壱式陸攻。 九六式陸上攻撃機(G3M1~3)

必勝! 太平洋戦記(壱)

壱式陸攻

の母機としての一式陸攻 を増やすことなく広胴化(胴体径を拡大すること)に成功し、では胴体下の機体外部に搭載していたやを胴体内に収納することを可能にした。 エンジンは九六式陸攻のより大馬力のを装備し、速力の向上を図った。 主翼内をとし、4,000km以上に達する大航続力を得た。 開発当初から尾部に20mm旋回を装備するなど、九六式に比べて防御を充実させた。 しかし、搭乗員を直接防護する防弾鋼板は重量軽減策から省略された。 的洗練により、大型双発機とは思えない、軽快なを得た。 重量の関係から、尾部以外は7. 7ミリ機銃となった。 防弾 当時、搭載火器によると高速力で敵迎撃機から身を守ることが可能という「」が存在していたが、九六式陸攻がのにおいてかなりの損害を出したことから、十二試陸攻の要求性能には防弾装備も挙げられている。 しかし当時最新の研究から、「近い将来、欧米の航空機銃は20mm級が主流になると考えられるが、これに対応した防弾装備と搭載力・航続力を併せ持たせることはエンジン出力から見て不可能なことから、防弾は最小限にして軽量化を図り、速力や高高度性能等の向上によって被弾確率を低下させた方が合理的」と考えられたため、要求時点から防弾の優先順位は低く、実機の開発においても他の性能を落とさないため、犠牲にされたという経緯がある。 当然、海軍も十二試陸攻の要求性能で大丈夫と考えていた訳ではないようで、十二試陸攻が発注された翌年の1938年に陸攻護衛専用遠距離戦闘機の「十三試双発陸上戦闘機」(後の夜間戦闘機「」)、及び四発陸攻の「十三試大型陸上攻撃機」(後の「」)が同時に発注されていることからもそれが伺える。 海軍の性能要求に対し、当初三菱は三発もしくは四発機とすることを海軍に逆提案したものの、拒否されている。 これは三菱に要求されたのは双発陸攻で、四発陸攻は翌年に十三試陸攻として発注する予定があるためで、既に九六式陸攻とという実績を挙げている三菱と川西に双発の十二試陸攻と四発の十三試大艇(後の)の開発を、四発機の経験に乏しいものの、長年に渡ってのを行っているにを原型とした十三試大攻の開発を発注して、双発陸攻と四発飛行艇を確実に実用化し、更に欧米からの技術導入により四発爆撃機の実用化を図ろうとするのは、既に渡洋爆撃等で大きな被害を受けていた海軍としては自然な判断である。 米軍のにおける主力爆撃機のひとつであるは、双発機相当の性能要求に対して四発機で応えたため、高性能ではあるものの高価な機体になり、より安価な(DC-2原型の双発爆撃機)が1930年代の米陸軍航空隊の主力爆撃機の座を占め、B-17は採用はされたものの少数生産に留まった。 B-17が主力爆撃機の座を占めるのは、アメリカの参戦以降である。 一式陸攻は厳しい航続距離の要求性能をクリアするため、タンクに内構造を水密化したを採用したため、全面的な防弾装備(燃料タンクを防漏用ので覆い、被弾により破孔が開いても漏れたガソリンによって溶けたゴムで破孔を塞ぐ装備)を施せなかった、とされているが、最初の量産機である一一型(G4M1)には、前後桁と燃料タンク側面に防弾ゴムが貼られていた。 しかし、これだけでは不完全であったため、太平洋戦争が勃発すると甚大な被害が発生したことから、(昭和18年)頃からは、速力と航続力の低下を覚悟の上で主翼下面外板に30mm厚のゴム板が貼られた他、並行して噴出式の消火装置も装備されている。 更に1943年(昭和18年)春から自動消火装置の装備が始まる。 この装置はを電気的にし、自動的に二酸化炭素を噴出して消火するもので、効果の限定的な応急消火装置は急速にこの自動消火装置に置き換わっていき、自動防漏は困難だったが消火装備は充実していった。 これらの防弾装備は一定の効果を見せた(現地部隊から被弾しても帰還した例が報告されている)ものの、悪化する戦況下では不十分であった。 このため性能向上型の二二型(G4M2)ではインテグラルタンクに防弾ゴムを装備することが計画されたが、ゴムが熱によって燃料と反応し、溶解するなど、取り扱いは困難を極めたため、防弾ゴムの搭載は断念され、一一型と同じ防弾装備にならざるを得ず、「」母機型である二四丁型(G4M2E)になり、一番燃料タンク・燃料コック・操縦席背面に防弾鋼板が追加された。 更なる戦況の悪化に伴って開発された三四型(G4M3)では、桁を一本にした新型翼に変更、インテグラルタンクを廃止して自動防漏タンクを装備したが、構造変更による容量減に加え、当時の日本の重化学工業の水準で必要な防弾性能を得るためには相当に厚いゴムを張らねばならず、結果として航続距離が3割も低下するという結果を招いた。 もっとも、完成が間際であったことと、既に、より高速で設計当初から防弾装備を備えた陸上爆撃機「(P1Y1)」の配備が進んでいたため、60機の生産に終わっている(防弾ゴムに必要とされる良質なの供給も絶たれつつあった。 耐油性のない天然ゴムに貼り付けることでガソリンによってゴムが溶けることを防ぐのが注目されていたが、終戦までに量産体制が整わなかった)。 名称 [ ] 2601年(西暦1941年)4月に制式採用されたため、「 一式陸上攻撃機」と命名された。 では、を行える機体を、およびのみを行える機体を攻撃機(および)と呼んだ。 これは日本海軍独特の機種の分類であった。 連合国側コードネームは「Betty」であった。 太平洋戦争でのアメリカ軍は、日本軍の航空機に対してコードネームを付けて、種類を区別していた。 戦闘機などは男性名、爆撃機や輸送機などは女性名を付けているが、実在の人物との関連はないというのが公式の発表である。 しかし、一式陸攻の「Betty(ベティー)」と言う名は、命名に携わっていた情報部のとある軍曹のガールフレンドの名前である。 彼女はでをしていた。 機体の左右にある大きなエンジンが、軍曹に彼女の身体的特徴を思い起こさせて、名付けられた。 機首から機尾までほぼ同じ太さのずんぐりした外見と機尾の対空砲座から、 型(英語ではフライングシガー。 因みに九六式陸攻は 魚雷・トーピード型)と呼ばれ、日本国民に親しまれた。 一式陸攻の渾名として「ワンショットライター」(一発着火)または「フライング・」(空飛ぶジッポー)が有名である。 これは翼内の燃料タンク容積が大きく、加えて防弾タンクの採用が進まなかった関係で、被弾に弱く、一掃射で炎上したという意味で使われた。 このニックネームについて、日本の著作では、(昭和27年)初版の・『零戦 日本海軍航空小史』ですでに言及されている。 その他、にを中心とする米機動部隊が際に迎撃に出てきた一式陸攻17機中13機を撃墜したレキシントンの隊のパイロットが使い始めたと言う説もある。 一式陸攻の撃墜された瞬間は米戦闘機側のによっていくつか記録されているが、その映像内でも炎上する機体は少ない。 最近では上記の「ワンショットライター」が示すような、脆弱なイメージ一辺倒で語られがちだった一式陸攻の防御力を見直すような事実も発掘されている。 、()に参加した米「」は空母「」に向かう一式陸攻7機編隊を発見。 2700mで5インチ砲とを用いて攻撃し、30秒後に2機を撃墜。 同時に4機が一式陸攻編隊を迎撃したがなかなか撃墜できず、「インディペンデンス」は被雷して大破した。 残る一式陸攻4機は撃墜されたが、最後の一式陸攻はF6Fの攻撃でも墜落せず、とうとうF6Fは諦めて一式陸攻の逃走を許した。 アラン・ロビー艦長は戦闘報告書の中で一式陸攻の頑丈さを評価している。 空戦全体を見れば7機中6機が撃墜されているのは事実である。 しかしながら一式陸攻よりも防弾装備が充実している次世代、他国の機体もまた出撃のたびに高い損耗に悩むのが常であった。 戦闘の度に大損害を出しているという現実について、その責任のどこまでが機体に属するのか再検討を加えている文献も出版されている。 搭乗員 [ ] 通常7人~8人乗り。 主操縦士、副操縦士、搭発員、射爆員、主偵察員、副偵察員、電信員。 それぞれが機銃や電信などを兼任することができた。 歴史 [ ] 開発 [ ] 大日本帝国海軍は、・で対米劣勢を余儀なくされた戦艦・巡洋艦・航空母艦勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上にいる敵艦を攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)の開発に力を注いだ。 こうした目的に沿って試製されたのが、海軍広工廠の、三菱内燃機製造株式会社名古屋工場((昭和10年)三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所と改称)の本庄季郎技師を主務者として設計されただった。 細い胴体に双垂直尾翼を配したスマートな機体である九六式陸攻は当時としては高い性能を発揮したが、いわゆる「渡洋爆撃」で大きな被害を出したことから、九六式陸攻の防備能力を向上させた後継機として(12年)9月に「 十二試陸上攻撃機」が発注され、再び本庄季郎技師を主務者とした設計陣で開発に取り組んだ。 第一回一式陸攻打ち合わせ会で、技師(三菱)から「防備が不十分。 小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案があったものの、(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める。 三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却された。 1939年10月、一号機が完成。 初飛行は(昭和14年)、パイロットは志摩勝三。 (昭和16年)4月1日、「 一式陸上攻撃機」として制式採用された。 制式後 [ ] に駐機する緑十字機となった機体(1945年8月19日) 最初に一式陸攻が配備されたのは高雄空であり、7月25日に24機が漢口に進出し、7月29日に6機で行なった宜昌西岸地区爆撃が一式陸攻の初陣 となった。 8月11日には零戦との初の協同作戦となる成都攻撃に参加し、零戦の誘導を行なった。 爆弾搭載能力は、前身のと変わらなかったが、速力、上昇力に非常に優れ、零戦を随伴して飛行でき、七千メートル以上の高度が取れ、対空砲、敵機圏外から爆撃が可能であった。 開時、九六式陸攻と協同してからの航空を攻撃し、を含む爆撃機兵力を壊滅させている。 また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖での「」と「」を撃沈する()など、太平洋戦争初期に活躍した。 その後、海軍陸攻隊の主力として主に方面の対連合軍作戦に従事したが、基本構造の問題に起因する防弾性能の低さから、被害が増大するようになった。 被害は特に時に顕著(に見られるように米軍機でも同様の傾向が見られる)だったが、それなりの数の護衛戦闘機を揃え、この規模の爆撃機としては良好な高高度性能と、防御火力を活かした高高度爆撃を行えば、損耗率を比較的低く抑えることも可能だった。 しかし、戦力バランスが大きく崩れ、護衛戦闘機はおろか陸攻も十分な出撃数を揃えることが出来なくなった大戦中盤以降は、戦術を夜間爆撃、夜間雷撃に変更せざるを得なくなった。 それでも、雷撃により、でを撃沈、他重巡2隻、駆逐艦1隻に損傷を与え、他にもの際に空母を大破、でも重巡を大破させるなどの戦果を挙げている。 また、この時期にでが戦死した際の乗機としてもよく知られる(を参照)。 大戦終盤は「」の母機としても使用された。 桜花はその形状から機外に装備せざるを得ず、そのために起こる空力の悪化、桜花自身の重量、さらには本機の脆弱性とあいまって、桜花を切り離す以前に敵機に捕捉・撃墜されることのほうが多かったようである [ ]。 また終戦時には白色塗装の上、を描いた「」として、軍使の乗機に使用された。 後継機として、陸上爆撃機「」、十三試陸上攻撃機「」、十六試陸上攻撃機「」(計画中止)、十八試陸上攻撃機「」、対潜哨戒機・輸送機「」(計画中止)が開発された。 各型 [ ] 十二試陸上攻撃機(G4M1) 一式陸攻の試作機。 2機製造。 一一型(G4M1) インドネシアでUSAAFに鹵獲された 二二型 エンジンを火星二一型に換装、胴体と主翼も再設計した全面改修型。 上部旋回機銃も360度旋回が可能な動力式に変更されている。 (昭和18年)7月より生産開始。 胴体側方旋回機銃を20mmに変更し、H-6型捜索レーダーを追加した二二甲型、二二甲型の上部旋回20mm旋回機銃を短銃身の九九式一号銃から長銃身の九九式二号銃に変更した二二乙型といった改修型がある。 二四型(G4M2a) 火星二一型の振動が激しかったため、減速比を変更した火星二五型に換装した型。 二二甲型及び二二乙型に準じた改修を施した二四甲型及び二四乙型、二四乙型の機首前方機銃を7. 7mmから13mmに変更した空中レーダー搭載の二四丙型といった改修型がある。 イギリスが機体にイギリスのマークを付けて本国に研究用に持ち帰った。 を製(住友金属によるライセンス生産)の油圧式可変プロペラ3翅から、住友金属が独自に改良した4翅に変更。 二四丁型(G4M2e) 桜花を搭載した第721航空隊の二四丁型 爆弾倉を一一型を搭載できるよう改修し、燃料タンクや操縦席の防弾装備を強化した桜花懸吊母機型。 一部の機体は胴体後部下面に離陸促進用補助も装備できるようになっていた。 二五型(G4M2b) 高高度性能を向上させた火星二七型に換装した高高度型。 試作のみ。 二六型(G4M2c) 燃料噴射装置を追加した火星二五乙型に換装した型。 試作のみ。 二七型(G4M2d) 排気タービン過給器付きの火星二五乙型に換装した高高度型。 試作のみ。 三四型(G4M3) インテグラルタンクを廃止して防弾タンクを装備し、尾部銃座形状変更、水平尾翼への上反角追加等の改修を施した型。 三六型(G4M3c) 三四型のエンジンを燃料噴射装置を追加した火星二五乙型に換装した型。 三六丁型(G4M3e) 三六型を桜花搭載母機に改修したもの。 三七型(G4M3d) 三四型のエンジンを排気タービン過給器付きの火星二五乙型に換装した型。 十二試陸上攻撃機改(G6M1) 陸攻型の量産に先んじて生産されたいわゆる「 翼端援護機」。 陸攻型の防御火器に加えて胴体下面ゴンドラの前後に20mm旋回機銃を追加、主翼前後桁とタンク側面に防弾ゴムを装備している。 陸攻編隊の外縁に位置し、強力な防御火器で編隊を守る目的で開発されたが、改修による重量増加等のため速力や運動性が低下し、陸攻隊と行動を共に出来ないと判定され、またが援護戦闘機として活躍するようになったことから、練習機や輸送機に転用された。 一式大型陸上練習機一一型(G6M1-L) 十二試陸上攻撃機改を練習機に転用したもの。 一式陸上輸送機(G6M1-L2) 十二試陸上攻撃機改を輸送機に転用したもの。 防御火器を減らし20名分の座席が設けられている。 諸元 [ ] トラック諸島に沈む、一式陸上攻撃機 制式名称 仮称一式陸上攻撃機一三型 一式陸上攻撃機二二型 一式陸上攻撃機三四型 機体略号 G4M1 G4M2 G4M3 全幅 24. 88m 全長 19. 97m 19. 63m 19. 50m 全高(水平) 4. 506m 6. 000m 主翼面積 78. 125m 2 自重 6,741kg 8,050kg 8,391kg 過荷重重量 12,895kg 15,451kg 14,772kg 発動機 火星一五型(離昇1,460馬力) 火星二一型(離昇1,850馬力) 火星二五型(離昇1,850馬力) 最高速度 453. 7mm旋回機銃4挺(前方・上方・側方) 20mm旋回機銃1挺(尾部) 7. 7mm旋回機銃3挺(前方・側方) 20mm旋回機銃2挺(上方・尾部) 7. -321 (龍を用いる所属機と目されている)。 仮称一三型 公開 静態展示 三菱製 1800号機、尾翼番号 U2-???。 仮称一三型 主翼・座席等 山本五十六記念館 胴体 ソロモン諸島アクア近郊 左記参照 公開 静態展示 三菱製 2656号機、尾翼番号T1-323。 山本五十六が死亡した際に搭乗していた機体。 二二型 日本 公開・胴体のみ 静態展示 三菱製 12017号機、尾翼番号 62-22の機体だが、現在は尾翼番号 龍41と塗装されている。 「龍」の字は第761海軍航空隊所属機を表す。 主翼を除いて復元されているが、胴体のみ公開されている。 三四型 アメリカ 公開・機首のみ 静態展示 一式大型陸上輸送機 日本 役所 イベントで公開・部品のみ 静態展示 尾翼とインテグラルタンクの一部が展示されている。 登場作品 [ ] 映画・テレビドラマ [ ] 『』 長谷川が護衛する機体として登場。 護衛中に長谷川がに撃たれ、大けがを負う。 『』 基地航空隊の機体として登場。 で実物を使った撮影が行われたほか、実機の攻撃訓練映像と特撮で敵への夜間が描かれる。 漫画 [ ] 『』 シリーズの一編「」にて、の母機として登場。 シリーズの一編「スタンレーの魔女」に登場。 一式陸攻によるを描く。 『』 シリーズの一編「複合戦線」に登場。 末期に単独で飛行中の一式陸攻と、同じく単独で飛行中のが遭遇し、同士で空中戦を行い、双方とも被弾不時着する。 『』 「ハート・オブ・ダークネス」にて、終盤、を起こした久留津らが立てこもるをする。 『』 作中たびたび登場。 序盤では、へ向けて連絡飛行中の艦載機「海鳥」をエスコートするため、トラック島配備機と思われる機体がと共に飛来した。 ゲーム [ ] 『』 プレイヤーの操縦機体として、一式陸上攻撃機 仮称一三型(G4M1)が登場する。 『』 陸上基地から呼び出せる航空支援部隊「基地航空隊」の戦力として、一一型・二二型甲・三四型が登場。 が率いた「野中隊」仕様の機体も登場する。 『』 Betty G4M1 の表記で登場する。 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 未装備時は仮称一三型463. 太平洋戦争研究会『日本海軍がよくわかる辞典』PHP文庫179頁• 日本の極秘軍用機(製作・放映、原題:SECRET JAPANESE AIRCRAFT OF WORLD WAR II)• 堀越二郎・奥宮正武『零戦 日本海軍航空小史』(、1997年) 第4部 名機にも強敵続出 3 実戦を通じて見た米陸海軍機 p384• 鈴木五郎『グラマン戦闘機 零戦を駆逐せよ』(光人社NF文庫、2005年)• 『ヒコーキの心』• 平義克己『我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』(扶桑社、2002)63頁• 平義克己『我敵艦ニ突入ス』64頁• 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ42 帝国海軍一式陸攻 双発機の概念を凌駕した中型陸上攻撃機の真実』(学習研究社、2003年)• 一式陸攻戦史、60ページ• 戦史叢書第79巻 中国方面海軍作戦<2>昭和十三年四月以降、275ページによれば7月27日の成都方面攻撃が初陣• 一式陸攻戦史、61-63ページ• 一式陸攻戦史、64-66ページ 参考文献 [ ]• 雑誌「丸」編集部 編『 保存版 軍用機メカ・シリーズ13 銀河/一式陸攻』(光人社、1994年)• 『 世界の傑作機 No. 59 1式陸上攻撃機』(文林堂、1996年)• 『 歴史群像 太平洋戦史シリーズ42 帝国海軍一式陸攻 双発機の概念を凌駕した中型陸上攻撃機の真実』(、2003年)• 巌谷二三男『海軍陸上攻撃機』上、下(文庫新戦史シリーズ、1996年) 上 、下 巌谷二三男『中攻』(、1976年)の復刻文庫版、海軍陸攻史の古典• 伊澤保穂『陸攻と銀河』(朝日ソノラマ文庫新戦史シリーズ、1995年)• 多賀谷修牟 著・小林昇 訳『 オスプレイ軍用機シリーズ26 太平洋戦争の三菱一式陸上攻撃機 部隊と戦歴』(大日本絵画、2002年)• 巌谷二三男 著・壹岐春記 監修『雷撃隊、出撃せよ! 海軍中攻隊の栄光と悲劇』(、2003年) 上記巌谷氏『中攻』の再編集ダイジェスト版• 高橋勝作・他『海軍陸上攻撃機隊 海軍中攻隊死闘の記録』(、1985年新版)• 須藤朔 ほか『 証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション8 英国東洋艦隊マレー沖に全滅す』(光人社、1990年)• 中攻会 編『ヨーイ、テーッ! 海軍中攻隊、かく戦えり』(、2005年)• 佐藤暢彦『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』潮書房光人新社、2019年、• 防衛庁防衛研修所 戦史室『』朝雲新聞社 外部リンク [ ]• 三菱製壱式陸上攻撃機の残骸 - モージャー氏撮影写真資料より• その1::• その2:: ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。

次の

「E7ゲージ1本目撃破」MaOのブログ | InsanityHorse

壱式陸攻

開発までの経緯 1936年(昭和11年)、海軍は新型艦上爆撃機の試作を海軍航空技術廠・山名正夫中佐の下で開始した。 これは十三試艦上爆撃機として計画され、敵の行動半径外から攻撃できる航続性能、敵機の迎撃を振り切れる高速性能を求めた機種として開発された。 『彗星』開発に関し、もっとも問題だったとされたのが空技廠による開発だったというものがある。 まさにこの一点において『彗星』の不運が始まったといっても過言ではないと思う。 (異論はあるだろうが・・・) 当時の空技廠の技官たちが、妙にエリート意識をもって職務に当たっていたことは否めないだろう。 そんな彼等が開発し、作り出した機体は意外と多かった。 1935年(昭和10年)の時点で各機種合わせて7種類の機体が空技廠によって開発されていたが、その中で好評だったのは九三式中練(通称:赤とんぼ)だけである。 実用航空機として、空技廠が開発したと自信を持っていえる機体を開発したい。 こんな想いが空技廠に新機体開発に走らせ、また海軍がそれを許してしまった。 新開発が決定した機種が艦爆(艦上爆撃機)という機種であり、当時次期艦爆選定のために購入した独ハインケル社のHe118が性能的に不適合と判断され不採用となった。 同時に次期艦爆として競作が進められた結果、愛知と九九式艦爆が採用に到った為、その次の艦爆として空技廠が十三試艦爆として開発を開始したのである。 十三試艦爆の開発 1936年(昭和11年)、独国から輸入したHe118を検討したところ性能的に海軍の求める新艦爆としては不採用となった。 そのためこれを参考に新型艦爆の開発が進められた。 本機は民間航空機メーカーに発注する際に行われる仕様書を定め、複数のメーカーが試作機を開発。 これを競合させて新機種を選定する方法とは違い、自ら目標とする高い数値の仕様書を定め、これに近づけようとする努力するという方式が採用された。 その上艦上爆撃機という限られた数しか生産されない予定の機種であった事、また実験機的要素が多分に含まれていた事などが上げられた。 開発を担当した山名正夫技師(工学博士。 後に技術中佐)は本機開発に当たり、当時空技廠科学部から研究的に提案が進められていた速度記録機の試作を、純粋な実験機として開発するのではなく、後から改造することによって実用機として利用できるものを作ろうとした。 そこに今回の十三試艦爆開発の話が舞い込んでくる。 また山名技師自身、艦爆という機種にもっとも関心を示していたこともある。 このため、半研究機的要素の強い試作機の開発がスタートしたのである。 海軍が目標として掲げた敵の行動半径外から発艦し、速やかに接近して敵機を振り切って爆撃を敢行。 そして一撃離脱で戦場から脱出する。 こんなムシのよい機体の開発するには途方もない性能を必要とした。 そんな状態から算出された性能要求値を纏めると以下のような数値となった。 しかも先に述べたように、これは海軍によって押し付けられた性能要求値ではなく、自ら目標値として定めた数値であった。 このため山名技師はこれらの数値を如何にしてクリヤーするかを考え、そして使用状態を想定し、大量の生産はないだろうという想定の下、多少構造・機構が複雑になろうとも問題ないだろうと考え、なによりも性能を追求するという方針であった。 もう一つ『彗星』を難物化させた要因としてDB601という液冷発動機の選定が上げられる。 この発動機は独ダイムラー・ベンツ社から生産顕を得、日本国内でライセンス生産を行える液冷発動機であった。 1938年(昭和13年)の時点において、小型機用発動機としては最強力の部類に属し、液冷発動機故の形状により機体の機種を細く、空気抵抗の減少を見込める。 それは速度性能の向上に繋がる要因であり、研究機的要因の強い十三試艦爆にとっては非常に魅力的であった。 もう一つ、『彗星』の構造的問題点を見るうえで重要な点が存在する。 それはフラップを初めとする各部の駆動系に従来の油圧駆動ではなく、電気式駆動系を多用したことである。 電気式を採用した理由は簡単である。 従来整備上の問題とされてきた油漏れ等に対処するためであり、それは重量軽減に結びついた。 だがそれにも欠点があった。 油圧式に比べれば確かに電気式のほうが有利な点は多い。 だがそれは高い機械工作精度があればこそであり、当時の日本にとっては複雑化するギアボックスは製造工程を増やすだけであり、また戦地における信頼性を低下させた。 なによりモーターとバッテリーの性能が低かった。 この電気式駆動の欠点がもっとも現れたのが脚部の収納ギミック部分であり、『彗星』の離着陸時の信頼性低下に繋がった。 『彗星』開発に当たり特に苦心したと言われるのが空気抵抗の減少がある。 この抵抗値減少のために爆弾は胴体内搭載方式を採用し、風防の高さを抑える為に操縦席を低く。 そのために搭乗員の従来式落下傘を座布団式から背負い式に変更した。 胴体形状、翼形状を工夫し、特に液冷発動機故に必要な空気取り入れ口、潤滑油冷却器関係の配置は絶妙で、結果風洞試験での抵抗値は表面摩擦のみというごく小さな抵抗値にまで押さえることが出来た。 1940年(昭和15年)11月、完成した試作1号機は陸攻用の木更津基地に移され(追浜飛行場では狭く危険な為)、11月15日に初飛行に成功した。 この初飛行の後席には開発主務技師である山名技師が自ら乗り込んだという。 初飛行ではまずまずの評価を得た十三試艦爆であったが、以後の試験飛行は難航した。 主な原因は発動機の不調であり、気化器の能力不足・調整困難からくる水温の上昇が原因だったという。 冷却器の改造が行われ高温高圧水冷却法を採用・改造した冷却器は国産版発動機・愛知製十三試ホ号(AE1A・後の熱田二一型)にも採用された。 (試作機に取り付けられた発動機は輸入版のDB600G) そして試験飛行は十三試ホ号発動機に代えられ、以後の試験飛行を順調にクリアーしていく。 飛行実験部によって試験飛行された際に記録した性能数値は以下のようなものであっという。 また高速性能も当初の計画性能値を上回り、結果偵察機としても使用できる機体と判断された。 その為本機はまず艦上偵察機として採用されることが決定した。 既に太平洋戦争は開戦しており、当時母艦航空隊は偵察任務に鈍足の九七式艦攻を使用していた為、高速の艦上偵察機はぜひとも配備を急ぎたい機種であった。 十三試艦爆試作3号機、4号機は艦偵仕様に改造され、胴体内爆弾倉には増槽を装備した状態で空母『蒼龍』に配備されたのである。 艦偵型は1942年(昭和17年)7月、まず二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)として制式採用された。 だが、十三試艦爆の本来の任務である艦爆型としての採用に立ちはだかる2つの事件・事故が起こる。 先に空母『蒼龍』に配備された試作3・4号機はミッドウェー海戦に参加した結果2機とも同作戦における『蒼龍』沈没という事態により失われてしまった。 次に試作5号機が試験飛行中に高速での緩降下中に空中分解してしまった。 この事故の原因が確定できなかった為、制式採用が遅延してしまった。 上記のような試作機消失が続いた為、通常であれば至急増加試作機を製作し試験飛行を継続する必要があったが、十三試艦爆には他の問題があった。 既に量産化のために製造を引き受けた愛知(愛知時計電機社、後に愛知航空機に社名変更)での生産開始準備が進んでいた為である。 民間会社による設計・製造という通常の方法ではなく、空技廠設計・愛知での生産という点が問題となったのである。 当初の予定では1941年(昭和16年)11月の段階で愛知に対し生産を打診され、翌1942年(昭和17年)度中に100機の生産であったが、実際には空技廠から愛知に対しての図面出図が遅れた。 しかも試作機の仕様変更に伴ない順次図面が修正され中々揃わず、その上生産及び機体構造上の問題点が発生するたびに変更されていく。 結果量産化は遅れに遅れた。 1943年(昭和18年)3月までに生産出来た機数は25機(海軍の領収機数は10数機)だけであった。 (量産機の初飛行は1942年10月5日)その間に発生した構造・装備・生産性向上の為の変更は実に254項目に及んだという。 二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C) まず艦上偵察機として制式採用が決定した本機は初期生産分の内、少数は空技廠にテスト用として回され、それ以外は二式艦偵として配備された。 装備品である航空写真機は固定式小西六(現コニカ)製K-8型を胴体後部に設置された。 武装は機首の九七式7. 艦上爆撃機 彗星一一型(D4Y1) 1943年(昭和18年)5月、月産量産数が2桁に達し、7月には月産30機に達した。 この頃から艦爆型の生産が始まるが艦爆型の生産数ははっきりしていない。 愛知での資料によると6月から艦爆型が制式採用となったが、海軍側の資料によると同年12月からとなっている。 しかし、昭和18年の段階では既に高速機としてのイメージは薄らいでしまったと言える。 武装は二式艦偵と同様に機首の九七式7. ただし、50番を搭載した場合、胴体爆弾倉の蓋を閉じることは出来ない。 当初、射爆照準器は風防内に納まる九八式二型光学式照準器であり、二式艦偵一一型と同じであった。 だが光学式では急降下時の降下照準角が狭い為、途中から眼鏡式の二式一号射爆照準器一型に変更した。 二式艦偵一一型、彗星一一型合わせての生産数は705機。 彗星夜戦一二戊型(D4Y2-S) 彗星一二型からの派生型として生産されたタイプに夜戦型が存在する。 本機は彗星の頑丈な機体構造と機動性、複座として偵察員が同乗するため夜間飛行が可能である為、初代夜間戦闘機『月光』に変わる新夜戦として改造・生産された。 1944年(昭和19年)春、彗星一二型を横須賀航空隊と第一航空廠(霞ヶ浦)の協力で後部風防内に30㎜機銃1挺を付加した夜間戦闘機に改造した。 だが30㎜機銃は小型の彗星には大きく、射撃時の反動で強く、また発射速度が遅い為、九九式20㎜二号固定機銃四型に変更された。 彗星一二型への20㎜機銃搭載は第十一航空廠(広島)で行われた。 彗星夜戦は全機一二型からの改造であり、最終的には100機程度が改造された。 また風防も視界確保の為に夜間戦闘機用に交換し、射爆照準器も光学式に変更した。 彗星夜戦は302空を初めとする本土の局地防空戦闘機部隊に配備されだが、一部では外戦部隊の131空『芙蓉部隊』でも運用された。 だが芙蓉部隊では本来の彗星夜戦の主目標である敵爆撃機邀撃ではなく、沖縄に上陸した米軍に対する夜間銃爆撃戦法及び米機動部隊攻撃を行った。 その為一部の機体では彗星夜戦に改造する手間を惜しんで彗星艦爆及び二式艦偵のまま使用した機体もあったという。 武装は二式艦偵・彗星艦爆と同様に機首の九七式7. ただし、50番を搭載した場合、胴体爆弾倉の蓋を閉じることは出来ない。 さらに芙蓉部隊所属機は仮称三式一番二八号爆弾(28号ロケット爆弾)、三一号光電管爆弾、三号対空爆弾、タ弾(対飛行場用破砕爆弾)、二五番時限爆弾、三式二五番八号爆弾(反跳爆撃用)といった特殊爆弾、試作兵器を運用して(もしくは運用できるように改造を施して)いた。 そして銃爆撃攻撃には不要だった斜め銃は撤去していたケースも多い。 但し後に敵夜戦が警戒に飛ぶようになると敵夜戦撃墜の為に再び斜め銃を装備するようになった。 その他の派生型 高々度型 防空部隊に配備が決定した彗星夜戦一二戊型だが、B-29の来襲時に護衛戦闘機が随伴しない場合は出撃できるように高々度邀撃戦仕様の開発が行われた。 彗星一二戊型から1〜2機に排気タービンを付加する改造が行われた。 機首両側にダクトが設けられ、排気タービンは爆弾倉内に設置。 タービン用空気吸入口は翼根付近に設けられた。 だが実験中に敗戦を迎え、実用にはならなかった。 航空戦艦用 射出型 (D4Y1改) (D4Y2改) ミッドウェー海戦で失った正規空母の代わりとして戦艦『伊勢』『日向』の2隻を航空戦艦に改造する計画が進行していた。 この2隻の搭載艦載機として選ばれたのが彗星艦爆であった。 当初の予定では彗星を各22機づつを搭載する予定だったが、両艦に搭載される機体は射出カタパルト(一式二号射出機一一型)からの出撃が前提となる。 彗星一二型に射出機に耐えられるように補強と改造を加えた機種を彗星二二型(D4Y2改)と称し、1944年(昭和19年)10月に制式採用された。 同様に一一型を改造した二一型(D4Y1改)、一二甲型を改造した二二甲型(D4Y2a改)が存在するが実戦には使用されずに終わった。 液冷型の問題と空冷型への移行 彗星の発動機を空冷型への変更が計画された。 これは陸軍が同様の発動機『三式戦・飛燕』の発動機を液冷型から空冷型へ変更した場合と同様であったが、若干違う理由も存在した。 愛知側の記録によると機体の生産数が捗ったのに対し、発動機の生産が遅れ、不足がちであったこと。 また性能向上型である熱田三二型の故障が続発し、生産数が落ちた為、空冷発動機搭載を検討したとのことであった。 では熱田三二型の問題点とは何か。 愛知における熱田の生産は二一型から三二型に転換した際にガタ落ちしたという。 また実戦部隊からの液冷発動機に関する整備上の問題が上げられた。 元来空冷を主体に開発・運用が進められてきた日本陸海軍航空隊は液冷発動機を運用する基礎技術が低かった。 開発・ライセンス生産は出来たが、それを前線で運用する整備隊が液冷発動機に慣れておらず、機体の稼働率は低下したのである。 だが1944年(昭和19年)当時においては、本来稼働率が高かった零戦部隊(空冷『栄』発動機装備)でさえ稼働率は低下していた程全体の整備力は落ち込んでいる時期であった。 外戦部隊として戦地を移動する部隊とは違い、本土で固定配置されていた防空部隊の整備隊でさえ液冷発動機『熱田』の取り扱いは難しかった。 その為、整備上問題が少なそうな空冷発動機への換装は自然であった言える。 だが例外はある。 各部隊から稼働率低下、整備上の問題から不評だった液冷発動機を装備した彗星一二型(艦爆型)をかき集め、部隊の主力器材として沖縄航空戦を戦い抜いた芙蓉部隊である。 整備員たちの努力による高い整備力と、メーカーからの技術指導によって高い稼働率を確保していた。 具体例として1945年(昭和20年)1〜6月頃の彗星を配備する各部隊の稼働率を纏めて見る。 航空隊 稼動機数/装備機数 稼働率 備考 131空 芙蓉部隊 (岩川基地進出部隊) 22機 / 26機 85% 5月20日 沖縄航空戦末期 302空 9機 / 22機 41% 1〜5月の各月初日の平均 352空 2機 / 7機 29% 5月中旬・下旬の平均 210空 18機 / 48機 38% 1〜3月の各月月末の平均 艦爆型・艦偵型を含む 確かに熱田三二型を装備する彗星配備の各隊の稼働率は全般的に低い稼働率であった。 もっとも先に述べたように高い稼働率を誇っていた零戦の『栄』でさえ、部隊によっては稼働率60%台だった部隊もあった当時ではあるが、例外的に高い稼働率を誇っていた部隊も存在していた。 実際に彗星・二式艦偵に乗って戦った同乗員も彗星を悪く言う者は意外と少ない。 だが稼働率は全体的には低下しており、また生産数がガタ落ちしていた液冷型彗星を空冷化しようとすのは自然と生まれる動きである。 そのための発動機として三菱製発動機『金星』が選ばれた。 この空冷発動機型を彗星三三型と称する。 だが皮肉なことに彗星三三型の試作が完了し、完成機が出現する頃になってようやく熱田三二型の月産生産数が増加するのだった。 彗星は液冷型(一二型)と空冷型(三三型)が同じ工場(愛知航空機・永徳工場)で平行して量産されていくこととなる。 陸上爆撃機 彗星三三型(D4Y3)・彗星三三甲型(D4Y3a) 空冷発動機を搭載することとなった彗星だが、選定された発動機は上記のように三菱製空冷発動機である『金星』であり、その最終シリーズである60型である。 この発動機は日本製発動機の代表ともいえるシリーズであり、高い信頼性を得ていた。 金星六一型は気化器を使用したタイプであり、六二型は吸入管への水・エタノール噴射装置付である。 空冷彗星の試作機には金星六二型を搭載され量産化されたが、一部の機体には金星六一型を搭載した機もあるらしい。 金星六二型は14気筒二重星型で(離昇)出力1,560hpであり、熱田三二型とほぼ同じである。 カウルの再設計を行い、発動機の大きさの違いから出来る段差は空気吸入口を巧みに設置し解消した。 だがプロペラ軸位置の変更の為、プロペラ直径は一二型よりも直径で20㎝短いタイプが取り付けられた。 武装は一二型と同様であったが、両翼下にも二五番(250kg)爆弾を搭載出来る様になった。 また後に一二型同様後部座席の旋回機銃を二式13㎜旋回機銃一型に変更しており、これを三三甲型(D4Y3a)と称する。 本機は一二型からの空冷発動機への換装型であるため、当然艦上爆撃機である。 だが、当時既に艦載機として運用する機会が減り、陸上基地からの出撃が殆どであった為、試作1号機以外には着艦フックを装備しておらず、事実上陸上爆撃機であった。 試作機は1944年(昭和19年)5月に完成。 同年中に彗星三三型として制式採用された。 また一二戊型同様斜め銃として20㎜機銃を搭載した夜戦型も試作されたが、採用されたか否かは不明。 (恐らく試作のみ) 三三型・三三甲型の生産数は536機。 陸上爆撃機 彗星四三型(D4Y4) 1944年(昭和19年)11月、海軍が特攻攻撃を組織的に使用し始めると、彗星も特攻用に大改造を施す計画が誕生した。 四三型である。 これは特攻にあたり後部座席を潰して単座化し、偵察員を乗せないようにした。 さらに搭載爆弾を八十番(800kg)爆弾とした。 実際艦爆が八十番を搭載して急降下することは不可能であり、爆撃(特攻)方法は緩降下爆撃方法である。 そして大きすぎる爆弾故に胴体部を切り裂き、また爆弾倉の蓋は撤去・廃止された。 当然爆弾投下用の誘導管(通常爆弾をプロペラ圏外に送り出す為の折りたたみ式アームが有った)も撤去された。 射爆装置は搭載しない予定だったが、後に光学式三式一号射爆照準器一型が採用され装着されている。 固定武装はなし。 単座化により後部座席の旋回機銃はもとより機首の7. 7㎜機銃も廃止される。 代わりに操縦席前後の防弾装甲が風防前面の防弾ガラスとなり、さらに防弾(耐弾)燃料タンクが採用された。 最大の特徴は胴体下部の両側に各1本(離陸用)、本来の後部座席下に3本(加速用)、計5本の増速用ロケットが装着された。 ただし後に離陸用として設けられた両側の2本は廃止され、さらに加速用も3本から2本に減らされた。 (主に重量軽減のため) 他にも帰投方位測定機や無線電信機が廃止されている。 (近距離用無線電話は残された) 本機は1945年(昭和20年)2月12日に試作1号機が完成し、そのまま制式採用となった。 そして三三型の生産をやめて四三型の生産1本に絞るようになると、終戦までに253機が完成した。 だが本機は一度も実用はされなかった。 胴体爆弾倉の蓋撤去による空気抵抗の増大、八十番爆弾搭載による重量増加によって最大速度が低下し、ロケット装置は飛行特性を酷く悪化させた為である。 一部の機体は後部座席を復活させ、通常作戦用に戻したものもあるったという。 mixiユーザー 2015年07月17日 02:51 わはは、阿部大尉の登場でつい・・・どうもおひさしぶりw この人、かなりの戦歴の持ち主。 以前彼の書いた本読んだけど、真珠湾からインド洋作戦、そこで「蒼龍」から「隼鷹」に移動してアリューシャン作戦の方に参加。 「飛鷹」に移ってガ島攻撃にも行ってるし。 その後マリアナ沖海戦に従事して、ロタ島に不時着して終戦かな。 ほぼ主要参戦に艦爆乗りでの参加だから、かなりの腕と幸運の持ち主だね。 おいらあんまり飛行機には興味ないけど、マリアナの時に彼は「彗星」に乗ってたから、そん時の搭乗機なんだねw• mixiユーザー 2015年07月17日 11:04 靖国神社の彗星を思い出します。 今では簡単に見に行ける距離では無くなりましたが、その代わり愛媛県には紫電改が有ります。 肝心の阿部大尉についての記述が全く無いのはそんな理由でして… しかし阿部さんは強運ですよね。 片道攻撃に行ってるのに生き延びてますからね。 大尉に関する日記はまた改めて書きたいです。 mixiユーザー 2015年07月17日 21:04 彗星43型になるとほとんど当初の原型をとどめてないし目的も違ってしまって 設計者としては悲しかったでしょうね• 戦争なんて結局最終的には全てが悲しく虚しい結末になるものなんでしょうね。 日本の為に、と精魂込めて設計、製作した人々も 辛かったことでしょう。 パンツァーファウストに関しても、対戦車戦闘を想定できず、最後まで歩兵の銃剣突撃という第一次大戦のじてんでも時代遅れとなる戦術に固執したのが問題だったと思います。 2020年• 08月• 09月• 10月• 11月• 12月 2019年• 2018年• 2017年• 2016年• 2015年• 2014年• 2013年• 2012年• 2011年• 2010年• 2009年• 2008年• 01月•

次の

一式陸攻の性能について教えてください。

壱式陸攻

【航空羅針儀一型改】 天山・流星・九六式陸攻・彩雲・零式水上偵察機・九四式水上偵察機・一式陸攻などに 使用されました。 【航空羅針儀二型改 海軍)】 東京計器製作所で製造されたもので,羅針儀本体は昭和14年12月製造, 反射鏡付き測定器は昭和17年2月に製造された部分から成り立つています。 搭載機種は中島艦上攻撃機「天山」,中島艦上偵察機「彩雲」,川西九四式水上偵察機等々です。 【羅針盤(1号)後期型】 (其の壱) 製造会社:東京計器製作所(東京航空計器)、横河電機製作所、品川製作所 使用機種:91式戦、95式中練3型、97式重爆1型、98式直協機、99式高練、100式輸送機 備考:後期型は照明装置が横になっている。 【羅針盤一号・後期型】 (其の弐) 【羅針盤一号二型】 一号後期型との相違は、中央下部の修正用調節ネジ部が異なる。 外観からのみでは 識別は困難です。 【戦闘機発着艦用計測器】 米国からの里帰りの遺品です。 明らかな用途は不明です。 裏面には1943年の記名あり。 【短艇羅針儀改二】 (其の壱) 海軍で使用された短艇羅針儀改二で製造は大阪の海軍省指定工場布谷計器製作所です。 昭和19年1月製造錨の刻印が確認できます。 箱は銅製で窓枠などはアルミで出来ています。 ロウソク入れが横にあり、夜でも小窓から羅針盤を照らすことが出来ました。 重量は約3.5kgです。 (其の弐) 【九八式水平儀】 陸軍九八式水平儀、東京航空計器株式会社製 【九七式高度計】 日本陸軍機「疾風」から取り外された機器です。 【日本海軍・艦内時計】 重巡洋艦鳥海の艦内時計と謂われています。 重巡洋艦「鳥海」 鳥海は愛宕型重巡洋艦で1万トン重巡でありました。 愛宕型重巡洋艦は愛宕・高雄・摩耶・鳥海の4隻です。

次の