アレッサンドロ ナニーニ。 優勝は1回だけ。それでもファンに愛され続ける名F1ドライバーとは?

「1989年日本GP」鈴木亜久里予選落ち、ナニーニ優勝

アレッサンドロ ナニーニ

概要 [ ] のチームメイト同士のドライバーズチャンピオン争いは、が81ポイント(では76ポイント)、が60ポイントというプロスト有利の状況で日本GPを迎えた。 このレースでセナが優勝(9ポイント)を得られないと、最終戦を待たずプロストの3度目のチャンピオンが決定する。 両ドライバーには2台ずつシャーシが用意され、V10エンジンは高出力型の「スペック4」と中低回転域トルク型の「スペック5」のいずれかを選択できる体制が用意された。 のが肋骨を傷めて欠場し、代役としてに出場しているがF1デビューした。 予選 [ ] セナは予選でのが記録したレコードタイムを大きく更新し、2年連続して日本GPのポールポジションを獲得した。 予選2位のプロストは1. 730秒という大差をつけられた。 セカンドローにはフェラーリのベルガーとが並んだ。 3位のベルガーはプロストと0. 4秒差だったが、最終アタックで予選用タイヤが1周持たずタイムロスした。 5・7位のウィリアムズ勢の間にはのがつけた。 から進出した()のが8位、のが10位に食い込む健闘を見せた。 日本勢はのがチームメイトのに次ぐ12位。 昨年の予選のピケ5位、中島6位と同じく同チームで2人が並ぶ形となった。 でF1デビューしたのは予備予選落ちとなり、シーズン初の決勝出場は成らなかった。 初の母国GPとなるエンジンは、鈴木の同僚が開幕戦以来の決勝出場を果たした。 結果 [ ] 予備予選 [ ] 順位 No ドライバー コンストラクター タイム 1 17 ・ 1:43. 035 2 30 ・ 1:43. 089 3 34 - 1:44. 053 4 29 ・ 1:44. 075 5 18 ・ 1:44. 313 6 31 ・ 1:44. 498 7 36 ・ 1:44. 582 8 35 - 1:44. 780 9 33 ・ 1:45. 446 10 37 ・ 1:45. 787 11 40 ・ 1:46. 705 12 41 ・ 1:48. 306 13 32 ・ No Time 予選本選 [ ] 順位 No ドライバー コンストラクター 1回目 2回目 1 1 ・ 1:39. 493 1:38. 041 2 2 ・ 1:40. 875 1:39. 771 3 28 1:41. 253 1:40. 187 4 27 1:40. 608 1:40. 406 5 6 ・ 1:42. 397 1:40. 936 6 19 ・ 1:41. 601 1:41. 103 7 5 ・ 1:42. 943 1:41. 324 8 30 ・ 1:42. 534 1:41. 336 9 8 ・ 1:42. 909 1:41. 458 10 17 ・ 1:42. 483 1:41. 519 11 11 ・ 1:43. 386 1:41. 802 12 12 ・ 1:43. 370 1:41. 988 13 7 ・ 1:44. 236 1:42. 182 14 24 ・ 1:43. 107 1:42. 283 15 21 ・ 1:43. 171 1:42. 488 16 22 ・ 1:43. 904 1:42. 581 17 16 ・ 1:43. 851 1:42. 672 18 4 ・ 1:43. 306 1:42. 709 19 23 ・ 1:46. 096 1:42. 780 20 15 ・ 1:44. 805 1:42. 880 21 34 - 1:44. 323 1:42. 892 22 20 ・ 1:43. 217 1:43. 063 23 26 ・ 1:45. 801 1:43. 379 24 10 ・ 1:44. 501 1:43. 511 25 9 ・ 1:44. 288 1:43. 599 26 3 ・ 1:43. 955 1:43. 757 DNQ 25 ・ 1:44. 221 1:44. 030 DNQ 29 ・ 1:44. 063 1:44. 101 DNQ 38 ・ 2:11. 328 1:47. 160 DNQ 39 ・ 1:50. 883 1:47. 295• 太字はベストタイム、DNQは予選不通過。 結果はフォーミュラ1公式サイト 、 を参照。 決勝 [ ] 展開 [ ] プロスト先行 [ ] スタートではプロストがアウト側の2番グリッドから絶妙なスタートを決め、トップで1コーナーに侵入した。 セナはベルガーにも並ばれかけたが、プロストに続く2位をキープした。 ナニーニが4位にジャンプアップし、の問題を抱えるマンセルは6位に後退した。 1周目にはミナルディの2台とシュナイダーが早くも姿を消した。 プロストは快調に走行し、10周目にはセナに対して4秒のリードを築いた。 以下、ベルガー、ナニーニ、マンセル、パトレーゼがそれぞれ5秒前後の間隔で続いた。 中団では()、ピケ、中嶋の9位争いに、後方から()、(ベネトン)が絡んで激しいバトルとなった。 20周前後に各チームのピットストップが行われた。 プロストとセナの差は、周回遅れの処理なども絡んで、30周目には2秒ほどになった。 3位のベルガーは34周目にギアトラブルが発生し、スローダウンしてピットに戻った。 43周目にはチームメイトのマンセルも白煙を吹きながらストップした。 ナニーニが単独3番手を走行するが、優勝争いの2台からは1分近く離されている。 ピケやアレジと9位争いをしていた中嶋はタイヤ交換時に順位を落とし11番手を走行していたが、エンジンのオーバーヒートにより41周目にリタイアした。 また中嶋と順位を争っていたアレジも37周でリタイアした。 シケインでの接触 [ ] セナとプロストの接触が起こった(2011年)。 1989年当時とは位置や形状が変わっている。 残り10周を切る頃にはプロストの背後にセナが肉薄し、のタイミングを窺う展開となった。 決勝前、プロストはウィングを寝かせてストレートスピードを稼ぐセッティングに変更しており、セナがで差を詰めると、プロストが最終コーナーからホームストレートにかけて引き離すというラップが続いた。 残り6周となった47周目、セナは130R立ち上がりで勝負を仕掛け、シケインへのアプローチでブレーキを遅らせプロストのインに飛び込んだ。 プロストは一瞬虚を突かれたが、すかさずステアリングをイン側へ切り込んだ。 セナはブレーキングでイン側の優位を確保していたが真横には並んでおらず、プロストにラインを被せられた。 2台のマクラーレンは接触し、ホイールを絡ませたままコース上に停車した。 プロストは掌を上にかざすゼスチャーを見せ、対照的にセナは両手でヘルメットを抱えた。 プロストは直ちにマシンを降りてリタイアしたが、セナはコースマーシャルにコース復帰を補助するよう指示した。 によりエンジンが再始動し、セナはシケインの退避路を通過してトップのままコースに復帰した。 しかし、接触でフロントウィングが破損したため、1周後にピットインしてノーズコーンとタイヤの交換作業を行った。 リタイアしたプロストはマクラーレンのピットに戻らず、コントロールタワーに向かった。 一連のタイムロスにより、ベネトンのナニーニがトップに浮上したが、ニュータイヤに履き替えたセナが猛追し、51周目のシケインでインを突いた。 ナニーニはブレーキロックしながらも無理には抵抗せず、セナがトップを奪回し、53周目のチェッカーを先頭で受けた。 レース後 [ ] セナがトップでチェッカーを受けたものの、プロストの抗議を受けてコントロールタワーでは審議が続けられ表彰式のスケジュールは遅れた。 20分後に発表された公式結果では、セナは「シケイン不通過」のレギュレーション違反により失格と判定され、ナニーニの繰り上がり優勝が決定した。 ナニーニはF1参戦4年目にして初優勝を達成し、ベネトンチームとしても以来の2勝目となった。 マクラーレンはこの判定を不服として控訴し、国際控訴審判所が10月末に裁定を下すまで、ナニーニの優勝とプロストの3度目のワールドチャンピオンは「暫定」扱いとなった。 その後のFIAの審理の結果、「レース中のエンジン押し掛け」によりセナの失格が確定。 さらに日本グランプリの次に行われたオーストラリアグランプリでセナがリタイアしたため、この審理の結果を問わずプロストのチャンピオンが確定した。 2、3位はパトレーゼとブーツェンが獲得し、コンストラクターズランキングではウィリアムズがフェラーリを抜いて2位に浮上した。 ピケはエンジンから煙を吐きながら4位に入賞。 以下、のとのまでがポイントを獲得した。 出走26台中、完走したのは10台だった。 太字は入賞者、DSQは失格。 結果はフォーミュラ1公式サイト 、 を参照。 データ [ ] 大会 [ ]• 大会名 - 1989年 FIA F1世界選手権 日本グランプリ 1989 FIA Formula One World Championship Fuji Television Japanese Grand Prix• 開催日 - 1989年10月20日 - 10月22日• 開催地 - 鈴鹿サーキット• レース距離 - 310. 527km(5. 決勝日天候 - 曇り 記録 [ ]• ポールポジション - アイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ) 1分38秒041• 優勝 - アレッサンドロ・ナニーニ(ベネトン・フォード) 1時間35分6秒277• アイルトン・セナが記録した 1時間35分3秒980 は失格により無効• ファステストラップ - アラン・プロスト(マクラーレン・ホンダ) 1分43秒506 LAP43• アイルトン・セナが記録した 1分43秒025 LAP38 は失格により無効• ラップリーダー• アラン・プロスト(LAP1 - 20, 24 - 46• アイルトン・セナ(LAP21 - 23, 47 - 48, 51 - 53)• アレッサンドロ・ナニーニ(LAP49 - 50 脚注 [ ]• Formula1. com. 2012年2月3日閲覧。 ESPN F1. 2012年2月2日閲覧。 参考文献 [ ]• 『日本の名レース100選 Vol. 058 '89F1日本GP』 イデア、2009年、• 『』1989年12月1日号のレースレポートを再録 関連項目 [ ]• 前戦 次戦 前回開催 次回開催.

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1989年日本グランプリ (4輪)

アレッサンドロ ナニーニ

アレッサンドロ・ナニーニ 基本情報 フルネーム アレッサンドロ・ナニーニ 国籍 出身地 同・ 生年月日 1959-07-07 (60歳) での経歴 活動時期 1986-1990 所属チーム '86-'87 '88-'90 出走回数 78 76スタート タイトル 0 優勝回数 1 表彰台 3位以内 回数 9 通算獲得ポイント 65 0 2 初戦 初勝利 最終勝利 最終戦 アレッサンドロ・"サンドロ"・ナニーニ( Alessandro "Sandro" Nannini 、 - )は、イタリア出身の元ドライバー、。 モータースポーツ関係の雑誌では殆どナニーニ表記だが、母国語の発音に基づき、姓を ナンニーニと記すこともある。 プロフィール [ ] モータースポーツ開始 [ ] イタリア北部の都市で、有名な老舗菓子店「ナニーニ」の長男として生まれる。 姉は歌手の。 ナニーニはでモータースポーツキャリアをスタートさせた。 その後を手に入れに四輪にデビュー。 やでもラリー出場経験を持つ。 1980年にフォーミュラ・レースに転向してサーキットを初走行、イタリアのフォーミュラ・フィアットに参戦し、1981年にチャンピオンを獲得。 イタリア国内で徐々に名を知られるようになる。 F2・耐久レース [ ] 翌1982年に、を飛ばしてにステップアップ。 この際にナニーニを見出し、力を貸したのがであった。 チームから参戦した同年のF2でランキング10位となる。 1984年からはワークスから声が掛かり耐久レースにも参戦開始。 同年のでは序盤トップを快走する走りを見せた。 ミナルディチームは1985年からF1へのステップアップを決定。 ジャンカルロ・ミナルディはナニーニとともにF1にステップアップするつもりでいたが、が「F2での戦績が不十分」としてナニーニへのスーパーライセンス発行を認めなかったため 、この年のナニーニのF1行きは流れた。 ミナルディチームは代わりにと契約しF1参戦を開始。 一方のナニーニはもう1年ランチアワークスから耐久レースに参戦し、スーパーライセンスの発給を待つこととなった。 F1 [ ] 1986年 [ ] ミナルディが2カーエントリーになり、エースにベテランのを起用。 ナニーニにもスーパーライセンスが発給されF1デビューを果たす。 しかし搭載していたターボエンジンの信頼性が低く、10戦連続を含む14回のリタイヤを記録。 第15戦での14位が初の、そしてこの年唯一の完走となった。 シャシー性能も低く、第4戦では予選落ちも喫している。 予選成績ではチームメイトのデ・チェザリスに対し、16レース中8レースで上回り、互角の成績を残した。 1987年 [ ] 翌1987年もミナルディからフル参戦するが、引き続きモトーリ・モデルニ・エンジンをはじめとするマシンの信頼性の欠如に悩まされた。 チームメイトの新人を予選、決勝とも圧倒する成績を収め、戦闘力が低いマシンでほぼ毎回中盤グリッドを獲得したが、完走は2度の11位を含めて3回のみという結果に終わる。 結局、ミナルディでは2年間で完走4回という戦歴だったが、その中でも実力が認められ、翌1988年から当時の4強の一角であるへと移籍することとなった。 1988年 [ ] ベネトン・B188をドライブするナニーニ() ベネトンの1988年用マシン、は非常にバランスに優れるマシンであり、トップクラスのチームの中では数少ないエンジン搭載車ながら高いコーナリング性能を示し、881と並んでこの年の台風の目的存在とされた。 ナニーニは第2戦で6位に入り、F1での初入賞を記録。 その後も、第8戦の3位で初表彰台を記録したのを含め、計5度の入賞(うち、3位表彰台2回)。 12ポイントを挙げ、ランキングは10位となった。 ただしチームメートのと比較すると、予選成績こそ五分だったが、決勝では獲得ポイントでブーツェンの27(入賞8回、うち3位表彰台5回)に対し12と、やや差を付けられる形となった。 またリタイヤ2回のブーツェンに対し、ナニーニはリタイヤ7回と、ややムラの多さが見られた。 ベネトンチームは合計39ポイントを獲得し、コンストラクターズ選手権は3位となり、自然吸気エンジンを使用するチームとしてはトップの成績を収めた。 1989年 [ ] 1989年はニューマシンが開幕に間に合わず、前年と同じく「」エンジン搭載のB188での前半戦となる中、開幕4戦中3戦で入賞と好調な滑り出しを見せる。 でようやくニューエンジン「」搭載の新車B189が投入され、新車特有のマイナートラブルもありシーズン中盤はリタイヤが多くなるが、その間完走したレースでは全て入賞していた。 第15戦日本GPにおいて、ナニーニは2位でフィニッシュ。 その後、トップでチェッカーフラッグを受けたが、との接触後のシケイン不通過で失格となり、繰上げで念願の初優勝を遂げた。 これをはじめ、4度の表彰台を含めた8度の入賞を記録し、ランキング6位でシーズンを締めくくった。 予選成績でもチームメイトに対し、に6戦中5戦で上回り、には10戦中9戦で上回りベネトンのエースとしての成績を残した。 1990年、ヘリコプター事故 [ ] 1990年もベネトンに残留。 新チームメイトである元ワールドチャンピオン、が開幕から連続入賞を重ねていたのに対し、ナニーニは獲得ポイントでピケの後塵を拝していた。 しかし双方が完走したレースでは、ほぼ毎回ピケの前でフィニッシュし、第9戦や第10戦では優勝もちらつくレースを展開するなど、存在をアピールしていた。 そんなナニーニに、名門が目を付けた。 すでにベネトンとの契約延長が発表されていたナニーニを翌年のドライバーとして引き抜こうと画策。 フェラーリ監督のとベネトン監督のとの間ではフェラーリ移籍の方向で話が進められ、第12戦イタリアGP時には契約譲渡寸前となっていた。 しかしナニーニが2年契約を希望したところ1年契約を提示されたことや、やとの獲得合戦となっていたを第一候補としていたフェラーリ側の態度(後述)などに不信感を抱き交渉は決裂。 9月14日にベネトンが改めてナニーニの来季ベネトン残留を発表、直後の9月18日にフェラーリからアレジ獲得の発表がされた。 フェラーリとの契約破談後の9月30日、第14戦スペインGPでナニーニは3位となり、この年3度目の表彰台に上がる。 しかしこのレースで1・2フィニッシュを決めたフェラーリ勢とシャンパンファイトをすることを嫌がり、早々と表彰台から姿を消した。 結果的に、このスペインGPがナニーニのF1での最後のレースとなった。 続く日本GP直前の10月12日、ナニーニを含む4人が搭乗していた自家用ヘリコプター「」(自身が1週間前に中古購入した直後であった)が、シエナ郊外にあるナニーニ家の別荘敷地内で着陸に失敗し墜落、その際にヘリのローターで右腕の肘と手首の間を切断する重傷を負い チームを離脱した。 予選成績では、ピケに対し14戦中5戦で上回った。 ツーリングカー・GTカー [ ] をドライブするナニーニ(1994) 事故でレース生命を絶たれたかに思えたが、縫合手術に成功し、長いリハビリを経てレースに復帰。 1992年日本GP前、イタリアでの企画で、ステアリングのグリップ部分にスイッチを移植し左手のみでシフトチェンジできるように改造したをテストドライブしたが、この際に右手がF1走行に耐えられないと自ら判断、F1復帰を完全に諦めたという。 その時、「ずっと待っていたクリスマスプレゼントをもらった子供のような気分かな」とにこやかに話し、気取らない好漢ぶりをみせた。 F1後は活動の場をに移し、のワークスドライバーとしてレースの最前線に戻った。 1992年はイタリア・ツーリングカー選手権 CIVT でアルファロメオ・155GTAをドライブし3位。 1993年より(DTM)に参戦。 右腕の負担を軽減するよう改造された特別車を駆り、と元F1ドライバーコンビで活躍した。 DTM改め(ITC)となった1996年シーズンは最多の年間7勝を記録したが、ランキングは3位に終わる。 1997年への参戦を最後にレーサーを引退した。 引退後 [ ] その後は家業を継承した形で、自身の名を冠した喫茶店チェーンを世界的に展開している。 日本にも青海のに「トラットリア・アレッサンドロ・ナニーニ」があった。 の「イタリア街」地区に「リストランテ・アレッサンドロ・ナニーニ」が、と名古屋テレピアに「バール・アレッサンドロ・ナニーニ」があった。 静岡は店名が「トラットリア・パドローネ・ナニーニ」に変更されたが、2011年8月に閉店しており日本国内での展開は全て終了した。 2011年5月、地元シエナの市長選挙に立候補するも、フランコ・チェックッツィの次点に敗れた。 同時に行われた市議選にも立候補しており、こちらは当選。 1年半ほど市議会議員を務めたのち、市政からは身を引いている。 2015年現在、前述の喫茶店や菓子店は運営会社に任せ、自身は一歩引いた形でコンサルティングに専念している。 エピソード [ ]• F1二年目を終えた1987年冬の時点でも、父ダニーロはナニーニが家に戻って家業を継ぐことを望んでおり、ベネトンのオーディションを兼ねたテスト走行を終えたにて「父さんは(家業を継がないでいることを)すごくがっかりしているんだ。 ベネトンに行って真のプロになるか、実家に戻ってお菓子を作って売るかを本当に悩んでいるんだ。 今決めなきゃならない」と発言。 結果的にベネトンとの契約書にサインし「レースを止めたらお菓子を売るよ! 」と語り、チームとのコミュニケーション(ベネトンは当時イギリス国籍)のために英語学校に通うようになった。 レーシングドライバーとしては珍しくチェーンスモーカーである。 愛煙していた煙草は「」であったが、ベネトン所属時にはチームにマールボロのライバルブランドである「」がスポンサーになっていた事から、TVカメラに自らがマールボロを手に持っているのを映された際にあわてて後ろに隠したというエピソードを持つ。 また、1988年イギリスGPでは3位に入りF1で初の表彰台とトップ3記者会見を経験したが、その終了後親しい記者に「もう吸いたくて吸いたくて。 あの記者会見中ずっと禁煙してるなんて大変だよ」という初表彰台の感想をもらした。 1990年には禁煙を表明したこともあった。 1990年9月のフェラーリ移籍騒動の際は、、、などと天秤にかけられた事、またナニーニには1年契約(プラス1年のオプション契約)の提示だったが、アレジにはそれ以上の条件を提示していたなどの理由で、フェラーリ入りを自ら断念したという説もある。 この件以後ナニーニは、「フェラーリ入りを蹴ったイタリア人」としても有名になった。 ヘリコプター事故は妻や両親の目の前で起きたものだったが、この際に家族が慌てずにとっさの判断で切り落とされた右腕を氷水に浸したため、病院での縫合が成功したというエピソードがある。 の愛好家である。 レース前にもいつも飲んでいたが、F1でもドーピング検査が始まると、陽性反応が出ないようを抜いたインスタントコーヒーの素を特別につくってもらい、それを少しのお湯で溶かして飲むようになったという。 その味に対しては、関係者から「常人にはとても飲めないものだった」と語られている。 マネージメント会社や代理人と一切関わりを持たず、全ての交渉事についてナニーニ自らが直接交渉し、自らで契約書を作り契約を取り決めていた。 理由は「僕が人生に望むのは全てに自由であることだし、自分の将来について他人が会議をしてるなんておかしいでしょ? 」と語る。 1987年当時、フジテレビF1リポーターを担当していたにインタビューを求められた際には、恥ずかしがってなかなか話さなかったというシャイな一面もあった。 身長は170cm。 好漢 [ ]• その性格は至って好漢と言われ、フェラーリ入りを断念した後も、ベネトンチームは翌年のシートを約束した。 また、ヘリコプター事故直後の日本GPでは、衛星中継でがナニーニのいる病院にお見舞いのメッセージを送った(この他、ピケはナニーニの見舞いにもかけつけている)ほか、ライバルであったのピット内でもナニーニを激励するメッセージボードが掲げられた。 1992年、そのピケがの事故で両足複雑骨折の重傷を負う。 この際、ナニーニはピケに「君の腕と僕の脚があれば、トップドライバーさ」との見舞い電報を送ったという。 ヘリ墜落事故直後に救急車に乗せられ、病院に向かう際、意識があったナニーニは、救急隊員に向かって、「俺が運転していこうか? F1ドライバーだからもっと早く着けるぜ」と、片腕を失ったばかりの人間とは思えない言葉を放ったという。 右腕切断というレーサー生命だけでなく人生そのものを一変させる事故を体験したにもかかわらず、前向きな精神と陽気さを忘れることはなかった。 事故後のインタビューでは「僕はまだ運が良かったよ。 ちゃんとした左腕が残ってたしね!」と語っている他、後に事故と後遺症について訊かれた際も「よりまだマシだよ!」と嫌悪することなく明るく答えている。 「右手が不自由になったことで困った事は? 」との質問に対し、「ができなくなったことかな?」と答えてのけたこともある。 1987年9月、ある雑誌記者がナニーニに取材を申し込んだところ、地元であるシエナ市内のホテルを予約してくれていた。 市内のレストランまでナニーニ自らが自家用車を運転して移動後インタビュー取材を受け、終了すると食事の伝票は記者の分も支払い、その上実家「ナニーニ製菓」のお菓子詰め合わせをお土産に持たせ帰って行った。 翌朝、記者がホテルの受付へチェックアウトしに行くと、宿泊費までも既にナニーニによって済まされていた。 感激したその記者はナニーニの大ファンとなった。 が200戦目記念のインタビューを受けていた際、喜びインタビューに答えるパトレーゼの頭上から、大量の水が浴びせられた。 このイタズラは、ナニーニの仕業で、彼なりの同国の先輩への手荒い祝福であった。 レース戦績 [ ] F1 [ ] 年 チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント Ret DNS Ret DNQ Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret NC 14 Ret NC 29位 0 Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret 11 Ret 16 11 Ret Ret Ret Ret NC 26位 0 Ret 6 Ret 7 Ret Ret 6 3 18 Ret DSQ 9 Ret 3 5 Ret 10位 12 6 3 8 4 Ret DSQ 6位 32 Ret 3 Ret Ret 5 Ret 4 Ret 1 2 11 10 8位 21 3 Ret Ret 4 16 Ret 2 Ret 4 8 6 3• 太字は、 斜字は。 ドイツツーリングカー選手権 [ ] 年 チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント Ret 3 13 8 10 4 2 Ret 4 4 Ret Ret Ret 18 3 Ret 5 Ret 1 1 8位 121 1 1 4 1 7 7 1 7 Ret 7 5 4 8 5 19 5 Ret 12 6 Ret 4位 149 18 DNS 3 Ret 3 9 4 Ret Ret Ret 11 Ret 5 12 11位 44 国際ツーリングカー選手権 [ ] 年 チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 順位 ポイント 5 Ret Ret Ret 8 7 Ret 9 15位 17 10 13 DSQ DSQ 1 1 14 4 Ret Ret 6 Ret 17 11 1 1 1 1 11 Ret 6 Ret 1 5 10 5 3位 180 FIA GT [ ] 年 チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント GT1 Ret 13 11 2 11 2 1 2 2 Ret 8 5位 34 ル・マン24時間レース [ ] 年 チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位 - C 135 DNF DNF C1 326 8位 8位 C1 360 6位 6位 脚注 [ ]• 「」1990年オーストラリアGP号 39ページ• 「」1988年開幕直前号 16頁• 山海堂「GPX」1990年ポルトガルGP号 30頁• ニューズ出版「F1速報」1990年日本GP号 53頁、山海堂「GPX」1990年日本GP号 46頁• 2015年12月4日閲覧。 F1速報 1990年オーストラリアGP号 39頁 ニューズ出版• GPX 1988年モナコGP 11頁 山海堂• アレッサンドロ・ナニーニ マクラーレン・デュオを追って GPX 1988年ハンガリーGP 21頁 山海堂• GPX 1990年日本GP 5頁 山海堂• 「オートテクノ」NO. 14 71頁• GPX 1988年日本GP直前情報号 16頁、同モナコGP号 11頁 山海堂 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ]•

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アレッサンドロ・ナニーニ

アレッサンドロ ナニーニ

アレッサンドロ・ナニーニ 基本情報 フルネーム アレッサンドロ・ナニーニ 国籍 出身地 同・ 生年月日 1959-07-07 (60歳) での経歴 活動時期 1986-1990 所属チーム '86-'87 '88-'90 出走回数 78 76スタート タイトル 0 優勝回数 1 表彰台 3位以内 回数 9 通算獲得ポイント 65 0 2 初戦 初勝利 最終勝利 最終戦 アレッサンドロ・"サンドロ"・ナニーニ( Alessandro "Sandro" Nannini 、 - )は、イタリア出身の元ドライバー、。 モータースポーツ関係の雑誌では殆どナニーニ表記だが、母国語の発音に基づき、姓を ナンニーニと記すこともある。 プロフィール [ ] モータースポーツ開始 [ ] イタリア北部の都市で、有名な老舗菓子店「ナニーニ」の長男として生まれる。 姉は歌手の。 ナニーニはでモータースポーツキャリアをスタートさせた。 その後を手に入れに四輪にデビュー。 やでもラリー出場経験を持つ。 1980年にフォーミュラ・レースに転向してサーキットを初走行、イタリアのフォーミュラ・フィアットに参戦し、1981年にチャンピオンを獲得。 イタリア国内で徐々に名を知られるようになる。 F2・耐久レース [ ] 翌1982年に、を飛ばしてにステップアップ。 この際にナニーニを見出し、力を貸したのがであった。 チームから参戦した同年のF2でランキング10位となる。 1984年からはワークスから声が掛かり耐久レースにも参戦開始。 同年のでは序盤トップを快走する走りを見せた。 ミナルディチームは1985年からF1へのステップアップを決定。 ジャンカルロ・ミナルディはナニーニとともにF1にステップアップするつもりでいたが、が「F2での戦績が不十分」としてナニーニへのスーパーライセンス発行を認めなかったため 、この年のナニーニのF1行きは流れた。 ミナルディチームは代わりにと契約しF1参戦を開始。 一方のナニーニはもう1年ランチアワークスから耐久レースに参戦し、スーパーライセンスの発給を待つこととなった。 F1 [ ] 1986年 [ ] ミナルディが2カーエントリーになり、エースにベテランのを起用。 ナニーニにもスーパーライセンスが発給されF1デビューを果たす。 しかし搭載していたターボエンジンの信頼性が低く、10戦連続を含む14回のリタイヤを記録。 第15戦での14位が初の、そしてこの年唯一の完走となった。 シャシー性能も低く、第4戦では予選落ちも喫している。 予選成績ではチームメイトのデ・チェザリスに対し、16レース中8レースで上回り、互角の成績を残した。 1987年 [ ] 翌1987年もミナルディからフル参戦するが、引き続きモトーリ・モデルニ・エンジンをはじめとするマシンの信頼性の欠如に悩まされた。 チームメイトの新人を予選、決勝とも圧倒する成績を収め、戦闘力が低いマシンでほぼ毎回中盤グリッドを獲得したが、完走は2度の11位を含めて3回のみという結果に終わる。 結局、ミナルディでは2年間で完走4回という戦歴だったが、その中でも実力が認められ、翌1988年から当時の4強の一角であるへと移籍することとなった。 1988年 [ ] ベネトン・B188をドライブするナニーニ() ベネトンの1988年用マシン、は非常にバランスに優れるマシンであり、トップクラスのチームの中では数少ないエンジン搭載車ながら高いコーナリング性能を示し、881と並んでこの年の台風の目的存在とされた。 ナニーニは第2戦で6位に入り、F1での初入賞を記録。 その後も、第8戦の3位で初表彰台を記録したのを含め、計5度の入賞(うち、3位表彰台2回)。 12ポイントを挙げ、ランキングは10位となった。 ただしチームメートのと比較すると、予選成績こそ五分だったが、決勝では獲得ポイントでブーツェンの27(入賞8回、うち3位表彰台5回)に対し12と、やや差を付けられる形となった。 またリタイヤ2回のブーツェンに対し、ナニーニはリタイヤ7回と、ややムラの多さが見られた。 ベネトンチームは合計39ポイントを獲得し、コンストラクターズ選手権は3位となり、自然吸気エンジンを使用するチームとしてはトップの成績を収めた。 1989年 [ ] 1989年はニューマシンが開幕に間に合わず、前年と同じく「」エンジン搭載のB188での前半戦となる中、開幕4戦中3戦で入賞と好調な滑り出しを見せる。 でようやくニューエンジン「」搭載の新車B189が投入され、新車特有のマイナートラブルもありシーズン中盤はリタイヤが多くなるが、その間完走したレースでは全て入賞していた。 第15戦日本GPにおいて、ナニーニは2位でフィニッシュ。 その後、トップでチェッカーフラッグを受けたが、との接触後のシケイン不通過で失格となり、繰上げで念願の初優勝を遂げた。 これをはじめ、4度の表彰台を含めた8度の入賞を記録し、ランキング6位でシーズンを締めくくった。 予選成績でもチームメイトに対し、に6戦中5戦で上回り、には10戦中9戦で上回りベネトンのエースとしての成績を残した。 1990年、ヘリコプター事故 [ ] 1990年もベネトンに残留。 新チームメイトである元ワールドチャンピオン、が開幕から連続入賞を重ねていたのに対し、ナニーニは獲得ポイントでピケの後塵を拝していた。 しかし双方が完走したレースでは、ほぼ毎回ピケの前でフィニッシュし、第9戦や第10戦では優勝もちらつくレースを展開するなど、存在をアピールしていた。 そんなナニーニに、名門が目を付けた。 すでにベネトンとの契約延長が発表されていたナニーニを翌年のドライバーとして引き抜こうと画策。 フェラーリ監督のとベネトン監督のとの間ではフェラーリ移籍の方向で話が進められ、第12戦イタリアGP時には契約譲渡寸前となっていた。 しかしナニーニが2年契約を希望したところ1年契約を提示されたことや、やとの獲得合戦となっていたを第一候補としていたフェラーリ側の態度(後述)などに不信感を抱き交渉は決裂。 9月14日にベネトンが改めてナニーニの来季ベネトン残留を発表、直後の9月18日にフェラーリからアレジ獲得の発表がされた。 フェラーリとの契約破談後の9月30日、第14戦スペインGPでナニーニは3位となり、この年3度目の表彰台に上がる。 しかしこのレースで1・2フィニッシュを決めたフェラーリ勢とシャンパンファイトをすることを嫌がり、早々と表彰台から姿を消した。 結果的に、このスペインGPがナニーニのF1での最後のレースとなった。 続く日本GP直前の10月12日、ナニーニを含む4人が搭乗していた自家用ヘリコプター「」(自身が1週間前に中古購入した直後であった)が、シエナ郊外にあるナニーニ家の別荘敷地内で着陸に失敗し墜落、その際にヘリのローターで右腕の肘と手首の間を切断する重傷を負い チームを離脱した。 予選成績では、ピケに対し14戦中5戦で上回った。 ツーリングカー・GTカー [ ] をドライブするナニーニ(1994) 事故でレース生命を絶たれたかに思えたが、縫合手術に成功し、長いリハビリを経てレースに復帰。 1992年日本GP前、イタリアでの企画で、ステアリングのグリップ部分にスイッチを移植し左手のみでシフトチェンジできるように改造したをテストドライブしたが、この際に右手がF1走行に耐えられないと自ら判断、F1復帰を完全に諦めたという。 その時、「ずっと待っていたクリスマスプレゼントをもらった子供のような気分かな」とにこやかに話し、気取らない好漢ぶりをみせた。 F1後は活動の場をに移し、のワークスドライバーとしてレースの最前線に戻った。 1992年はイタリア・ツーリングカー選手権 CIVT でアルファロメオ・155GTAをドライブし3位。 1993年より(DTM)に参戦。 右腕の負担を軽減するよう改造された特別車を駆り、と元F1ドライバーコンビで活躍した。 DTM改め(ITC)となった1996年シーズンは最多の年間7勝を記録したが、ランキングは3位に終わる。 1997年への参戦を最後にレーサーを引退した。 引退後 [ ] その後は家業を継承した形で、自身の名を冠した喫茶店チェーンを世界的に展開している。 日本にも青海のに「トラットリア・アレッサンドロ・ナニーニ」があった。 の「イタリア街」地区に「リストランテ・アレッサンドロ・ナニーニ」が、と名古屋テレピアに「バール・アレッサンドロ・ナニーニ」があった。 静岡は店名が「トラットリア・パドローネ・ナニーニ」に変更されたが、2011年8月に閉店しており日本国内での展開は全て終了した。 2011年5月、地元シエナの市長選挙に立候補するも、フランコ・チェックッツィの次点に敗れた。 同時に行われた市議選にも立候補しており、こちらは当選。 1年半ほど市議会議員を務めたのち、市政からは身を引いている。 2015年現在、前述の喫茶店や菓子店は運営会社に任せ、自身は一歩引いた形でコンサルティングに専念している。 エピソード [ ]• F1二年目を終えた1987年冬の時点でも、父ダニーロはナニーニが家に戻って家業を継ぐことを望んでおり、ベネトンのオーディションを兼ねたテスト走行を終えたにて「父さんは(家業を継がないでいることを)すごくがっかりしているんだ。 ベネトンに行って真のプロになるか、実家に戻ってお菓子を作って売るかを本当に悩んでいるんだ。 今決めなきゃならない」と発言。 結果的にベネトンとの契約書にサインし「レースを止めたらお菓子を売るよ! 」と語り、チームとのコミュニケーション(ベネトンは当時イギリス国籍)のために英語学校に通うようになった。 レーシングドライバーとしては珍しくチェーンスモーカーである。 愛煙していた煙草は「」であったが、ベネトン所属時にはチームにマールボロのライバルブランドである「」がスポンサーになっていた事から、TVカメラに自らがマールボロを手に持っているのを映された際にあわてて後ろに隠したというエピソードを持つ。 また、1988年イギリスGPでは3位に入りF1で初の表彰台とトップ3記者会見を経験したが、その終了後親しい記者に「もう吸いたくて吸いたくて。 あの記者会見中ずっと禁煙してるなんて大変だよ」という初表彰台の感想をもらした。 1990年には禁煙を表明したこともあった。 1990年9月のフェラーリ移籍騒動の際は、、、などと天秤にかけられた事、またナニーニには1年契約(プラス1年のオプション契約)の提示だったが、アレジにはそれ以上の条件を提示していたなどの理由で、フェラーリ入りを自ら断念したという説もある。 この件以後ナニーニは、「フェラーリ入りを蹴ったイタリア人」としても有名になった。 ヘリコプター事故は妻や両親の目の前で起きたものだったが、この際に家族が慌てずにとっさの判断で切り落とされた右腕を氷水に浸したため、病院での縫合が成功したというエピソードがある。 の愛好家である。 レース前にもいつも飲んでいたが、F1でもドーピング検査が始まると、陽性反応が出ないようを抜いたインスタントコーヒーの素を特別につくってもらい、それを少しのお湯で溶かして飲むようになったという。 その味に対しては、関係者から「常人にはとても飲めないものだった」と語られている。 マネージメント会社や代理人と一切関わりを持たず、全ての交渉事についてナニーニ自らが直接交渉し、自らで契約書を作り契約を取り決めていた。 理由は「僕が人生に望むのは全てに自由であることだし、自分の将来について他人が会議をしてるなんておかしいでしょ? 」と語る。 1987年当時、フジテレビF1リポーターを担当していたにインタビューを求められた際には、恥ずかしがってなかなか話さなかったというシャイな一面もあった。 身長は170cm。 好漢 [ ]• その性格は至って好漢と言われ、フェラーリ入りを断念した後も、ベネトンチームは翌年のシートを約束した。 また、ヘリコプター事故直後の日本GPでは、衛星中継でがナニーニのいる病院にお見舞いのメッセージを送った(この他、ピケはナニーニの見舞いにもかけつけている)ほか、ライバルであったのピット内でもナニーニを激励するメッセージボードが掲げられた。 1992年、そのピケがの事故で両足複雑骨折の重傷を負う。 この際、ナニーニはピケに「君の腕と僕の脚があれば、トップドライバーさ」との見舞い電報を送ったという。 ヘリ墜落事故直後に救急車に乗せられ、病院に向かう際、意識があったナニーニは、救急隊員に向かって、「俺が運転していこうか? F1ドライバーだからもっと早く着けるぜ」と、片腕を失ったばかりの人間とは思えない言葉を放ったという。 右腕切断というレーサー生命だけでなく人生そのものを一変させる事故を体験したにもかかわらず、前向きな精神と陽気さを忘れることはなかった。 事故後のインタビューでは「僕はまだ運が良かったよ。 ちゃんとした左腕が残ってたしね!」と語っている他、後に事故と後遺症について訊かれた際も「よりまだマシだよ!」と嫌悪することなく明るく答えている。 「右手が不自由になったことで困った事は? 」との質問に対し、「ができなくなったことかな?」と答えてのけたこともある。 1987年9月、ある雑誌記者がナニーニに取材を申し込んだところ、地元であるシエナ市内のホテルを予約してくれていた。 市内のレストランまでナニーニ自らが自家用車を運転して移動後インタビュー取材を受け、終了すると食事の伝票は記者の分も支払い、その上実家「ナニーニ製菓」のお菓子詰め合わせをお土産に持たせ帰って行った。 翌朝、記者がホテルの受付へチェックアウトしに行くと、宿泊費までも既にナニーニによって済まされていた。 感激したその記者はナニーニの大ファンとなった。 が200戦目記念のインタビューを受けていた際、喜びインタビューに答えるパトレーゼの頭上から、大量の水が浴びせられた。 このイタズラは、ナニーニの仕業で、彼なりの同国の先輩への手荒い祝福であった。 レース戦績 [ ] F1 [ ] 年 チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント Ret DNS Ret DNQ Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret NC 14 Ret NC 29位 0 Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret Ret 11 Ret 16 11 Ret Ret Ret Ret NC 26位 0 Ret 6 Ret 7 Ret Ret 6 3 18 Ret DSQ 9 Ret 3 5 Ret 10位 12 6 3 8 4 Ret DSQ 6位 32 Ret 3 Ret Ret 5 Ret 4 Ret 1 2 11 10 8位 21 3 Ret Ret 4 16 Ret 2 Ret 4 8 6 3• 太字は、 斜字は。 ドイツツーリングカー選手権 [ ] 年 チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント Ret 3 13 8 10 4 2 Ret 4 4 Ret Ret Ret 18 3 Ret 5 Ret 1 1 8位 121 1 1 4 1 7 7 1 7 Ret 7 5 4 8 5 19 5 Ret 12 6 Ret 4位 149 18 DNS 3 Ret 3 9 4 Ret Ret Ret 11 Ret 5 12 11位 44 国際ツーリングカー選手権 [ ] 年 チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 順位 ポイント 5 Ret Ret Ret 8 7 Ret 9 15位 17 10 13 DSQ DSQ 1 1 14 4 Ret Ret 6 Ret 17 11 1 1 1 1 11 Ret 6 Ret 1 5 10 5 3位 180 FIA GT [ ] 年 チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント GT1 Ret 13 11 2 11 2 1 2 2 Ret 8 5位 34 ル・マン24時間レース [ ] 年 チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位 - C 135 DNF DNF C1 326 8位 8位 C1 360 6位 6位 脚注 [ ]• 「」1990年オーストラリアGP号 39ページ• 「」1988年開幕直前号 16頁• 山海堂「GPX」1990年ポルトガルGP号 30頁• ニューズ出版「F1速報」1990年日本GP号 53頁、山海堂「GPX」1990年日本GP号 46頁• 2015年12月4日閲覧。 F1速報 1990年オーストラリアGP号 39頁 ニューズ出版• GPX 1988年モナコGP 11頁 山海堂• アレッサンドロ・ナニーニ マクラーレン・デュオを追って GPX 1988年ハンガリーGP 21頁 山海堂• GPX 1990年日本GP 5頁 山海堂• 「オートテクノ」NO. 14 71頁• GPX 1988年日本GP直前情報号 16頁、同モナコGP号 11頁 山海堂 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ]•

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