最上 も が うつ。 マンション最上階の住み心地はどう?メリットとデメリットで徹底解説!

ハッピーわらしべ

最上 も が うつ

元でんぱ組. incの最上もがが10月17日深夜に放送されたバラエティ番組「有田哲平の夢なら醒めないで」(TBS系)で、男性との交際経験がないことをカミングアウトするも、思わぬ事態に陥っている。 番組で最上はまず、以前から公表していたが、男女どちらも恋愛対象として見ることができると告白。 ただ、男性と付き合った経験がないとのことで、その理由については「付き合うって口約束みたいなところがある。 みんなすぐウソつくし、どうせ裏切るだろうとか思うし、傷つくくらいなら関わりたくない」と、男性不信だったことを説明していた。 逆に男性から告白されたこともないと明かしていた。 その後も異性との恋愛に対してネガティブな発言を繰り返していたことを、番組MCのくりぃむしちゅー・有田哲平が心配すると、最上は「結婚しないと思います。 願望がない」とも言ってのけたのだった。 ところが、こうした最上の一連の発言に反応したのが、女性扮装家のうしじまいい肉だった。 さらに、〈やった男の人の嫁が言ってました 男と付き合ったことが無いバイ設定なんですかね〉と、情報源を明かしたうえで、最上の「キャラ設定」に疑問の目を向けたのだ。 「うしじまの暴露が本当であれば、男性と付き合ったことはないが、男性とオトナの関係を持った経験があるとなれば、それこそイメージは良くないですよね。 ですが、でんぱ組の脱退もメンバーとの不仲が原因で、そのグループ内不和も元をたどれば、最上のSNSでの発言が原因だったりと、最上が難しい性格であることもわかっていますし、うしじまの暴露したくなった気持も何となく納得できるところもあります。 ただ、最上とうしじまにどういった関係性があるのかも定かではない。 元メンバーが噛み付くというのならまだしも、あまり絡みがなさそうなところから横やりが飛んできてしまうのにはビックリです。 暴露に驚くより以前にどれだけ業界内に敵が多いのかと思ってしまいますよね」(エンタメ誌ライター) とはいえ、こうなってくると、このうしじまの暴露が事実なのかが気になるところ。 最上も自身のキャラを守るために、違っているなら、明確に反論して欲しいものだ。 (本多ヒロシ).

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最上 (重巡洋艦)

最上 も が うつ

軽巡洋艦時代の「最上」 基本情報 艦種 命名基準 川の名 運用者 建造期間 1931年 - 1937年 就役期間 1935年 - 1944年 建造数 4隻 次級 要目 11,200 (最上竣工時) 200. 6 最大幅 20. 6 m (最上、三隈) 20. 2 m 鈴谷、熊野 6. 同型艦は4隻。 最上型とは『二等巡洋艦』『乙型巡洋艦』として計画・建造され喪失まで書類上の変更はなかった。 最上型は15. 5cm砲塔を20. 3cm砲塔に換装して重巡洋艦となり、「最上」はさらにに改装されたことで有名である。 概要 [ ] 旧式化した「」、「」、同じく旧式化したのうち「」、「」計4隻の代艦として、それぞれ「」、「」、「」、「」の建造予算が承認された。 表向きにはとして建造した為に、当時の軽巡洋艦の命名規則から河川名が付けられた。 最上型の設計は条約失効後を見越して行われ、20. 3cm連装砲塔に換装する事を前提に設計された艦体に新設計の15. 5cm三連装砲塔を搭載して竣工させた。 条約失効後計画通り換装を受けたが書類上は軽巡洋艦のままだった。 この取り外された15. 5cm砲の砲身はの主砲やのとして再利用されたほか、陸上砲台用としても使用された。 計画 [ ] ではと、の主砲サイズと排水量の上限に、戦艦と空母には保有トン数が各国に割り当てられた。 更にでは重巡洋艦以下の補助艦艇にも細かい制限が掛かり、巡洋艦も2種類に分類される事となった。 重巡洋艦の保有枠が高雄型で上限となっていたため、保有枠のまだある軽巡洋艦で重巡洋艦と同等の攻撃力を持つ艦艇を日本海軍は求めた。 カテゴリーb(軽巡洋艦)と分類される条件は「排水量1万トン以下」「主砲6. 1インチ(15. 5cm)以下」で、条約で認められた日本の建造枠の残りは50,955トンであった。 昭和6年度「第1次補充計画」で基準排水量8,500トンの軽巡洋艦を4隻を建造することとし、諸外国や 国内においても最上型は「軽巡洋艦」として公式発表されている。 先の条件に合うよう主砲は軽巡洋艦の制限いっぱいの口径15. 5cmとしているが実質排水量は1万トン以上あり、条約失効後に20. 3cm連装砲に換装が可能なぐらい余裕があり、15. 5cm砲でも不自然な砲架に見えぬよう3連装主砲を新たに開発し搭載している。 ちなみに最上型の原案である「C37」計画では高雄型に匹敵する大型の艦橋が計画されていたが竣工時には非常にコンパクトな艦橋となっている。 また、居住性が軽視されがちであった帝国海軍戦闘艦艇であるが、本型では初めてハンモックではなく三段式鉄製ベッドが全面採用された。 建造 [ ] 昭和6年 に1番艦が起工、2番艦も同年起工された。 しかし最上進水直前の 昭和9年 にが発生し復元力不足が判明、改装工事が施された。 建造開始前後の3、4番艦、 は船体を改設計、線図を改めた上で工事が開始された。 また 昭和10年 に最上は完成前公試を実施したが溶接を多用した船体のひずみから砲塔旋回の困難や溶接部からの浸水などの問題が出て改正工事をしている。 更に竣工直後に参加した昭和10年度艦隊大演習では台風による波浪により各艦に被害が続出、日本海軍所属の多くの艦艇に船体強度の不足が露呈した()。 最上型各艦も船体強度強化の工事がなされた。 それらの工事が完了し最上型4艦が艦隊にそろったのは計画より2年遅い昭和13年度になってからだった。 鈴谷型 [ ] 最上型3番艦鈴谷、4番艦熊野は上記の通り船体線図が改正され、前期2艦の最上、三隈とは船体形状に違いが生じた。 そこで後期2艦は鈴谷型と分類されることもある。 また前期2艦のボイラーは重油専焼罐大型8基小型2基の計10基であったが鈴谷型では重油専焼罐大型8基に変更されている。 このため前期2艦には第3砲塔と艦橋構造物の間に大型の吸気トランクが設けられたが、鈴谷型にはそれがない。 一番煙突も鈴谷型ではボイラー減少の分だけ径が細くなっている。 主砲 [ ] 主砲塔換装後の最上型の武装・装甲配置を示した図 上述の通り、の規定に基づき、保有枠のまだある軽巡洋艦の扱いで建造するため、15. 5cm3連装砲を採用した。 基準排水量8,500トンも保有枠に基づいての要求仕様であるが、15. 5cm3連装砲は重巡洋艦の20. 3cm連装砲よりも重量が大きいため、当初から無理のある要求であり、排水量は大幅に超過した。 前級までの重巡洋艦は2番砲塔を背負い式として高所に配置したが、本型では3番砲塔を高所に配置している。 2番砲塔を高所に配置すれば前部の3基の砲塔を近接して配置できるために全体重量を節約できるが、3番砲塔が2番砲塔と艦橋にはさまれる形となり、射角が非常に小さくなってしまう。 本型のような配置だと1番砲塔と2番砲塔の間隔が開いてしまうが、15. 5cm砲は20. 3cm砲より砲身が短いため、さほど間隔を広げなくても済んだ。 また15. 5cm三連装砲は、砲弾一発あたりの威力では劣るものの、単位時間あたりの投射砲弾重量では20. 3cm連装砲より勝っており、用兵側の評判が極めて良かった。 、ロンドン軍縮条約は 昭和11年 いっぱいで失効し、軍縮時代は幕を下ろした。 最上型各艦は当初の予定通り主砲を20. 3cm連装砲に換装する工事を 昭和14年 から 昭和15年 にかけて実施した。 この主砲換装の事実は秘匿され、米軍がそれを知ったのはの時だったと言われているが、実際にはその直前にこの事実を知った。 この改装で砲身が長くなったために2番砲は先端が1番砲塔に重なってしまい、仰角をかけないと前方を指向できなくなった。 ちなみにアメリカ海軍は、本型に対抗してを建造しているが、主砲の換装は行っていない。 また「」も諸外国への通告段階では15. 5cm砲搭載案だったが 、条約の失効により最初から20. 3cm砲搭載巡洋艦として建造された。 戦歴 [ ] 本型4隻はを形成し、 開戦当初はを支援した。 にも従事し、日本軍緒戦の勝利に貢献している。 (昭和17年)3月1日のではとは共同して米重巡洋艦豪軽巡洋艦を撃沈する活躍を見せた。 また作戦でも数隻の商船を撃沈している。 では4隻そろって参加している。 でも4隻そろって参加したが、から退避中に最上と三隈が衝突し、最上は艦首を失う。 その後の空襲で最上大破、三隈沈没という被害を受けた。 三隈は日本重巡洋艦初の喪失であった。 最上は損傷修理の際に後部砲塔を撤去し飛行甲板を延長、水偵11機搭載可能な航空巡洋艦となった。 熊野と鈴谷はインド洋での作戦に従事する予定であったが、米軍の上陸によって急遽ソロモン諸島に進出する。 、、、と相次いで大海戦に参加した。 その後、鈴谷と最上は1943年11月ので損害を受ける。 1944年6月のでは最上、鈴谷、 熊野の3隻共に参加。 熊野搭載機が敵機動部隊を発見している。 では最上は西村艦隊に所属しに参加したが敵砲撃により大破、さらに退避中の空襲により航行不能となったため自沈処分された。 栗田艦隊に所属した鈴谷はで米軍機の攻撃により火災発生、搭載魚雷が誘爆し沈没した。 同じで 熊野は艦首に敵魚雷が命中、速度低下のため単艦経由に向け退避した。 途中度重なる空襲で被害が出たがマニラ到着、応急修理を実施。 本格修理のため日本へ向け出港したが米潜水艦の魚雷命中、航行不能。 またも応急修理で航行可能となったが 昭和19年 11月25日、サンタクルーズ湾において米空母機の空襲により転覆沈没、帰国はかなわなかった。 熊野を最後に最上型は全て戦没した。 同型艦 [ ]• - - - 防空巡洋艦への改装計画 [ ] 鈴谷の建造計画時、最上と三隈の2艦をへ改装する計画がもちあがった。 改装の内容については断片的な情報しか無く、試案の図面すら残されていないが、の記述によれば主砲塔を一部又は全て撤去し、12. 7cm連装高角砲を主とした装備案が検討されたという。 それ以外にも、の影響で鈴谷型を改設計する際、鈴谷と熊野をに改装する計画 や、最上型全てをへ改装する計画 があったとされる記述も存在している。 脚注 [ ] []• 昭和10年1月30日付 海軍内令 第29号改正、海軍定員令「第50表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。 この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。 昭和12年4月23日付 海軍内令 第169号改正(昭和12年6月1日施行)、海軍定員令「第48表 二等巡洋艦定員表 其ノ4」。 この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。 「昭和9年度海軍予算査定資料」p. 「第3501号 6. 27 最上」p. 「2 帝国海軍造艦術進歩の現状」p. 「第171号の13 10. 18 筑摩」p. 『日本巡洋艦物語』p. 260及びp. 341• 『未完成艦名鑑 1906~45』p. 108• 『日本駆逐艦物語』p. 218 参考文献 [ ]• 防衛省防衛研究所• Ref. A09050137200「昭和9年度海軍予算査定資料」• Ref. C05034593300「2 帝国海軍造艦術進歩の現状」• Ref. C05110623200「第3501号 6. 27 最上」• Ref. C05110629200「第171号の8 10. 17 最上」• Ref. C05110629200「第171号の9 10. 5 三隈」• Ref. C05110626300「第171号の13 10. 18 筑摩」• 雨倉孝之「最上型巡洋艦その戦いと最後」『最上型重巡』、学習研究社、2002年。 岡田幸和「最上型の誕生と変遷」『最上型重巡』、学習研究社、2002年。 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争続篇』、光人社、1984年、。 多賀一史「最上の原案、C37新巡洋艦一般艤装大体図」『最上型重巡』、学習研究社、2002年。 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)• 福井静夫『福井静夫著作集 第四巻 日本巡洋艦物語』(光人社、1992年)• 福井静夫『福井静夫著作集 第五巻 日本駆逐艦物語』(光人社新装版、2008年)• パイロンズオフィス『未完成艦名鑑 1906~45』(光栄、1998年) 外部リンク [ ]• ウィキメディア・コモンズには、 に関するカテゴリがあります。

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最上型重巡洋艦

最上 も が うつ

軽巡洋艦時代の「最上」 基本情報 艦種 命名基準 川の名 運用者 建造期間 1931年 - 1937年 就役期間 1935年 - 1944年 建造数 4隻 次級 要目 11,200 (最上竣工時) 200. 6 最大幅 20. 6 m (最上、三隈) 20. 2 m 鈴谷、熊野 6. 同型艦は4隻。 最上型とは『二等巡洋艦』『乙型巡洋艦』として計画・建造され喪失まで書類上の変更はなかった。 最上型は15. 5cm砲塔を20. 3cm砲塔に換装して重巡洋艦となり、「最上」はさらにに改装されたことで有名である。 概要 [ ] 旧式化した「」、「」、同じく旧式化したのうち「」、「」計4隻の代艦として、それぞれ「」、「」、「」、「」の建造予算が承認された。 表向きにはとして建造した為に、当時の軽巡洋艦の命名規則から河川名が付けられた。 最上型の設計は条約失効後を見越して行われ、20. 3cm連装砲塔に換装する事を前提に設計された艦体に新設計の15. 5cm三連装砲塔を搭載して竣工させた。 条約失効後計画通り換装を受けたが書類上は軽巡洋艦のままだった。 この取り外された15. 5cm砲の砲身はの主砲やのとして再利用されたほか、陸上砲台用としても使用された。 計画 [ ] ではと、の主砲サイズと排水量の上限に、戦艦と空母には保有トン数が各国に割り当てられた。 更にでは重巡洋艦以下の補助艦艇にも細かい制限が掛かり、巡洋艦も2種類に分類される事となった。 重巡洋艦の保有枠が高雄型で上限となっていたため、保有枠のまだある軽巡洋艦で重巡洋艦と同等の攻撃力を持つ艦艇を日本海軍は求めた。 カテゴリーb(軽巡洋艦)と分類される条件は「排水量1万トン以下」「主砲6. 1インチ(15. 5cm)以下」で、条約で認められた日本の建造枠の残りは50,955トンであった。 昭和6年度「第1次補充計画」で基準排水量8,500トンの軽巡洋艦を4隻を建造することとし、諸外国や 国内においても最上型は「軽巡洋艦」として公式発表されている。 先の条件に合うよう主砲は軽巡洋艦の制限いっぱいの口径15. 5cmとしているが実質排水量は1万トン以上あり、条約失効後に20. 3cm連装砲に換装が可能なぐらい余裕があり、15. 5cm砲でも不自然な砲架に見えぬよう3連装主砲を新たに開発し搭載している。 ちなみに最上型の原案である「C37」計画では高雄型に匹敵する大型の艦橋が計画されていたが竣工時には非常にコンパクトな艦橋となっている。 また、居住性が軽視されがちであった帝国海軍戦闘艦艇であるが、本型では初めてハンモックではなく三段式鉄製ベッドが全面採用された。 建造 [ ] 昭和6年 に1番艦が起工、2番艦も同年起工された。 しかし最上進水直前の 昭和9年 にが発生し復元力不足が判明、改装工事が施された。 建造開始前後の3、4番艦、 は船体を改設計、線図を改めた上で工事が開始された。 また 昭和10年 に最上は完成前公試を実施したが溶接を多用した船体のひずみから砲塔旋回の困難や溶接部からの浸水などの問題が出て改正工事をしている。 更に竣工直後に参加した昭和10年度艦隊大演習では台風による波浪により各艦に被害が続出、日本海軍所属の多くの艦艇に船体強度の不足が露呈した()。 最上型各艦も船体強度強化の工事がなされた。 それらの工事が完了し最上型4艦が艦隊にそろったのは計画より2年遅い昭和13年度になってからだった。 鈴谷型 [ ] 最上型3番艦鈴谷、4番艦熊野は上記の通り船体線図が改正され、前期2艦の最上、三隈とは船体形状に違いが生じた。 そこで後期2艦は鈴谷型と分類されることもある。 また前期2艦のボイラーは重油専焼罐大型8基小型2基の計10基であったが鈴谷型では重油専焼罐大型8基に変更されている。 このため前期2艦には第3砲塔と艦橋構造物の間に大型の吸気トランクが設けられたが、鈴谷型にはそれがない。 一番煙突も鈴谷型ではボイラー減少の分だけ径が細くなっている。 主砲 [ ] 主砲塔換装後の最上型の武装・装甲配置を示した図 上述の通り、の規定に基づき、保有枠のまだある軽巡洋艦の扱いで建造するため、15. 5cm3連装砲を採用した。 基準排水量8,500トンも保有枠に基づいての要求仕様であるが、15. 5cm3連装砲は重巡洋艦の20. 3cm連装砲よりも重量が大きいため、当初から無理のある要求であり、排水量は大幅に超過した。 前級までの重巡洋艦は2番砲塔を背負い式として高所に配置したが、本型では3番砲塔を高所に配置している。 2番砲塔を高所に配置すれば前部の3基の砲塔を近接して配置できるために全体重量を節約できるが、3番砲塔が2番砲塔と艦橋にはさまれる形となり、射角が非常に小さくなってしまう。 本型のような配置だと1番砲塔と2番砲塔の間隔が開いてしまうが、15. 5cm砲は20. 3cm砲より砲身が短いため、さほど間隔を広げなくても済んだ。 また15. 5cm三連装砲は、砲弾一発あたりの威力では劣るものの、単位時間あたりの投射砲弾重量では20. 3cm連装砲より勝っており、用兵側の評判が極めて良かった。 、ロンドン軍縮条約は 昭和11年 いっぱいで失効し、軍縮時代は幕を下ろした。 最上型各艦は当初の予定通り主砲を20. 3cm連装砲に換装する工事を 昭和14年 から 昭和15年 にかけて実施した。 この主砲換装の事実は秘匿され、米軍がそれを知ったのはの時だったと言われているが、実際にはその直前にこの事実を知った。 この改装で砲身が長くなったために2番砲は先端が1番砲塔に重なってしまい、仰角をかけないと前方を指向できなくなった。 ちなみにアメリカ海軍は、本型に対抗してを建造しているが、主砲の換装は行っていない。 また「」も諸外国への通告段階では15. 5cm砲搭載案だったが 、条約の失効により最初から20. 3cm砲搭載巡洋艦として建造された。 戦歴 [ ] 本型4隻はを形成し、 開戦当初はを支援した。 にも従事し、日本軍緒戦の勝利に貢献している。 (昭和17年)3月1日のではとは共同して米重巡洋艦豪軽巡洋艦を撃沈する活躍を見せた。 また作戦でも数隻の商船を撃沈している。 では4隻そろって参加している。 でも4隻そろって参加したが、から退避中に最上と三隈が衝突し、最上は艦首を失う。 その後の空襲で最上大破、三隈沈没という被害を受けた。 三隈は日本重巡洋艦初の喪失であった。 最上は損傷修理の際に後部砲塔を撤去し飛行甲板を延長、水偵11機搭載可能な航空巡洋艦となった。 熊野と鈴谷はインド洋での作戦に従事する予定であったが、米軍の上陸によって急遽ソロモン諸島に進出する。 、、、と相次いで大海戦に参加した。 その後、鈴谷と最上は1943年11月ので損害を受ける。 1944年6月のでは最上、鈴谷、 熊野の3隻共に参加。 熊野搭載機が敵機動部隊を発見している。 では最上は西村艦隊に所属しに参加したが敵砲撃により大破、さらに退避中の空襲により航行不能となったため自沈処分された。 栗田艦隊に所属した鈴谷はで米軍機の攻撃により火災発生、搭載魚雷が誘爆し沈没した。 同じで 熊野は艦首に敵魚雷が命中、速度低下のため単艦経由に向け退避した。 途中度重なる空襲で被害が出たがマニラ到着、応急修理を実施。 本格修理のため日本へ向け出港したが米潜水艦の魚雷命中、航行不能。 またも応急修理で航行可能となったが 昭和19年 11月25日、サンタクルーズ湾において米空母機の空襲により転覆沈没、帰国はかなわなかった。 熊野を最後に最上型は全て戦没した。 同型艦 [ ]• - - - 防空巡洋艦への改装計画 [ ] 鈴谷の建造計画時、最上と三隈の2艦をへ改装する計画がもちあがった。 改装の内容については断片的な情報しか無く、試案の図面すら残されていないが、の記述によれば主砲塔を一部又は全て撤去し、12. 7cm連装高角砲を主とした装備案が検討されたという。 それ以外にも、の影響で鈴谷型を改設計する際、鈴谷と熊野をに改装する計画 や、最上型全てをへ改装する計画 があったとされる記述も存在している。 脚注 [ ] []• 昭和10年1月30日付 海軍内令 第29号改正、海軍定員令「第50表ノ2 二等巡洋艦定員表 其ノ5」。 この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。 昭和12年4月23日付 海軍内令 第169号改正(昭和12年6月1日施行)、海軍定員令「第48表 二等巡洋艦定員表 其ノ4」。 この数字は飛行科要員を含み特修兵を含まない。 「昭和9年度海軍予算査定資料」p. 「第3501号 6. 27 最上」p. 「2 帝国海軍造艦術進歩の現状」p. 「第171号の13 10. 18 筑摩」p. 『日本巡洋艦物語』p. 260及びp. 341• 『未完成艦名鑑 1906~45』p. 108• 『日本駆逐艦物語』p. 218 参考文献 [ ]• 防衛省防衛研究所• Ref. A09050137200「昭和9年度海軍予算査定資料」• Ref. C05034593300「2 帝国海軍造艦術進歩の現状」• Ref. C05110623200「第3501号 6. 27 最上」• Ref. C05110629200「第171号の8 10. 17 最上」• Ref. C05110629200「第171号の9 10. 5 三隈」• Ref. C05110626300「第171号の13 10. 18 筑摩」• 雨倉孝之「最上型巡洋艦その戦いと最後」『最上型重巡』、学習研究社、2002年。 岡田幸和「最上型の誕生と変遷」『最上型重巡』、学習研究社、2002年。 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争続篇』、光人社、1984年、。 多賀一史「最上の原案、C37新巡洋艦一般艤装大体図」『最上型重巡』、学習研究社、2002年。 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)• 福井静夫『福井静夫著作集 第四巻 日本巡洋艦物語』(光人社、1992年)• 福井静夫『福井静夫著作集 第五巻 日本駆逐艦物語』(光人社新装版、2008年)• パイロンズオフィス『未完成艦名鑑 1906~45』(光栄、1998年) 外部リンク [ ]• ウィキメディア・コモンズには、 に関するカテゴリがあります。

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