豊臣 秀吉 天下 統一。 【九州征伐】天下統一目前!秀吉の九州攻め!島津義久・義弘vs豊臣秀吉!

【九州征伐】天下統一目前!秀吉の九州攻め!島津義久・義弘vs豊臣秀吉!

豊臣 秀吉 天下 統一

豊臣秀吉 出典:Wikipedia 並みいる有力大名をおさえ、天下統一を成し遂げていく秀吉の、 類い稀なる能力とはどのようなものだったのでしょう。 その思考と行動力に着目してみていきましょう。 身分と初志貫徹力 戦国時代を天下統一へと引っ張っていく三英傑 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。 この3人のうち、信長と家康は大名の子、 、 秀吉は下層の 農民の子として生まれています。 信長は家督争い、家康は人質としての生活で苦労したとはいえ、生まれながらの武家。 秀吉の味わった辛苦は、比較できる種類のものではありません。 戦国の世において、大名同士が争うたびに農地が荒らされ住む場所を追われ、戦乱に巻き込まれて多数の死者を出すということが日常だったのです。 このような現実の中を生きる中で、 どうにかして戦乱の世を終わらせられないものか と秀吉は常に考えるようになります。 それと同時に、どんな状況下においても 「立てた志を貫き通す精神力」が培われていったのでしょう。 他の大名が、自分の有する勢力圏を守ることに囚われいたました。 それに対して失うものが何もない秀吉は、大きな視点で物事を捉え、羽を広げて飛び立つことが出来たのではないでしょうか。 的確な判断とスピード 物事を成就するのには、 実行のスピードが大きな要因となります。 しかも、そのスピードが的確な方向へ向けられていないと意味がありません。 秀吉の場合、主君、織田信長が本能寺において明智光秀に弑逆されたときにそれが発揮されます。 中国地方へ遠征に出ていた秀吉は、有力な信長臣下を差し置いて、わずか 「10日以内」で京に駆け付けました。 そして、信長の仇討ちを果たします。 以後、時代の鬼才、織田信長の偉業の後を継ぐものとして、勇躍していくことになるのです。 道半ばとはいえ、天下統一の基盤を作っていた信長の後を継ぐ機会を逃さなかった秀吉。 天下統一を成し遂げる最も大きな要因だったといえるでしょう。 人心掌握術 辛苦を味わいながら人生を切り開いていった人物には、他人の痛みがわかる人徳者が多く現れるものです。 出自において何も持たなかった秀吉が、織田信長の心をとらえて抜擢されます。 その後、数々の優秀な人材を配下にして、出世していく様は 「人徳による人心掌握の巧みさ」に他なりません。 何も持たないがゆえに、自分一人では何もできないことが身に染み、 周囲への気遣いの大切さを知っていたことが大きいのではないでしょうか。 人と人を取り持つ名人と言われた、実弟 「豊臣秀長」の存在も大きかったのですが、 天才軍師「竹中半兵衛」、 「黒田官兵衛」のようなブレーンを多く集めることができたのは、秀吉の天下統一には欠かせなかったといえます。 きょうのまとめ 貧しい農民出身の豊臣秀吉が、 天下統一を成し遂げるまでになれた要因で、絶対不可欠だったものは、次の3つでしょう。

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豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ・奥州仕置(おうしゅうしおき)

豊臣 秀吉 天下 統一

1582年 本能寺の変(ほんのうじのへん) で、が反逆し、 (おだのぶなが)が自殺する。 1583年 大阪城(おおさかじょう)の建設を始める。 1585年 紀伊(きい 和歌山県のこと)、和泉(いずみ 大阪府のこと)、越中 (えっちゅう 富山県のこと)、 四国 を平定する。 豊臣秀吉が 関白(かんぱく) になる。 1587年 九州 を平定する。 1590年 関東 を平定する。 、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、徳川家康(とくがわいえやす)を先頭に関東に軍を進めた。 北条氏政(ほうじょううじまさ)、北条氏直(ほうじょううじなお)の親子は小田原城(おだわらじょう)に立てこもった。 豊臣秀吉は関東の北条氏の領地を次々に征服し、小田原城を取り囲んだ。 7月に北条氏直は降伏し、高野山(こうやさん)に追われた。 北条氏政(ほうじょううじまさ)は切腹(せっぷく)し、北条氏はほろび、関東が平定された。 このとき、東北地方最大の大名の伊達正宗(だてまさむね)は、死を覚悟して死装束(しにしょうぞく)で豊臣秀吉の前にあらわれ、豊臣秀吉に許され家臣となる。 8月に徳川家康は、今までの静岡県、山梨県などの領地のかわりに関東を与えられ、江戸(えど)に入る。

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豐臣秀吉

豊臣 秀吉 天下 統一

Sponsored Links 多くの有能な戦国武将たちを抑え、天下統一を果たした豊臣秀吉。 なぜ秀吉は天下統一を成功させることができたのでしょうか。 また、なぜ秀吉だったのでしょうか。 秀吉の出自がカギ? 他の戦国武将と秀吉の最も大きな違いはその出自でしょう。 信長や家康が生まれながらにして大名の子であり、先祖代々の土地をひろげ、守っていく一種の責任を負っていたのに対し、貧農の息子として生まれたとされる秀吉にはある意味怖いものなどなにもない、失うものは何もなかったのです。 だからこそ他の戦国武将の誰よりも大胆な行動をとることができたと考えられるのではないでしょうか。 落ちるところまで落ちたらあとは登るだけというのは今も昔も変わらない。 そのことが秀吉の行動力につながっていったと考えられます。 何もないから周囲の評判など気にせず、出世のため、信長の目に止まるために、草履を懐で温めることくらい簡単にやってのけることができたのです。 Sponsored Links 秀吉の人脈の背景は 次に注目したいのは秀吉の人脈の広さです。 信長の家臣として秀吉の人脈が活かされた最初の事例は、「一夜城」とも呼ばれる墨俣城の築城の時でした。 秀吉は佐久間信盛や柴田勝家ら信長の重臣が失敗に終わっていた墨俣城を見事完成させ、信長の美濃奪取を成功に導いたのです。 その成功のカギとなったのが、秀吉が自らの人脈を駆使して集めた技術者集団でした。 木材伐り出しの山方衆や木曽川の交通・運輸の船頭衆、鉄製道具を作る鍛冶師、尾張各地の大工棟梁衆。 なぜ、秀吉はこんなにも広い人脈をもっていたのでしょうか。 秀吉自身が技術者と何らかのつながりがあり、そのことが墨俣城築城の時に発揮されたような広い人脈を作ったと考えられているそうです。 「人たらし」といわれる褒め上手 秀吉はとにかくよく褒める人物であったようです。 ちょっとしたことでも真剣に、しかも上からではなく低姿勢に褒めたといわれています。 こうしたことから秀吉は「人たらし」と評されます。 「女たらし」としても知られる秀吉ですが、女以外も「たらし」ていたのです。 あまりに褒められるものだから、どんなに過酷に使われても嫌がられず、かえって尊敬される。 もともと出自の低い身分であったことがこうした姿勢につながっているのかもしれませんが、頭の切れる秀吉のことですから、きっと考えがあってのことだったのでしょう。 他の家臣のように古くからの家来を持たなかった秀吉が、黒田官兵衛や竹中半兵衛など当時において有能と知られた軍師たちを家来とすることができたのも、秀吉の「人たらし」の才の為せる技と考えられます。 By: スケールの大きな調略 調略というのは簡単に言ってしまえば「根回し」ということです。 秀吉は視野が広く、ものごとの全体に目を配り、手を打っていくタイプの人物でした。 こうした秀吉の才能は若くしてすでにあり、薪奉行を命じられた際に、経費節減のためこれを上納制に変え、さらに苗木を渡したというエピソードにもよく表れています。 目先のことだけでなく、その先のことまで考えるのです。 城攻めに関しても、直接武力によって攻撃せず、水攻めや兵糧攻めを用いて、利益をもって懐柔したり、離反するように裏工作を行ったりと、様々な手を用いています。 いち早く敵を降伏させることを目的とすれば武力が一番手っ取り早いわけですが、そうせずに城も人も土地も傷つけずに手に入れることのほうが後々利益が大きいのです。 そのためには労を惜しまない。 秀吉が天下統一に大きく近づくきっかけとなった清州会議でもこうした秀吉の調略の才は存分に発揮され、そして結果として大きな戦を経ずに天下を手に入れてしまったのです。

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