面白き こと も なき 世 を 面白く 住みなす もの は 心 なり けり。 おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなしものは心なりけりの意味

高杉晋作の辞世の句、下の句を知らずして面白くない批判をする人々。

面白き こと も なき 世 を 面白く 住みなす もの は 心 なり けり

高杉晋作、そして久坂玄瑞の辞世 鳥羽伏見の戦い関係の記事は、一段落したので、今日は、高杉晋作と久坂玄瑞の辞世について書きます。 高杉晋作の辞世として有名なのが次の句です。 「面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」 しかも、高杉晋作が「面白きこともなき世を面白く」と詠んだが、その後が続かないので、そばにいた野村望東尼が、「住みなすものは心なりけり」と続けたと言われています。 司馬遼太郎の「世に棲む日日」では、次のように描かれています。 晋作はずっと昏睡状態にあったが、夜がまだ明けぬころ、不意に瞼をあげてあたりを見た。 意識が濁っていないことが、たれの目にもわかった。 晋作は、筆を要求した。 枕頭にいた野村望東尼が紙を晋作の顔のそぼにもってゆき、筆をもたせた。 晋作は辞世の歌を書くつもりであった。 ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で、書きはじめた。 おもしろき こともなき世をおもしろく とまで書いたが、力が尽き、筆をおとしてしまった。 晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた、もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないとおもい、 「すみなすものは 心なりけり」 と書き、晋作の顔の上にかざした。 望東尼の下の句は変に道歌めいていて晋作の好みらしくはなかった。 しかし晋作はいま一度目をひらいて、しかし晋作はいま一度目をひらいて、 「……面白いのう」 と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。 高杉晋作の辞世は江戸検1級でも出題されています。 第2回の第90問は次のような問題です。 【 90】慶応3年( 1867) 4月 14日、 29歳で下関に没した幕末の志士、高杉晋作の辞世の句は、次のうちどれでしょう? ただし、下の句は死の直前まで看病にあたっていた野村望東尼の作といわれています。 い)身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂 ろ)おもしろき こともなき世をおもしろく すみなすものは 心なりけり は)世の人は われを何とも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞ知る に)君が為め 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空 しかし、高杉晋作についての評伝を読むと、この「おもしろき こともなき世をおもしろく」の句は、臨終の際に詠まれたものではないという説がかなり強く主張されています。 例えば、人物叢書『高杉晋作』梅溪昇著 P302には次のように書かれています。 晋作の辞世の句として、「面白キ事モナキ世ニヲモシロク 住ナスモノハコヽロナリケリ」が人口に謄灸しているが、一坂太郎の指摘したように、その歌は「丙寅(慶応二年)未定稿五十首国歌十首」と題されたなかにまとめられているもので、臨終の際に作られたものとはいえない。 また、ミネルヴァ日本評伝『高杉晋作』海原徹著 P248には次のように書かれています。 辞世の歌として人口に謄炎した作品、晋作がまず、「面白き事もなき世におもしろく」と上の句を綴り、これに望東尼が、「住みなすものは心なりけり」と続けて完成した歌は、二、三の先行研究が言うように、同居が始まった慶応二年暮頃の作らしく、臨終の席で慌しく作られたものではない。 『高杉晋作のすべて』(新人物往来社刊)に載っている「高杉雅子の回想」では、晋作の妻雅子は次のように語っています。 井上さんや福田さんに向っていつも『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。 しっかりやって呉れろ。 しっかりやって呉れろ。 』と言い続けて亡くなりました。 いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。 『しっかりやって呉れろ』というのが遺言といえば遺言でございましょう。 これらを読むと、高杉晋作の辞世と言われてきた「面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」は慶応2年に詠まれたもので、高杉晋作が亡くなったのは慶応3年4月14日であり、亡くなる際に詠まれたものでないということのようです。 こうしたことから、辞世を臨終の際に詠んだものと定義すれば、「面白きこともなき世を面白く」は、辞世ではないということになります。 このことが分かりましたので、同じようなことが久坂玄瑞の辞世にも言えるのではないかと思います。 久坂玄瑞の辞世の句についてインターネットで検索すると 「ほととぎす ちになくこえはありあけの つきよりほかに しるひとぞなき」 が辞世の句として出てきます。 しかし、久坂玄瑞全集で、この句を調べると、この句が出てくるのが『萬延辛酉初春文久 江月斎日乗』という久坂玄瑞の日記の中の12月晦日の中に記されています。 辛酉の年は、萬延2年(途中で改元されて文久元年となりました)ですので、この句は、 文久元年(1861)の12月30日に詠まれた句だと思われます。 ちなみに江月斎というのは久坂玄瑞の号です。 久坂玄瑞は、元治元年(1864)7月19日の禁門の変の際に、鷹司邸で自刃して亡くなっています。 つまりインターネットで辞世の句と言われている句は、亡くなる2年半も前に詠まれた句です。 なくなる2年半も前に詠んだ句が辞世の句となるのか疑問に思いましたので、以前、久坂玄瑞の辞世の句について問い合わせたことのある萩博物館に確認させていただきました。 その回答は 、「『ほととぎす ちになくこえはありあけの つきよりほかにしるひとぞなき』の句は、文久元年に詠まれているので、久坂玄瑞の辞世の句ではありません」という単純明快な回答でした。 「新たな発見!」です。

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「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけ

面白き こと も なき 世 を 面白く 住みなす もの は 心 なり けり

萩市の晋作広場にある高杉晋作立志像 下(現・)に士・(大組・200)とみちの長男として生まれる。 武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)の三人の妹がいる。 10歳のころにを患う。 塾(吉松塾)を経て、5年()に藩校のに入学。 剣術も学び、のち免許を皆伝される。 4年()にはが主宰していたに入り、、、とともに松下村塾四天王と呼ばれた。 安政5年()には藩命でへ遊学、や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。 安政6年()には師の松陰がで捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をするが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰はに処刑される。 元年()に帰郷後、防長一の美人と言われた山口井上平右衛門(大組・250石)の次女・と結婚する。 留学 [ ] 元年()には修練のため、藩の所蔵する軍艦「」に乗船、江戸へ渡る。 道場で剣術の稽古をした。 には遊学を行い、や、とも交友する。 文久2年()には藩命で、らとともに、幕府使節随行員としてからのへ渡航、がのとなりつつある実情や、を見聞してに帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。 尊王攘夷運動 [ ] 長州藩では、晋作の渡航中に守旧派のらが失脚、(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎()や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・において・の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。 文久2年()、晋作は「はすでにして攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、を説いている。 何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。 藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。 折りしも、外国がしばしば武州金澤()で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、、、、、、、、、) が相談した。 しかし玄瑞がのに話したことから、これが前土佐藩主・を通して長州藩世子・に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内にを命ぜられる。 この過程で、長州藩とや他藩との提携交渉は、もっぱら桂や久坂が担当することとなる。 文久2年には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中のを行う。 これらの過激な行いが幕府を刺激することを恐れた藩では、晋作を江戸から召還する。 その後、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称した。 下関戦争と奇兵隊創設 [ ] 奇兵隊所属の兵の写真 文久3年()、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩はにおいて外国船砲撃を行うが、逆にの報復に逢い惨敗する()。 晋作は下関の防衛を任せられ、にはの邸において身分に因らないによるを結成し、阿弥陀寺(の隣)を本拠とするが、にはの責任を問われ総監を罷免された。 京都ではとが結託したであるで長州藩が追放され、文久4年()、晋作はして京都へ潜伏する。 桂小五郎の説得でには帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。 、長州藩はで敗北してとなり、は戦死、久坂玄瑞は自害した。 には、、、、の4か国連合が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。 晋作が24歳のときであった。 交渉の席で通訳を務めたの後年の回想によると、このにおいて、連合国は数多の条件とともに「の」を要求してきた。 晋作はほぼすべての提示条件を受け入れたが、この「の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した(を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。 これはの見聞を経た晋作が「領土の期限付き租借」の意味するところ(化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていればは大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。 ただし、このエピソードは当時の記録にはない。 功山寺挙兵 [ ] の銅像 による第一次が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、には福岡へ逃れる。 平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。 夜半、 率いる、率いるらを率いて。 のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、2年()には俗論派の首魁・らを排斥して藩の実権を握る。 晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のと接触するが反対される。 には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛・おうの(のちの梅処尼)とともに四国へ逃れ、を頼る。 に桂小五郎の斡旋により帰郷。 2年()付で晋作は高杉家をされて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年、藩命により 谷潜蔵と改名する。 慶応3年()には新知100が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。 高杉本家は義兄の春棋が継いだ。 四境戦争 [ ] 再度の長州征討に備え、晋作は防衛態勢の強化を進めた。 慶応2年()(一説には)、彼が桂小五郎・・伊藤俊輔たちとともに進めていたがの・・の仲介によってで結ばれた。 、伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「」(オテントサマ丸)を購入している。 の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍として「丙寅丸」に乗船し、を執った。 (周防大島)沖でを夜襲してこれを退け、率いるなどと連絡して周防大島を奪還している。 方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。 その後近くまで進撃したものの、の軍勢に撃退され戦況は停滞した。 しかし、に・が死去すると、には・・・・が撤兵、幕府軍総督・も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が小倉城に火を放ち逃走したため、幕府軍の敗北が決定的となった。 幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)のへとつながることとなった。 その後、下関市桜山での療養中の慶応3年()に死去。 29(満27歳没)。 臨終には父・母・妻と息子がかけつけ、・・が立ち会ったとされる(ただし田中自身は当日は京にいたと日記に記している)。 墓所 [ ] 墓 (東行庵敷地内) 墓所は吉田のにある。 2016年4月に晋作の生前の遺言を刻んだ「墓誌碑」が建立された。 また木戸孝允・らによって東京招魂社(現在の)に・・・たちとともに祀られた。 人物 [ ]• いわゆるについて、• 「おもしろきこともなき世 をおもしろく」• 「おもしろきこともなき世 におもしろく」 の両説あるが、晋作直筆になる歌が残されていないため、正確なところは不明。 なお東行庵の句碑には「に」とあり、の歌碑では「を」となっている。 の著書では「を」が採用されている一方、は「に」を採用し「『を』は後年の改作であろう」としている。 また「に」が正しい場合「を」が広まることはなかっただろうという批判もある。 かつては死の床にあった晋作が詠み、晋作を看病していたが「 すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと言われていたが、近年の研究によればこの歌は死の前年にすでに詠まれていたという記録があり、正確には辞世ではないという説が有力である。 「 三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」(添寝の部分が『朝寝』とされていることもある)は一般に晋作の作であると言われている(作の説も有り)。 この都々逸は、現在でも萩のである「」や「」の歌詞として唄われている。 晋作は小柄であり、本人もそれを気にしていたため、直立して撮った写真は現存しない。 また小柄ではあったが長いを好んで愛用していた。 その姿は刀が長いため引きずって歩いているように見えたという。 師である吉田松陰は晋作の非凡さをいち早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない晋作を奮起させるために、あえて同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。 晋作は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。 玄瑞と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなど、とても優秀であったという。 と私金の区別をつけない人物だった。 藩の金で軍艦を二度、購入しようとしたこともある。 一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれて刀を見せたことがあったが、武士の魂ともいえる刀を物めずらしいと何度も見せてくれと言われ、そのことを遺憾に感じた晋作はそれ以後決して見せることはなかったという。 晋作がで購入したモデル2アーミー 33口径6連発が、坂本龍馬に贈られた。 のちにはの前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島はになり、下関はになっていただろう」と語っている。 言動 [ ] 「死すべきときに死し、生くべき時に生くるは英雄豪傑のなすところである。 両三年は軽挙妄動せずして、専ら学問をするがよい。 その中には英雄の死すべき時が必ず来る」 「およそ英雄というものは変なき時は非人乞食となって潜れ。 変ある時に及んで龍の如くに振舞はねばならない」 「男子と言うものは困ったと言うことを決して言うものではない。 これは自分が父から平生やかましく言われたことであるが、困ったと言う時は死ぬ時である。 どんな難局に處しても、何困らぬと言う気概でやっておると、自づと通づるものである。 どんな難局にも必ず逃れ路がある。 行き当れば曲り路ありと言う訳である。 断じて困らぬと言う気概でやっていれば必ず道はつくものである。 だから困ったという一言だけは決して口にしてはいけない」 評価 [ ]• 「有識の士なり。 しかし、学問をつとめず。 またすこぶる意に任せ自ら用うるの癖あり。 余かつて玄瑞を挙げ以て晋作を抑ゆ。 晋作の心、甚だ服せず。 未だ幾ばくならず。 晋作の学業にわかに長じ、議論益々たかし。 同志皆為に衽を斂む。 余事を議するごとに多く晋作を引き之を断ず。 その言往々、あなどるべからざる也」• 「その精識に至っては余の及ぶところではない」• 「高杉生、僕より少きこと十年、学問充たず、経歴浅し。 然れども強質清識凡倫に卓越す」• 「俊邁の少年なり。 ただ惜しむらくは、少し頑固の性質あり。 後来、おそらくは人言を容れざるべし。 貴君(松陰)は早くその点を注意して、教えなされたならば、必ず彼の将来に利益するであろう」• 「思慮周密、その才は当世無比」• 「晋作は遂に吾が及ぶ所に非ざるなり」• 「久坂は(有志組の)隊長としては陣中に起臥し、兵士と起居飲食を共にしており、謹厳にして質素である。 高杉はこれに反して多くは兵営外に泊まり、時には相合傘で、馴染の美人を引張って、陣中に入ったこともあった。 しかしながら、この二人に対する兵士の人望は、全然同一であった」• 「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」• 「中々勇悍の人であった。 創業的才藻には余程富んで居った」• 「当時にありて既に群を抜き出でたる高杉なれば、今日にあっても、(伊藤・井上)彼らの比ではあるまいと思う」• 「胆略有り、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に打ち勝つものは高杉東行(晋作)、是れ亦洛西の一奇才」• 「年は若し、時が時だったから、充分器量を出さずにしまったが、なかなか活気の強かった男さ」• 「兵を用いて鬼神の如き高杉、事に臨んで神出鬼没の英傑高杉、不世出の快男児高杉」• 「奇策縦横、神出鬼没、その一挙手一投足がすべて天下の魁となって闔藩の意気を鼓舞したのみならず、全国勤王運動運動家の指導者の役を務めている」• 「自分は維新三傑をことごとく知っている。 また坂本、武市、中岡その外、多くの名士先輩に接している。 しかしながら、聳然として一頭地を抜いているものは高杉である」• 「高杉晋作と云う人は全く偉人であったよ。 我輩が是れまで偉い人だと思ったのは、この高杉一人だ。 実に目先の早い、機敏な人で、臨機応変、奇智沸くが如くであった。 (中略)その鬼謀神算、到底常人の遠く及ぶべき所でない。 大西郷は偉いというが、高杉は段が違う。 大西郷には所作がない。 ただボーッとしているだけだが、高杉は機略縦横、ゆくとして可ならざるはなしという人である」• 「今日までいろんな人にも接したが、あれ位感服し信頼した人もなかった。 丈のすらりとした、男前も立派だった。 平生は優しい目をしておられたが、それがどうかすると、ギロリと光ったものだ。 その時は怖ろしさが、ぞっと身に染みるようだったよ。 総てが親とは反対でな。 先生の親は小心な謹直一方の人で、高杉小忠太といえば、真面目なおとなしい人で通っておったものだ。 父母の教訓、家庭の修養もあろうが、それ以外ああいう男が生まれたのは、天ぢゃノウ。 それで高杉は『鴉の白糞』で、長州の評判になったものぢゃ」• 「一方は血気旺盛な国士の典型、言わば蓋世の英雄であるが、他方は風流韻事を事とする、既に世故に長けた老成の風があった」• 「先生は、臨機応変、機智縦横、如何なる困難に遭遇しても、常に綽々として余裕ある態度を以て切り抜けられた事は、何人といえども、企て及ぶべからざるものがある。 それを普通世間では、単に慷慨悲歌の人、憂国熱誠の士ぐらいに考えて、磊落粗豪のみを以て事に当たったように、その表面ばかりを見ている者が多いようであるが、なかなかどうしてこの裏には、強いて思慮分別を煩わさずして、天才滾々として、随時に湧出した事は実に驚くべきもので、その事業の跡を見ると、よくその基礎を固め根底を作るという結果を、自然に現わしている。 しかして、その活動を為すに当りては、縦横の機智と、臨機の天才とを応用せられたのであるから、何事に当っても迷うことなく、行って遂げざるなしという次第ぢゃ。 まず俗論紛々として、帰着するところを知らざる藩論を一定し、続いて、あの猫額大の地を守って、天下の大軍を引受け、何の苦も無く四境にこれを破り、遂に薩長連合の素地を作って、維新大業の基礎を固められたのである。 実にあんな短日月の間に、あれだけの大事を成し遂げた。 その神出鬼没の働きは、唯々驚嘆するの外はないのぢゃ」• 「久坂と高杉の差は、久坂には誰も附いて往きたいが、高杉にはどうにもならぬと皆言う程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多し」• 「彼は反復の士なり」• 「(長州に潜入した際に)男装の自分を女であると見破ったものはただ高杉晋作一人あるのみである。 高杉はさすがに豪いところがあった」 系譜 [ ] 高杉氏のルーツは諸説あり、高杉村(現・広島県高杉町)に所在したを指摘する説と、 西浦村(現・広島県吉田町西浦)に所在したを指摘する説がある。 こちらの城跡には高杉晋作が高杉氏の13代目の子孫であることを示す碑が晋作の子孫により10年()に建立された。 どちらの高杉城も晋作の先祖と関わりがあると思われるが、詳細は不明である。 『遊清五録』 高杉晋作(著)• 『東行先生遺文』 高杉晋作(著)、 東行先生五十年祭記念会(編纂)、 (出版) 関連作品 [ ] 小説 [ ]• 『』()• 司馬遼太郎『』(文春文庫)• 『高杉晋作』()• 『高杉晋作』(、のち人物文庫、)• 『晋作 蒼き烈日』()• 『高杉晋作』(講談社文庫)• 『青年』()• 『高杉晋作奔る』(講談社文庫)• 古川薫『高杉晋作 -戦闘者の愛と死-』()• 『マイ・ディア・シンサク』() 映画 [ ]• 『』(、、:)• 『』(、、監督:)• 『』(1928年、、監督:広瀬五郎)• 『』(1928年、、監督:)• 『』(、、監督:)• 『』(、、監督:、演:)• 『』(、・、監督:・・、演:)• 『』(、日活、監督:、演:)• 『』(、、監督:、演:)• 『』(、リベロ映画、監督:、演:) テレビドラマ [ ] 高杉晋作が主人公のテレビドラマ• 『』(、、演:)• 『』(1989年、、演:)• 『』(、、演:) その他のテレビドラマ• 『』(、演:)• 『』(NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、朝日放送、演:)• 『』(NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、日本テレビドラマスペシャル、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、日本テレビ、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、テレビ東京、演:)• 『』(NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、毎日放送、演:)• 『』(NHK大河ドラマ、演:) テレビ番組 [ ]• 『 第二部 7 馬関の戦い』(1973年、朝日放送、演:)• 『』(2015年、、演:) アニメ [ ] その他のアニメ• 『』(、声:) - 主役の回が2回もある。 漫画 [ ] 高杉晋作が主人公の漫画• 『走れ晋作』(角川書店) その他の漫画• ・『』()• 『』()• 『』(集英社)• 『』(集英社)• 『』(6巻・7巻に登場)()• 『夕凪』(『春やきぬらん』に収録)()• 『龍馬へ』()• 『声音師2(『狐宿』の回)』(小学館)• 『(『カルテ224 幕末蘭方医外伝』に登場)』(講談社)• 『日本の歴史15 ゆきづまる幕府』(小学館)• 『日本の歴史16 幕末の風雲』(小学館)• 『萩が生んだ若き志士 吉田松陰とその門下生』• 『』(4巻から登場)(講談社)• 『ちるらん 新撰組鎮魂歌』 コミックゼノン」• 『ねこねこ日本史』(実業之日本社) 舞台 [ ]• 『彦馬がゆく』-高杉晋作役(2002年1月8日 - 2月3日渋谷PARCO劇場 2002年2月9日 - 3月3日大阪シアタードラマシティ 2002年3月9日 - 3月31日ル テアトル銀座)• 『維新回天竜馬伝』-高杉晋作役(2006年11月 - 12月宝塚大劇場 2007年1月 - 2月東京宝塚劇場)• 『上海大冒険』-高杉晋作役 1990年4月28日(土)~30日(月)扇町ミュージアムスクエア ゲーム [ ]• 『』()• 『』シリーズ()• 『』()• 『』() フィギュア [ ]• 『歴史英雄シリーズ 高杉晋作』()原型制作 高橋渉 samuraidoll• 『幕末維新 胸像シリーズ 高杉晋作』(samuraidoll)原型制作 高橋渉 歌謡曲 [ ]• 高杉晋作()• () CM [ ]• 2015年度の支援キャンペーン「と偉人」(肖像で出演) 脚注 [ ] []• 結成の血盟書に署名のある11名。 古川薫『幕末長州の攘夷戦争』(中央公論社 1996)p198-205• 2016年7月20日. 2016年7月20日閲覧。 『松陰とその門下』• への書簡• 『英雄を語る』• 『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』近代デジタルライブラリー• 『山県有朋 今世人物評伝叢書 第1編 明29. 『海舟言行録』• 『維新夜話』P423• 『海援隊長坂本竜馬』• 『観樹将軍縦横談』近代デジタルライブラリー• 『吉田松陰全集 第12巻』• 『逸話文庫 通俗教育 志士の巻』近代デジタルライブラリー• 『奥村五百子言行録』P14近代デジタルライブラリー 参考文献 [ ]• 東行詩集()• 東行生誕150年記念 高杉晋作と奇兵隊()• 『晋作語録』()• 一坂太郎 ・ 『高杉晋作を歩く』()• 一坂太郎『高杉晋作』()• 一坂太郎『長州奇兵隊』()• 一坂太郎『松陰と晋作の志』()• 一坂太郎『クロニクル高杉晋作の29年』()• 一坂太郎『漢詩改作の謎』()• 一坂太郎『高杉晋作探求』()• 『疾走の志士 高杉晋作』()• 『高杉晋作』()• 古川薫『長州奇兵隊』(創元社)• 『別冊10 長州の革命児 高杉晋作』(新人物往来社)• 『しものせき・人・物語三』()• 『歴史と史蹟をたずねて 高杉晋作』()• 『歴史読本臨時増刊クロニクル2 高杉晋作の29年』(新人物往来社)• 『幕末維新百人一話3 高杉晋作をめぐる群像』()• 『シリーズ46 高杉晋作』() 関連項目 [ ]• - 萩市で運営されている。 運用している2台のバスの内、1台を「晋作くん」と呼称している。 なお、もう1台のバスの名前はである。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。

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面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり

面白き こと も なき 世 を 面白く 住みなす もの は 心 なり けり

高杉晋作、そして久坂玄瑞の辞世 鳥羽伏見の戦い関係の記事は、一段落したので、今日は、高杉晋作と久坂玄瑞の辞世について書きます。 高杉晋作の辞世として有名なのが次の句です。 「面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」 しかも、高杉晋作が「面白きこともなき世を面白く」と詠んだが、その後が続かないので、そばにいた野村望東尼が、「住みなすものは心なりけり」と続けたと言われています。 司馬遼太郎の「世に棲む日日」では、次のように描かれています。 晋作はずっと昏睡状態にあったが、夜がまだ明けぬころ、不意に瞼をあげてあたりを見た。 意識が濁っていないことが、たれの目にもわかった。 晋作は、筆を要求した。 枕頭にいた野村望東尼が紙を晋作の顔のそぼにもってゆき、筆をもたせた。 晋作は辞世の歌を書くつもりであった。 ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で、書きはじめた。 おもしろき こともなき世をおもしろく とまで書いたが、力が尽き、筆をおとしてしまった。 晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた、もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないとおもい、 「すみなすものは 心なりけり」 と書き、晋作の顔の上にかざした。 望東尼の下の句は変に道歌めいていて晋作の好みらしくはなかった。 しかし晋作はいま一度目をひらいて、しかし晋作はいま一度目をひらいて、 「……面白いのう」 と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。 高杉晋作の辞世は江戸検1級でも出題されています。 第2回の第90問は次のような問題です。 【 90】慶応3年( 1867) 4月 14日、 29歳で下関に没した幕末の志士、高杉晋作の辞世の句は、次のうちどれでしょう? ただし、下の句は死の直前まで看病にあたっていた野村望東尼の作といわれています。 い)身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂 ろ)おもしろき こともなき世をおもしろく すみなすものは 心なりけり は)世の人は われを何とも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞ知る に)君が為め 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空 しかし、高杉晋作についての評伝を読むと、この「おもしろき こともなき世をおもしろく」の句は、臨終の際に詠まれたものではないという説がかなり強く主張されています。 例えば、人物叢書『高杉晋作』梅溪昇著 P302には次のように書かれています。 晋作の辞世の句として、「面白キ事モナキ世ニヲモシロク 住ナスモノハコヽロナリケリ」が人口に謄灸しているが、一坂太郎の指摘したように、その歌は「丙寅(慶応二年)未定稿五十首国歌十首」と題されたなかにまとめられているもので、臨終の際に作られたものとはいえない。 また、ミネルヴァ日本評伝『高杉晋作』海原徹著 P248には次のように書かれています。 辞世の歌として人口に謄炎した作品、晋作がまず、「面白き事もなき世におもしろく」と上の句を綴り、これに望東尼が、「住みなすものは心なりけり」と続けて完成した歌は、二、三の先行研究が言うように、同居が始まった慶応二年暮頃の作らしく、臨終の席で慌しく作られたものではない。 『高杉晋作のすべて』(新人物往来社刊)に載っている「高杉雅子の回想」では、晋作の妻雅子は次のように語っています。 井上さんや福田さんに向っていつも『ここまでやったのだからこれからが大事じゃ。 しっかりやって呉れろ。 しっかりやって呉れろ。 』と言い続けて亡くなりました。 いいえ家族のものには別に遺言というものはありませんでした。 『しっかりやって呉れろ』というのが遺言といえば遺言でございましょう。 これらを読むと、高杉晋作の辞世と言われてきた「面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」は慶応2年に詠まれたもので、高杉晋作が亡くなったのは慶応3年4月14日であり、亡くなる際に詠まれたものでないということのようです。 こうしたことから、辞世を臨終の際に詠んだものと定義すれば、「面白きこともなき世を面白く」は、辞世ではないということになります。 このことが分かりましたので、同じようなことが久坂玄瑞の辞世にも言えるのではないかと思います。 久坂玄瑞の辞世の句についてインターネットで検索すると 「ほととぎす ちになくこえはありあけの つきよりほかに しるひとぞなき」 が辞世の句として出てきます。 しかし、久坂玄瑞全集で、この句を調べると、この句が出てくるのが『萬延辛酉初春文久 江月斎日乗』という久坂玄瑞の日記の中の12月晦日の中に記されています。 辛酉の年は、萬延2年(途中で改元されて文久元年となりました)ですので、この句は、 文久元年(1861)の12月30日に詠まれた句だと思われます。 ちなみに江月斎というのは久坂玄瑞の号です。 久坂玄瑞は、元治元年(1864)7月19日の禁門の変の際に、鷹司邸で自刃して亡くなっています。 つまりインターネットで辞世の句と言われている句は、亡くなる2年半も前に詠まれた句です。 なくなる2年半も前に詠んだ句が辞世の句となるのか疑問に思いましたので、以前、久坂玄瑞の辞世の句について問い合わせたことのある萩博物館に確認させていただきました。 その回答は 、「『ほととぎす ちになくこえはありあけの つきよりほかにしるひとぞなき』の句は、文久元年に詠まれているので、久坂玄瑞の辞世の句ではありません」という単純明快な回答でした。 「新たな発見!」です。

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