菊の御紋ニュース。 日の丸にX(バツ)をつけ、菊の御紋にヒビを入れる。反天連のチラシに思う

皇室の菊のご紋は、勝手に使用して良いのですか?

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旧海軍で軍艦に使用した天皇家の家紋「菊の御紋」のヘッドマークが三重県尾鷲市北浦町の曹洞宗金剛寺に保管されていることが13日、わかった。 終戦直前の昭和20年7月に尾鷲湾で座礁した日本初の潜水母艦「駒橋」のヘッドマークで軍艦に使われ現存しているのは7例目となる。 戦中に取り外された唯一の紋章で敗戦直後に兵器や軍関係資料が廃棄される中、敗戦の荒波を乗り越え生き続けた。 ヘッドマークは木製で長さ76センチ、幅50センチ、厚さ10センチの楕円形。 16枚の花弁が彫られ全体が金箔で覆われ輝きは失っていなかった。 船首部分にあわせ中心線から左右に折り曲げられていた。 駒橋は20年7月28日に米艦載機の攻撃を受け座礁。 紋章は翌29日に軍関係者が取り外し、敬意を表すため仏像もまつる山門の2階に安置し人目を避けてきた。 戦後50年の節目に法要した平成5年に本堂に移し、公開している。 寺の鬼頭宗弘住職(50)は「当時、寺は軍の宿舎なので避難させて最後まで護(まも)ろうとしたのでは」と話している。 水兵がリヤカーで紋章を運ぶのを偶然目撃した同市中井町の山西敏徳さん(81)は「国民学校にあったご紋章と同じで、子供心に畏れ多いものを見てしまったと驚いた」と振り返った。 駒橋は大正3年に完成、潜水艦隊に洋上から指揮、命令や補給をする旗艦として活躍。 全長約64メートル、全幅約10メートル。 昭和19年に尾鷲を基地とした対潜水艦掃討部隊の旗艦だった。 広島県呉市では終戦直後の20年8月末、軍艦の進駐軍引き渡し直前に呉海軍工廠が、紋章に対し不敬な扱いを受けることを恐れ、戦艦「榛名」など多くのヘッドマークを焼却したとされる。 戦艦の紋章は現在6例あり、同県江田島市の海上自衛隊第一術科学校で戦艦「陸奥」の紋章などが公開している。 大和ミュージアム(呉市)の戸高一成館長は「戦後ほとんど焼却された中で残っていたことは極めて珍しい」と話している。 紋章は皇室関係の旗や調度品だけでなく戦前は権威の象徴として軍艦や銃などにも使用。 ぞんざいに扱うと不敬罪(旧刑法)に問われ、罰せられた。

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菊の紋章は商標登録をされていますか?

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菊紋の由来とは 日本には、古くから「野菊」という菊の花がありました。 これは小さくて可憐な花ではありましたが、人目を惹くような圧倒的な華やかさを持つ花ではなく、それゆえに注目されることもありませんでした。 ところが、仁徳天皇(16代天皇)の時代に、中国から「これまでとは全く違う形の菊」が入ってきます。 大きくて華やかな花を咲かせる菊は、その美しさからたちまち当時の人々を虜にしました。 この菊が貴族たちの間で愛でられるようになり、そこから菊紋が生まれたと言われています。 天皇家でも行事の中に菊の花を使ったものを取り入れるなど、菊との関りは深くなっていきました。 天皇家の御紋として菊の花が正式に採用されたのは、平安時代に入って後鳥羽上皇の代になってからです。 とりわけ菊の花を愛した後鳥羽上皇は、天皇家の調度品などに菊の紋を使用するようになり、そこから天皇家の御紋として使用されるようになりました。 ちなみに、天皇家にはもうひとつ「日月紋」と呼ばれる紋があり、こちらは幕末に使用された「錦の御旗」で有名な紋です。 武将に下賜されることで広まった菊紋 天皇家が使用していた菊紋ですが、戦国時代になると「戦果を挙げた武将への褒賞として下賜される」ということが行われるようになりました。 例えば、将軍となった足利尊氏は当時の後醍醐天皇から菊紋を下賜されています。 また、豊臣秀吉も後陽成天皇から菊紋を下賜されており、大層喜んで調度品などに使用していたと言われています。 当時、天皇は神様と同等ともいえる存在。 その天皇から家紋を下賜されるということは、武将たちにとって何にも代えがたい誉でした。 それだけに、勝手に真似をして菊紋を使用した人物がいる一方で、「恐れ多い」と辞退した人もいたほどです。 菊紋の存在は、それほど大きなものだったのです。 「菊紋」の種類!どんなものがあるのかを解説 菊花紋章 菊紋にはたくさんの種類がありますが、天皇家が使用している家紋は「菊花紋章」と呼ばれるものです。 「菊花紋」と呼ばれることもあります。 1869年より、正式にこの紋が天皇の家紋として使用されることになりました。 ここで注意したいのは、たとえ天皇家の血族であっても「宮家」は別に家紋があり、菊花紋章を使うことはできない、ということです。 この「菊花紋章」は、以下の旗にも使用されています ・天皇旗 ・摂政旗 ・皇太子旗 ・皇后旗、皇太后旗 ・皇太子旗、皇太孫旗 ・皇太子妃旗、皇太子孫妃旗 これを見る限り、次期天皇となる皇太子(東宮)も、菊花紋章を使用することができるようですね。 秋篠宮紋(菊栂) 今上(現在の天皇陛下)の次男であり、現時点で皇位継承権二位の秋篠宮文仁親王が使用している家紋です。 「秋篠宮紋」「菊栂紋」と呼ばれています。 秋篠宮家は、文仁親王が紀子さまと結婚されてからできた宮家です。 この家紋の成り立ちについては解りませんが、「栂」は松科の植物で、成長すると30メートル以上にもなるとか。 どのような由来があるのか、聞いてみたいですね。 十六菊(十六一重表菊) 日本のパスポートの表紙に描かれていることで有名なのが、「十六菊」。 天皇陛下が使用している「菊花紋章」とは少しデザインが異なります。 やはり、日本を象徴する紋として菊紋が採用されているようですね。 菊水 菊の花が、まるで川の流れに身を任せながらゆっくりと流れている様な、そんな美しい家紋が「菊水」です。 この「菊水」は、後醍醐天皇が楠木正成という武将に下賜した家紋です。 「菊水」は、天皇から家紋を下賜された楠木正成が、あまりに恐れ多いからと半分を水にしたことで生まれたと言われています。 当時、政治は鎌倉幕府を中心に行われており、都にいる天皇や武将たちはよく思われていませんでした。 その状況を見た後醍醐天皇は、自分たちが政治を取り仕切りたいと考え、倒幕を考えます。 これに楠木正成も賛同するのですが、計画はバレて後醍醐天皇は島流しになってしまいました。 それでも正成は後醍醐天皇の意思を全うしようと、足利尊氏らと協力してとうとう倒幕を果たします。 ところが、島流しから戻った後醍醐天皇は、天皇や公家たちに有利な政治をしようとしたために、尊氏たちは反発。 もちろん正成も後醍醐天皇に「武士たちのことも考えてほしい」と言いますが、聞いてもらえませんでした。 それでも正成は後醍醐天皇を支える道を選び、800人の軍で20万の尊氏の軍と激突、。 自害でこの世を去ります。 この直前に、正成は息子に菊水の家紋が入った短刀を渡したと言われています。 この「菊水」という家紋は、正成の後醍醐天皇に対する忠誠の証なのです。 南州菊 菊の花を、二つの葉が抱きしめている様な家紋「南洲菊」。 これは、西郷隆盛が明治天皇から下賜された家紋です。 この時代には、すでに菊紋は天皇家の紋とされ他での使用は制限されていましたが、西郷隆盛の働きを認めた明治天皇は、この家紋を西郷に下賜しています。 ですが、あまりに恐れ多いものであるためか、隆盛が亡くなったあとの西郷家では「南洲菊は隆盛のみのもの」とし、もとの「三つ葉菊」という家紋を使用しているそうです。 菊紋を使用した武将・著名人 武将 足利尊氏 室町幕府を開いたことで知られる足利尊氏ですが、後醍醐天皇に菊紋を下賜されています。 豊臣秀吉 豊臣秀吉と言えば「五七の桐」の家紋が非常に有名なのですが、天皇より菊紋も下賜されたと言われています。 秀吉はそれをとても喜び、調度品などに菊紋を入れていたとか。 その他 西郷隆盛 西郷隆盛は、明治天皇より「南洲菊」という家紋を下賜されました。 しかし、この家紋を使用する前には「三つ葉菊」という西郷家に伝わる家紋を使っています。 木戸孝允 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれている木戸孝允は「丸に三つ星紋」を使用。 夏目漱石 「吾輩は猫である」「こころ」「ぼっちゃん」などを執筆した文豪・夏目漱石も菊紋を使用していました。 漱石が使用していたのは「菊菱紋」という家紋です。

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菊の御紋の由来を解説!天皇の御紋として使わる家紋は戦国武将使っていた!?

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旧海軍で軍艦に使用した天皇家の家紋「菊の御紋」のヘッドマークが三重県尾鷲市北浦町の曹洞宗金剛寺に保管されていることが13日、わかった。 終戦直前の昭和20年7月に尾鷲湾で座礁した日本初の潜水母艦「駒橋」のヘッドマークで軍艦に使われ現存しているのは7例目となる。 戦中に取り外された唯一の紋章で敗戦直後に兵器や軍関係資料が廃棄される中、敗戦の荒波を乗り越え生き続けた。 ヘッドマークは木製で長さ76センチ、幅50センチ、厚さ10センチの楕円形。 16枚の花弁が彫られ全体が金箔で覆われ輝きは失っていなかった。 船首部分にあわせ中心線から左右に折り曲げられていた。 駒橋は20年7月28日に米艦載機の攻撃を受け座礁。 紋章は翌29日に軍関係者が取り外し、敬意を表すため仏像もまつる山門の2階に安置し人目を避けてきた。 戦後50年の節目に法要した平成5年に本堂に移し、公開している。 寺の鬼頭宗弘住職(50)は「当時、寺は軍の宿舎なので避難させて最後まで護(まも)ろうとしたのでは」と話している。 水兵がリヤカーで紋章を運ぶのを偶然目撃した同市中井町の山西敏徳さん(81)は「国民学校にあったご紋章と同じで、子供心に畏れ多いものを見てしまったと驚いた」と振り返った。 駒橋は大正3年に完成、潜水艦隊に洋上から指揮、命令や補給をする旗艦として活躍。 全長約64メートル、全幅約10メートル。 昭和19年に尾鷲を基地とした対潜水艦掃討部隊の旗艦だった。 広島県呉市では終戦直後の20年8月末、軍艦の進駐軍引き渡し直前に呉海軍工廠が、紋章に対し不敬な扱いを受けることを恐れ、戦艦「榛名」など多くのヘッドマークを焼却したとされる。 戦艦の紋章は現在6例あり、同県江田島市の海上自衛隊第一術科学校で戦艦「陸奥」の紋章などが公開している。 大和ミュージアム(呉市)の戸高一成館長は「戦後ほとんど焼却された中で残っていたことは極めて珍しい」と話している。 紋章は皇室関係の旗や調度品だけでなく戦前は権威の象徴として軍艦や銃などにも使用。 ぞんざいに扱うと不敬罪(旧刑法)に問われ、罰せられた。

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