エチオピア 首相。 ノーベル平和賞に決まったエチオピア首相――これを喜ばないエチオピア人とは(六辻彰二)

エチオピア首相にノーベル平和賞=国境紛争解決に尽力:時事ドットコム

エチオピア 首相

エチオピアのアビィ・アハメド首相は1月11、12日、南アフリカ共和国を公式訪問した。 エチオピアの首相による南アへの公式訪問は、南アで初の全人種参加選挙が行われた1994年以降初めてとなった。 アビィ首相は11日、南アの与党・アフリカ民族同盟(ANC)の設立108周年記念式に参加した後、首都プレトリアでシリル・ラマポーザ大統領との首脳会談に臨んだ。 会談では、投資促進保護協定のほか、二重課税回避や軍事、産業技術、農業分野における協力など、既に2国間で締結されている協力枠組みの具体化に向けた協議の状況が確認された。 また、2国間交流のさらなる円滑化を目的として、両国の外交・公用パスポート保持者の査証免除に関する協定が締結されたほか、観光分野と健康分野に関する覚書(MOU)が交わされた。 両国の政治的関係は、南アの人種隔離政策(アパルトヘイト)時代に、同政策に反対する故ネルソン・マンデラ元大統領を含む数百人もの反政府活動家に対して、エチオピアが軍事訓練を行った歴史もあり、良好な関係を維持している。 経済面では、南ア企業のうち、セメント大手PPCや、食品最大手タイガー・ブランズ、大手銀行スタンダードバンクなどがエチオピアに進出している。 また、南ア国内には、多数のエチオピア出身労働者が居住している。 同首脳会談ではさらに、両国の経済・投資の交流を深化させるため、中小企業育成や鉱物資源の付加価値化(mineral beneficiation)などの分野における協力を強化すべきとの合意がされた。 なお、今回の訪問の最大の目的として注目されたエチオピアのグランドルネッサンスダム建設()に関して、アビィ首相はラマポーザ大統領に対し、エチオピアとエジプト間の紛争仲裁を要請した。 ラマポーザ大統領は「エジプトのエルシーシ大統領とも本件について既に議論した。 エルシーシ大統領もエチオピアとの話し合いを望んでおり、アビィ首相もまたそれを望んでいることから、同紛争解決は可能だと信じている」と述べた(「ニューズ24」1月12日)。 (高橋史).

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【CHRISTIANITY TODAY】ノーベル平和賞はペンテコステ派のエチオピア首相(対訳)

エチオピア 首相

(CNN) 東アフリカのエチオピアで29日、国民が参加して全土で植樹キャンペーンが行われ、12時間で3億5300万本以上の苗木が植えられた。 当局者は世界記録を達成したと見ている。 この日の植樹運動は、エチオピアのアビー・アハメド首相が主導する森林再生キャンペーン「グリーン・レガシー」の一環として行われ、全土で数百万人が参加した。 アビー首相は、開始から6時間でおよそ1億5000万本が植樹されたとツイートしていた。 12時間が経過した時点でアビー首相は、グリーン・レガシーの目標が達成されただけでなく、それを上回る成果があったと発表。 同国の革新技術相によると、植樹された苗木の総数は3億5363万3660本に達した。 この日のキャンペーンは、1日で2億本の植樹を目標としていた。 植樹の世界記録は、インドが2017年にボランティア約150万人を動員して12時間で植えた6600万本がこれまでの最高だった。 アビー首相は5月の時点で、5月~10月の雨季の間に40億本を植樹するという目標を掲げていた。 東アフリカの森林再生に取り組む団体ファーム・アフリカによると、エチオピアの国土に森林が占める割合は4%に満たず、19世紀末の約30%から激減している。 エチオピアは気候変動の影響も大きく、土地の劣化や土壌侵食、森林伐採、干ばつ、洪水などに見舞われている。 国民の80%は農業で生計を立てている。 2017年にはアフリカの森林再生プロジェクトの一環として、エチオピアなどアフリカの20カ国以上が1億ヘクタールの土地を再生するという目標を打ち出していた。

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エチオピア基礎データ|外務省

エチオピア 首相

() 最大の都市 アディスアベバ 政府 総計 () 水面積率 0. 首都は。 東を、南を、西を、北西を、北を、北東をに囲まれた。 隣国エリトリアはにエチオピアから分離した国家である。 アフリカ最古の独立国および現存する世界最古の独立国の一つ である。 人口は約1億200万人(2016年7月推定 )で、では、に次いで二番目に人口の多い国である。 公式の英語表記は、 Federal Democratic Republic of Ethiopia。 通称、 Ethiopia(イースィオゥピア)。 日本語の表記は、 エチオピア連邦民主共和国。 通称、 エチオピア。 他に エティオピアとも表記される。 ヨーロッパ人にはアビシニアと呼ばれていたが、からまでの長きにわたりと称してきた(からの5年間に編入された時期を除く)。 のクーデターの後、まで 社会主義エチオピア、まで エチオピア人民民主共和国と称し、のにより エチオピアとなったが、1995年に再度の憲法改正により現在の エチオピア連邦民主共和国となった。 歴史 [ ] ギリシャ語が刻まれたの通貨 エチオピアには元々の先住民が住んでいたが、のから住民も少数移住し、との血筋を受け継ぐと称する(—)が、沿岸の港町 ()(現在のの近郊)を通じた貿易で繁栄した。 3世紀のものと思われるアクスムの戦勝碑には、、、など、の名が見られる。 この事から、この時代のエチオピアは、やなど、の影響を強く受けていたと考えられている。 全盛期はでこのころ伝来の影響が見られ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わったを宗教としていた)、王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。 アクスムはで預言者と最初の信者達を匿ったため、が紅海との多くの支配権を得て、アクスムが経済的に孤立していってもアクスムとは友好関係を保ち、アクスムが侵攻されたり、イスラム化されたりすることはなかった。 アクスム王国は、10世紀ごろに の女首長 ()に滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のから台頭してきた ()の(ca. 1137,ca. 1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。 エチオピア帝国 [ ] 詳細は「」を参照 エチオピアの皇帝は、アムハラ語で ネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「」という意味である。 王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていなかったりした時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。 ザグウェ朝 [ ] (—)は、13世紀初頭の ()王のときが全盛期で、首都ロハ(現)にはにもなっているが築かれた。 しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方の、からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者によってに滅ぼされた。 ソロモン朝 [ ] イクノ・アムラクの建てた王朝は ()(-)と呼ばれる。 ソロモン朝は、 ()以降15世紀の ()まで全盛を誇り、のに大きな態度をとることすらあった。 諸公侯時代 [ ] しかし、16世紀以降 ()(—現在)が強勢となってソロモン朝の力は衰え、1679年から1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。 ソロモン朝の中興 [ ] 最後の皇帝。 やでカリスマ的存在となって世界各地の黒人に大きな希望を与えた。 諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがであり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。 の19世紀の末に2度の侵略を受けたが、のによって、これを退けた()。 このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のを乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。 これにより、エチオピアはと並んでアフリカの黒人国家で独立を守り切った国家となった。 に皇帝に即位したは、即位後エチオピア初のとなったをを範として制定した。 1930年11月2日の皇帝ハイレ・セラシエの即位は、のイギリス植民地、のの思想的影響を受けていたの間に、ハイレ・セラシエを黒人のたる、「」であると見なすを高揚させ、のに勢いを与えた。 イタリア領東アフリカ [ ] 詳細は「」を参照 しかし、新帝ハイレ・セラシエ1世の即位とエチオピア帝国憲法の制定も束の間の平穏であった。 ・の統領は、の時点で人口4200万人に達していた国内の過剰人口を入植させるための「東アフリカ帝国」の建設を目論み、の「」を経た後、「」と「」を掲げてにがエチオピア帝国に侵攻、が勃発した。 イタリア軍は3月のでを使用して近代武装した帝国親衛隊を含むを壊滅させた後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はを経てに亡命、1936年に率いるイタリア軍が首都アディスアベバに入城した。 首都アディスアベバ陥落後、からにかけてエチオピアはイタリアのに編入され()、ファシスト・イタリアは教徒のを優遇し、のを冷遇する策を採用したが、その間も「」と呼ばれるが抗イタリアのを行った。 イギリス軍政とソロモン朝復古独立 [ ] にが勃発しにイタリアが参戦すると、イタリアはのイギリスとの戦いを繰り広げ、エチオピアを占領していたイタリア軍とイギリス軍は ()の激戦の後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はと共ににアディスアベバに凱旋した。 イギリス軍軍政を経た後、再びエチオピアは独立を回復した。 独立回復の翌年のにはかつて占領されたイタリアを含むに対し宣戦布告し、としてに参戦した。 エチオピア・エリトリア連邦 [ ] 詳細は「」を参照 にとを組んで、が成立した。 しかし、国内のな諸制度は温存されたままであり、これが社会不安を引き起こすこととなった。 には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した。 帝政廃止 [ ] にはエリトリアをとして併合した。 こうした中東部の地方のの反政府闘争、およびによる10万人の餓死者という惨状、による物価高騰が引き金となり、アディスアベバの騒乱から陸軍が反乱を起こした。 最後の皇帝であるは1974年9月に軍のによって逮捕・廃位させられた。 ここに紀元前より続いた帝政は終焉した。 軍はをとする 臨時軍事行政評議会(Provisional Military Administrarive Council、PMAC)を設置、1975年12月に建設を宣言、の半衛星国となった。 2月にがPMAC議長に就任するが、彼が執った恐怖政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる( ())。 の国民投票でPMACを廃止、メンギスツはに就任し、 エチオピア人民民主共和国を樹立、による一党独裁制を敷いた。 、、の各地方での反政府勢力との戦闘(、)の結果、メンギスツは1991年5月にへ亡命した。 エリトリアの独立・メレス政権 [ ] 、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、 は、等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。 この時の合意によりTPLFを中心とした反政府勢力連合によるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。 また、エチオピアでもEPRDFにより暫定政権が樹立され、EPRDFの書記長が暫定大統領に就任した。 1995年8月には新憲法が制定され、情報相が正式大統領、メレスは新憲法下で事実上の最高指導者となるに就任し、国名を エチオピア連邦民主共和国と改称した。 オガデンの反乱 [ ] 詳細は「 ()」を参照 政治体制 [ ] は、。 現行 ()は ()である。 たるの権限は、形式的儀礼的なものに限られる。 任期は6年で、下院により選出される。 現大統領サヘレウォルクは、2018年10月に就任した。 行政 [ ] の長であるは、下院議員の総選挙後に開かれる議会において、下院議員の中から選出される。 内閣の閣僚は、首相が選任し、下院が承認する。 任期は5年だが、のため、任期途中で失職する場合もある。 立法 [ ] は、。 (連邦院)は108議席で、議員は各州議会によって選出される。 (人民代表院)は 548 議席で、議員は選挙で選出される。 議員の任期は、上下院とも5年。 政党 [ ] 連立与党は、 EPRDF を構成する OPDO 、 ANDM 、 SEPDM 、 TPLF の4党。 その他の主要政党は エチオピア民主連盟、 全エチオピア統一党、 統一エチオピア民主党・メディン党、 虹のエチオピア・民主社会正義運動の4党で構成される UDF など。 反政府勢力として、オロモ解放戦線 OLF など4組織で構成された UOLF や ONLF がある。 かつて政権時代の支配政党であったは勢力を失い、自然消滅している。 国際関係 [ ] 詳細は「 ()」を参照 エリトリアとの関係 [ ] かつてエチオピアの領土()であった北の隣国エリトリアとの関係では、 EPLF が TPLF とともに反闘争を戦い抜いたこともあり、のエリトリア独立当初の関係は良好であったが、の領土問題や港湾の利用権、エリトリアの独自通貨導入などにより関係が悪化し、に武力衝突に発展した()。 に国際連合エチオピア・エリトリア派遣団 UNMEE が派遣され調停に当たったもののに撤退した。 7月9日、エリトリアの首都アスマラにおいて、エチオピアの首相とエリトリアの大統領が20年ぶりの首脳会談を行い、長年にわたる戦争状態を終結することで合意。 戦争状態の終焉や経済・外交関係の再開、国境に係る決定の履行を内容とする共同宣言に署名した。 ソマリアとの関係 [ ] 詳細は「 ()」を参照 東の隣国との関係では、かつてを掲げていた関係で問題を抱えている。 国内に居住地域のを抱えるエチオピアは、その帰属をめぐってにソマリアとを起こした。 政権は、の直接介入との軍事援助を得たこともあって、1988年に勝利したものの、以後も両国の関係は良好とは言い難かった。 にソマリアの政権が崩壊しソマリアがとなった後、に組織のがソマリア首都を制圧し国土統一の動きを見せると、隣国に於ける過激派の伸張を嫌うエチオピアはソマリア国内への干渉を強化。 同年12月24日、エチオピアはを支援してソマリア侵攻を開始した。 軍事力に勝るは28日にはモガディシュを制圧し、イスラム法廷会議軍をほぼ駆逐したものの、オガデン戦争の余波でソマリアの反エチオピア感情は根強く、ソマリア各地で反エチオピア暴動が勃発。 2008年8月19日、エチオピア軍は初頭のソマリアからの撤退に同意した。 日本国との関係 [ ] 詳細は「」を参照 に当時のエチオピア帝国とは国交を樹立し、に訪中した皇帝ハイレ・セラシエ1世は後のと初めて会談した外国指導者だった。 エチオピア帝国はへの援助を取り下げた中国から巨額の融資を受けるもの軍事クーデターで皇帝を打倒したメンギスツはを起こしていたソ連に接近して隣国ソマリアのバーレ政権への中国の支援を批判したが、国交は続けて一定の経済協力は維持した。 メンギスツを打倒した1991年のメレス・ゼナウィ政権からは本格的に関係回復し 、(AU)本部は中国の費用全額負担で寄贈され、エチオピア初の環状道路と高速道路 などエチオピアの道路の7割を中国は建設したとされ 、さらに初の風力・水力発電所 や初の工業団地 、初の人工衛星の打ち上げ 、、 、 ()、との近代化、の携帯電話工場 、全土の通信網の整備 など中国からの様々な援助を受け入れ 、このことからエチオピアは「アフリカの中国」 と呼ばれることもある。 また、エチオピアの大統領を務めたは中国に留学した経歴を持っていた。 エチオピアは、中国側からインフラ投資を通じてのモデル国家として称賛を受けている国であるが、2018年時点の国の債務額はの59%にも及んでおり、その大半は中国からの融資とみられている。 政府は、より多くの中国企業の国内進出と対中国の債務の軽減を模索している。 地方行政区分 [ ] 詳細は「 ()」を参照 エチオピアは世界で27番目に面積が大きい国である。 北部をエリトリアとジブチに接するだが、それぞれとからはわずか70kmしか離れていない。 国土の中央にある首都アディスアベバの標高は2400m。 北部は水系が多い。 とのを接する東部の地方はエチオピア高原からソマリアのへ下る地形。 北部のはと呼ばれる地質学的に重要な低地。 沿岸部の・ケニアから伸びるがこの地域でとに分かれる。 2005年にもが噴火し深さ60mの亀裂を作っており、生きている地球の活動が見られる。 国の最高地点は北部の北東に位置する 海抜4550m である。 エチオピア高原は本来の地形は平らだが、標高が高く降雨が多いためが激しく、非常に深い谷や崖が多い。 この地形は外国勢力からの防衛には適しており、エチオピアが植民地化されなかった理由にもなったが、一方で交通インフラを整備するにはまったく不適切な地形であり、経済発展上の一つのネックとなっている。 気候 [ ] 以南のに位置する。 エチオピア高原はが多く、年間降雨量は1200mmを超す。 この豊富な降雨量が、エチオピア高原にゆたかな植生をもたらし、また農耕もおこなわれ、アフリカ第2位の人口を支えている。 エチオピア高原の豊富な雨量は、高原北部のを水源とし西部へ流れる、高原中央部から南へ流れへと流れ込む、同じく高原中央部から東部へと流れ下り、国境近くのへと流れこむ、高原南部から南東部へと流れ、やがてへと流れ込むとなど、多くの河川となって四方へと流れ下り、周囲の乾燥地域を潤している。 通常、は6月半ばから9月半ばまでである。 アフリカ大地溝帯によって隔てられた東部高原は乾燥しており、その東に広がりソマリアへ続く地方はさらに暑く乾燥している。 軍事 [ ] 詳細は「」を参照 の統計によると、のエチオピアのは460億ドルである。 、の()以来、一時を達成した時期を除き厳しい経済状態が続く。 近年では2004年から2011年にかけて8年連続で二桁の経済成長を続けて2014年には世界最高の経済成長率を記録 するなど、アフリカ諸国の中でも高い成長率を維持し続けているが、依然として最貧国から脱出できない状態にある。 主要産業であるはGDPの41%で、輸出と労働力の80%を占めるが、機械化が進まず生産性が低い。 のエリトリア独立に伴いとなったため、北東の隣国のおよびを有料で利用。 の港の利用も増えている。 かつてはエリトリアの南部にある港がおもな港であったが、エリトリア独立後、1998年に両国間で勃発したによってこのルートは完全に断たれた。 主要産業:農業(、)、業、アディスアベバで若干の(、食品加工など) 農業及び畜産業 [ ] 国土の10. 首都アディスアベバの年降水量は1179. 1mmであり、乾燥に弱い作物の栽培も可能である。 の水貯蔵庫と言われるほどに河川が存在するが、には1. 5%のみ、発電には1%しか使われていない。 また、農業の構造が輸出商品作物の栽培と畜産業(世界10位)に特化しており、2005年時点でナイジェリア、エジプトに次ぐアフリカで3番目の人口を支えるには主食の栽培量が不足している。 商品作物の輸出が最大の外貨獲得源となっている一方、輸入品のうち最大の品目は食料である。 主食のを作るためのが最も重要な穀物だが、粒が小さく収量が低く生産性が悪いうえ、灌漑に頼らずで栽培されることが多いために弱い。 主要では、(274万トン、以下、2002 年時点の統計)の栽培がさかん。 (17万トン)の生産量は世界シェア10位に達している。 では、(31万トン、世界シェア8位)が目立つ。 業では(3810万頭、7位)、(145万頭、9位)、(47万頭、9位)。 では、(26万トン、7位)、(6. 1万トン、8位)が際立つ。 コーヒーは南部のシダモ地方、カファ地方などで主に栽培されている。 コーヒーはスターバックスと契約した。 と植物の世界有数の輸出国になりつつある。 鉱工業 [ ] エチオピアの鉱業は、(2003年時点で5. 3トン)、(1トン)、(6万1000 トン)に限定されている。 金の産出量は 1990年時点で0. 8トンであり、開発が急速に進んでいる。 埋蔵が確認されている資源として、鉱、鉱、鉱、、鉱、鉱がある。 地方では産出が期待されているが、に中国企業の作業員が反政府組織、(ONLF)に、殺害される事件が発生した。 工業ではバッグなど皮革製品の生産・輸出が盛んでTaytuブランドが育っている。 これに加えて近年、衣料品工場を外国資本(中国、台湾、韓国、インドなど)が相次ぎ建設している。 これはアジア諸国や隣国ケニアに比べて人件費が安いうえ、の再整備で輸出用の物流インフラストラクチャーが改善されたためである。 軽工業だけでなく、外資による医療機器やプリンター、自動車の生産計画もある。 アディスアベバ近郊のボレレミ、南部のハワサなどに工業団地がある。 エチオピア政府は「2025年までの工業化と中進国化」を目標としている。 情報通信 [ ] 通信は国営の ()1社が独占してるが、2006年からやといった中国企業がエチオピア全土の通信網整備を担ってきた。 通貨 [ ] は(birr、ビルとも)である。 電化鉄道 道路 [ ] 高低差が激しく崖の多い地形や、国内の政情不安が続き交通を整備する資金がなかったため、国内の網はあまり発達していない。 鉄道 [ ] 首都アディスアベバから隣国共和国の首都まで、全長781kmのが通っている。 の全通以後、ジブチ・エチオピア鉄道はエチオピア経済を支える柱となってきた。 並行するの改修や、自体の管理不足などから利用者が減少。 にはからアディスアベバまでが運休となった 時期があった。 2018年1月中国資本で新たに電化されたジブチと結ぶが開通した。 航空 [ ] 国営のであるが、アディスアベバのを拠点にエチオピア国内やアフリカ各地、欧州、中東、北米、南米、東南アジアや東アジアに路線を展開しており、2015年4月には日本のにも就航している。 国民 [ ] 12. 最大の勢力はで34. その他、、、、、、、、、、が主な民族である。 また、「」と呼ばれるが存在するが、その大多数はの「」に基づき、からにかけてイスラエルへと移住した。 かつてを建国したのはアムハラ人であり、以後もアムハラ人がエチオピアの政府の中枢を握ってきたが、の軍事政権の崩壊によって政権はメンギスツ政権を打倒したの中核をなすティグレ人の手に渡った。 とはいえはであり、アムハラ文化は他民族にも現在でも影響を与えている。 また、新政権は民族ごとに州を新設し、各による教育を認めたため、最大民族であるの勢いが強くなっている。 憲法では「公用語は存在しないが(すべての言語が平等である)、連邦政府の使用言語は」と定められている。 そのためアムハラ語が事実上のであり、教育・政府機関などでとして全土で広く使用される。 それとは別に各州は州の公用語を定めることも憲法で認められており、アムハラ語、、、、が各州の公用語となっている他に、、 ()、 ()、 ()などが使われている。 独自文章語としても存在する。 エチオピアではエチオピアから独立したエリトリア、隣国のソマリアと共にブラックアフリカでは唯一、非欧米系の自国語が共通語、政府の作業言語として機能している国である。 アムハラ語は全土で通用する。 これは、植民地支配(イタリアに支配された5年間を除く)を受けていない事と長年アムハラ語による統制が進められたためである。 ただ、翻訳作業の手間がかかる等アムハラ語による高度な教育整備が進んでないことから、高等教育では外国で作成された英語のテキストの使用が必須となっており、その関係で中等教育(9年生~)以上では英語がとなっている。 しかし、9年生以上(中学3年・高校や大学)へ進学できるのはエリート層や都市部の一部住民に限定されるため、農村部や地方では英語はほとんど通じず、他のブラックアフリカ諸国に見られるような欧米系の言語支配を受けていないことが分かる。 宗教 [ ] この節のが望まれています。 各言語を尊重するために、1年次~8年次にあたる初等部では一部を除くと、他の諸国に見られるような欧州の言語ではなく各民族語で教育が行われる。 9年次~12年次の中等部・高等部や大学などでは英語が教授言語となっている。 多くの国民は、初等部のみで教育を終え、中等部以降の教育を受ける国民は非常に少なくなっている。 アムハラ語という全土で通用する共通語があるにも関わらず、高等教育での教授言語の英語使用は教師、生徒共に低い英語レベルや英語が苦手な非エリート層の進学率を阻害する等の弊害を生んでいる。 著名な大学にはがある。 婚姻 [ ] 婚姻してもほとんどの女性は改姓しない。 文化 [ ] 詳細は「」を参照 エチオピアの主流の文化であるアムハラ文化において、主食はなどのを水で溶いてさせ大きな状に焼いたであり、代表的な料理としては、クックル(エチオピア風)、トゥプス(焼肉・炒め肉・干し肉)などがある。 辛い料理が多い。 エチオピア正教のによりツォムと呼ばれるの習慣があり、水曜日と金曜日を断食の日とし、午前中は全ての食事を、は動物性を取らない。 (2月~4月)のツォムは2ヶ月の長期に亘り、により断食明けとなる。 同様に戒律を理由として、やのように、を食べることは固く禁じられている。 これらの文化は基本的にアムハラ人の文化であるが、アムハラ人がエチオピアの実権を握ってきた期間が長かったため、国内の他民族にも普及している。 これに対し、南部においては、といわれるの一種からとれるを主食とする文化がある。 エンセーテは実ではなく、基部及びに蓄えられたを主に食用とするもので、取り出した後に数週間発酵させたのちやにして食べる。 エンセーテはエチオピア南部を中心に2000万人の主食となっているとされるが、近年テフなどに押され栽培は減少傾向にある。 エチオピアはの原産地と言われており 、コーヒーは広く常飲されている。 また、複数の人でコーヒーを楽しむ「」という習慣がある。 としては、・が生産されているほか、としてタッジ()・(やトウモロコシが原料のに似た飲料)・()がある。 また嗜好品として、の葉を噛む習慣がある。 2014年10月. 2014年10月26日閲覧。 2015年. CIA. 2015年3月23日閲覧。 CIA 2016年. CIA. 2016年10月31日閲覧。 橘玲 2019年10月4日. 2019年12月22日閲覧。 ()という説もある。 『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、207-219頁。 『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、219-229頁。 『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、231-239頁。 『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、239-240頁。 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 pp89-93• BBC News• 毎日新聞• CNN. 2018年7月10日. 2018年9月2日閲覧。 Qnewニュース. 2017年7月12日. 2018年10月14日閲覧。 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。 265• "Haile Selassie of Ethiopia Dies at 83". New York Times. August 28, 1975. 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