ。 西葛西にインド人が集中する歴史的な理由 「紅茶倉庫」の後に、鉄道ができた

ジャグモハン・チャンドラニさん(インド)

チャンドラ ニ

東京の臨海ベッドタウン、江戸川区西葛西。 街では、彫りの深い顔立ちのインド人パパが子どもを後ろに乗せてママチャリをこぎ、サリーを着たインド人ママがベビーカーを押しながら別のママ友とおしゃべりする、といった光景によく出会う。 じつはこのエリア、2000人ものインド人が暮らしている。 全国で2万人いるというインド人の1割にあたる人たちが、なにゆえ西葛西というピンポイントに集まっているのか!? 謎を探るうちに、見えてきたのはある人物。 日本に来て右も左もわからないインド人同胞を支え、彼らから「父」と慕われるのは、西葛西在住30年というジャグモハン・S・チャンドラニさん(56歳)だ。 (取材・文 ) インドの誰もが愛するミルクティー「チャイ」 180センチの長身にスーツをピシッとまとい、一度も切ったことのないという立派な髭(ひげ)を蓄えたインドの紳士は、まず、ミルクティーの「チャイ」で朗らかに歓迎してくれた。 「私たちは、朝起きたらまず1杯飲みます。 その後、11時に飲んで、15時に飲んで、17時に飲んで、ハッハッハッ・・・! お客さんが来たときにももちろん飲みます。 日本人にとってのお茶みたいな感じですね」。 チャイはインドの誰もが楽しむ紅茶だ。 沸騰した湯に茶葉を入れて3分、茶こしで濾(こ)して、温めたミルクと砂糖を合わせる。 味の好みや季節によって、シナモンやショウガ、カルダモンを加えたりもする。 「カルダモンは集中力を高める、って、最近テレビで評判になりましたね。 おかげさまでカルダモン入りチャイがすごく売れてます」。 そう、チャンドラニさんの本業は、紅茶の貿易商だ。 1978年に来日して以来、日本にインドの紅茶を広めるべく地道に奮闘してきた。 日本で初めて紅茶ビジネスを始める コルカタ(英語名カルカッタ)出身のチャンドラニさんの実家は、プラスチックや真空管の輸入販売を手掛ける貿易商だ。 大航海時代から、インド商人といえば世界を股にかけて活躍する商売上手。 その血を受け継ぐチャンドラニさんにとって、いつか世界のどこかでビジネスを興すことは、ごく自然な人生の選択だった。 デリー大学で経済学を修め、26歳で高度経済成長期の東京へ。 世界第2位のセイロンに5倍以上の大差をつけ、ダージリン、アッサム、ニルギリなど世界に名だたる産地もある。 ところが70年代後半の日本では、ダージリンもアッサムも知る人がほとんどなく、「紅茶ってセイロンだっけ?」と、紅茶に対する知識も認知度もかなり低かった。 当然、インドの青年実業家には、日本という未開拓市場が大きなビジネスチャンスに映った。 奥さんの実家が紅茶農園であることも、インド商務省の紅茶局から東京のインド大使館に出向して紅茶のプロモーションに携わっていた奥さんの存在も、心強い後押しとなる。 1982年、日本で初めて紅茶の商売を始めたインド人とは、そんな紅茶への情熱あふれる新婚夫婦だった。 インド商人のスピリット? コルカタ気質? 西葛西ディワリフェスタの様子 流暢(りゅうちょう)な日本語でさっそく商談か…と思いきや、当時、チャンドラニさんの日本語レベルは、なんと「コンニチハ」程度だった…。 「知らないところに行くのだから、言葉もわからなくて当然です。 前もって準備するよりも、行ってみた方がいろんなことがわかる。 言葉は現地で学べばいいですし!」。 このオープンで前向きな心の持ち様は、世界を制するインドの商人スピリットなのか。 どうやら、出身地であるコルカタの気質も影響しているようだ。 「コルカタは300年も前から、ヨーロッパとアジアを結ぶ拠点として栄えてきた国際的都市です。 インド料理もこの港から世界に広まりました。 アジアでありながら西洋に理解があり、絵や音楽や詩などの芸術も育まれてきた街。 こうしてさまざまな文化を受け入れてきたコルカタの人はオープンだし、飾らなくてシンプルなんですよ」。 「でも…」と、チャンドラニさんが続ける。 なんともユーモラスな紳士なのである。 西葛西生まれの高級ブランド「シャンティ紅茶」 今でこそ、夫人の名を冠するオリジナルの「シャンティ」ブランドを有し、300種類以上の質の高い紅茶を常時揃え、レストランやホテル、コーヒーチェーンなどへの卸販売で成功を収めるチャンドラニさんだが、事業のスタート当初は必ずしも順風とは言えなかった。 インドから船で運んできた質のいい紅茶。 だが、保管場所を平和島の倉庫街で探したときは、言葉もわからない若い新参の外国人ということで、あちこちで門前払いをくらった。 途方に暮れるなかで、江戸川区西葛西の臨海町にトラックターミナルと倉庫団地があることを耳にする。 「今はマンションや団地が建ち並んでいますが、当時はいちめん原っぱで、なーんにもなかったんです。 でも、おかげさまで倉庫団地の一角に倉庫を借りることができました。 しかも運がいいことに、翌年の1979年には地下鉄東西線の西葛西駅がオープンするというのです。 思い切って事務所も家もここに移しました」。 以来30年。 チャンドラニさんは西葛西に根を張って、家庭も会社も大切に育んできた。

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ジャグモハン・チャンドラニさん(インド)

チャンドラ ニ

はるか昔、インダス文明の頃から代々続く貿易商の家に生まれたチャンドラニさん。 日本にやってきたのは、26歳のときでした。 大学院を出たばかりで、日本語もできなければ、日本のことを知るよしもなかったと言います。 「フジヤマ、サクラ、キモノ、オチャ、ジャノメガサ。 最初の1年は神楽坂に拠点を置き、アンプ用の真空管やプラスチックの原料などの輸出をまかされていました。 「でも、それは商売じゃないと、物足りなさを感じ、もっと手応えのあることをしたいと思いました」。 そこで始めたのが輸入業です。 周りの反対もありましたが、悩んだ末にひらめいた「紅茶」は大成功。 そのときに商品の保管場所に選んだのが、ちょうど開発の始まった西葛西でした。 今では各地のホテルや大型店舗などにも卸し、日本中においしい紅茶を届けてくれています。

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シャンティ紅茶 代表取締役 ジャグモハン S.チャンドラニさん(西葛西)【アエルデ】

チャンドラ ニ

略歴 [ ]• 1910年、の統治下にあったの(現領)に生まれた。 1930年、のを卒業。 当時の宗主国イギリスのに留学する。 イギリスへの渡航途中、船上にて、の質量には上限()があることを発見した。 1933年、学位を取得する。 ケンブリッジではに師事した。 チャンドラセカール質量の研究について、この質量を超えた天体がになりうるという事等、後年に高く評価される結果をエディントンは徹底的に批判したため、確執が生まれる。 1937年、アメリカへ移住し、シカゴ大学および研究員となってに関する研究を進めた。 白色矮星の内部構造、恒星内部でのエネルギー伝達、恒星の進化と終焉についての業績がある。 またの論文誌の編集長も務めた。 1942年に、の (: )と共同で発表した論文で、のヘリウム中心核が重力収縮しないでを維持できる限界質量を推定した。 現在この限界質量は、彼らにちなんでと呼ばれる。 1944年、フェロー選出。 1983年、「星の構造と進化にとって重要な物理的過程の理論的研究」でを受賞。 1995年にでのため死去した。 エピソード [ ] 1999年に打ち上げられたの「」は、彼にちなんで名づけられた。 叔父はの発見で1930年にノーベル物理学賞を受賞したである。 2015年に、アジア太平洋物理学会連合 AAPPS プラズマ物理部門がプラズマ物理学の顕著な進歩に貢献した研究者に贈る、チャンドラセカールの名前を冠した「」を設立した。 著作 [ ]• 『星の構造』訳、講談社〈KS物理専門書〉、1973年11月。 『』共訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス 585〉、1998年7月。 『』監訳、講談社〈KS物理専門書〉、1998年11月。 受賞歴 [ ]• (1949年)• (1952年)• (1953年)• (1957年)• 1962年• 1966年• 1971年• 1974年• ノーベル物理学賞 1983年•

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