いずれ アヤメ か カキツバタ。 何れ菖蒲か杜若、見分けるポイントは?! [ガーデニング・園芸] All About

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いずれ アヤメ か カキツバタ

カキツバタとは• 基本情報• 特徴 カキツバタは水辺の修景には欠かせない花で、古くから『万葉集』など歌にも詠まれ親しまれています。 名前の由来は「書き付け花」で、衣服を染めるのに利用されたことによります。 50ほどの園芸品種があり、のように外花被が3枚の三英花(さんえいか)と外花被が6枚の六英花(ろくえいか)があります。 弁幅は比較的狭く、先がとがっていて野性味が感じられ、葉幅は広く葉脈は目立ちません。 よく似た花で湿地を好むものにヒオウギアヤメがあり、こちらは花に網目模様が入ります。 なお、漢字で「杜若」と書いてカキツバタと呼ばれますが、本来「杜若」はアオノクマタケランを指すものです。 「いずれアヤメかカキツバタ」といわれるように、優劣がつけがたく区別しにくいもののたとえとして引用されますが、は陸生で、一般の草花と同様、水はけのよいところで育ち、一方のカキツバタは水生で、池や沼地など常に水のあるところを好みます。 基本データ 園芸分類 草花,水生植物 形態 多年草 原産地 日本、朝鮮半島~東シベリア 草丈/樹高 50~80cm 開花期 5月~6月中旬(秋に咲くものもある) 花色 青,紫,白,複色 栽培難易度 1~5 耐寒性 強い 耐暑性 強い(水は必要) 特性・用途 落葉性,耐寒性が強い.

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[アヤメ、カキツバタ、ハナショウブ]いずれアヤメかカキ...

いずれ アヤメ か カキツバタ

菖蒲の特徴 花菖蒲 ショウブ の花は大輪で、紫以外にも白や黄色などの花を咲かせます。 いずれも花弁の根元の部分に黄色くて丸い斑点のような模様が付いているという特徴があります。 花菖蒲の背丈は80cm~100cmです。 ショウブは水気の多い畑地でも栽培が可能ですが、一般的に菖蒲池で栽培されていることが多いです。 そのため、公園の池で咲いているものはほとんどがショウブです。 湿地帯または畑地に生えていて、背丈が1m近くになること、花弁の根元に黄色い斑点が付いていればショウブです。 アヤメの特徴 アヤメは畑地で紫色の花を咲かせ、湿地帯では生えません。 ショウブも畑地でも栽培が可能ですが、池などで人工的に栽培される場合が多いです。 これに対してアヤメは乾いた畑地などで野生に生えている場合がほとんどです。 公園などの池で観賞用に栽培されることが多いショウブに対して、アヤメは野生で自生している場合が多いです。 アヤメの特徴ですが、花は小輪で、花弁の根元の部分に網目状の模様があります。 アヤメは背丈が低く、30cm~60cm程度です。 花期は、5月。 カキツバタの特徴 カキツバタは水辺などの湿地帯で花を咲かせ、畑地には生えていません。 必ず池などの水辺に生えています。 そのため、水辺で花を咲かせていたらカキツバタかショウブのどちらかです。 一見するとショウブとよく似ていますが、カキツバタの花は中輪で花の根元に白い斑点模様があるという特徴があります。 全体の背丈は50cm~70cmで、ショウブよりも低いです。 花の色は紫系統が多く、花弁の模様はショウブのように多くの種類はありません。 花期は、5~6月。 菖蒲・アヤメ・カキツバタの違いと見分け方 ショウブ 花菖蒲 ・アヤメ・カキツバタを見分ける簡単な方法は、花の模様を見ることです。 花びらの根元に黄色い斑点が付いていればショウブ、白い斑点が付いていたらカキツバタ、網目状の模様があればアヤメです。 花を咲かせていない場合には、生えている場所と大きさで見分けることができます。 畑地で生えていたらアヤメかショウブのどちらかです。 アヤメは最大でも60cm程度と小さく、ショウブは1m近くになるので、背丈の違いで見分けることができます。 池などの水辺で生えていたらショウブかカキツバタのいずれかで、背丈が大きい方がショウブです。 花期は、5月、10月。

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いずれアヤメかカキツバタ

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平安時代の武士・源頼政は、怪鳥を退治した手柄により、上皇から「あやめ」という女性を賜わることになりました。 頼政が昔から 噂 ( うわさ )に聞いて憧れていた女性です。 ところが、上皇は、後宮の美女をおおぜい集め、その中からあやめを選べと言います。 そんなの、分かるわけがない。 そこで頼政は、上皇に和歌を奏上しました。 「 五月雨 ( さみだれ )に沢辺の 真薦 ( まこも )水越えていづれあやめと引きぞわづらふ」 梅雨で沢の水量が増し、マコモもアヤメも水没してしまった。 どれがアヤメの葉か、引き抜くのに悩んでしまう、という歌。 「太平記」に出てくるエピソードです。 「アヤメ」と言えば紫の花を思い浮かべます。 ところが、当時「アヤメ」は、今で言うショウブの異名でした。 端午の節句にお風呂に入れる、あの香りのいい草のことです。 花は穂の形で、いたって地味。 ということは、「太平記」のあやめ御前は、花ではなく、しなやかな葉の姿や、香りのよさをイメージして名付けられたのです。 頼政の歌を踏まえて、後の時代、「いずれアヤメかカキツバタ」という表現も生まれました。 こちらの「アヤメ」は、今のアヤメの花のことです。 アヤメとカキツバタは花がよく似ているため、美人が多く集まっている場面で、「どの人も優劣がなく、みな美しい」という形容として使います。 アヤメ・カキツバタの花は、本当に区別が大変です。 いったい、どこに注意すればいいのでしょうか。 分かりやすいのは、花びらの模様の違いです。 アヤメの花びらの付け根には、独特の模様があります。 「網目模様」「 虎斑 ( とらふ )」などと表現されます。 網目と言われてもピンと来ませんが、実際に見ると、アゲハチョウの羽根の模様に似た網目模様がついてます。 カキツバタのほうは、花びらの付け根から白い線が出ているだけ。 模様というほどでもありません。 とすると、「アヤメ」の語源は、この網目模様ではないか、という考えが湧きいてきます。 模様のことを「 文目 ( あやめ )」と言うからです。 でも、実際は違います。 さっき述べたように、「アヤメ」は昔はショウブの異名でした。 ショウブに模様はないので、この説は即刻却下、ということになります。 今のアヤメのことは、昔は「ハナアヤメ」と呼んで区別していました。 江戸時代の事典にも、「葉が直立して、文目(=筋目)が正しい草なので、アヤメと言うのだ」と、「文目」説を紹介しているものがあります。 これも私の説と同じで、根拠に乏しいものです。 一方、同じく江戸時代の国語辞典『 和訓栞 ( わくんのしおり )』によれば、古書『 貞観 ( じょうがん )儀式』に「 漢女草 ( あやめぐさ )」という草の名があるそうです。 これはショウブのことと考えられます。 中国大陸から渡ってきた織女のことを「漢女」と書いて「アヤメ」と言ったのは事実です。 ショウブをこの女性たちの姿に喩えたということは、大いにありえます。 冒頭の「太平記」のエピソードとも通じます。 『暮らしの中の語源辞典』で、山口 佳紀 ( よしのり )さんは、奈良時代の発音に注目しています。 当時、植物および織女の「アヤメ」は、両方とも同じように発音されました。 それに対し、模様の「アヤメ」は、メの発音が微妙に違っていました。 したがって、発音の面からも「文目」の意味は否定されるわけです。 中国から来た織女、「漢女」の意味と考えるのが、より妥当ということになります。 「カキツバタ」の語源はどうでしょうか。 私にとって自然に感じられるのは、江戸時代の新井白石が語源辞書『東雅』で述べた説です。 「カキツバタ」は、古く「カキツハタ」で、「万葉集」では「垣津旗」「垣津幡」などと書かれています。 白石はこれを基に、「垣の下に立って咲いているところからそう言うのだろう」と記しています。 つまり、「垣の旗」という意味です。 昔はカキツバタの花で着物を染めたので、「 掻 ( か )きつけ 花 ( ばな )」からという説もあります。 今の国語辞典でもこれに従うものもあります。 たしかに、「万葉集」には〈かきつはた衣に 摺 ( す )りつけ〉と、着物にすりつける描写が出てきます。 ただ、「かきつけばな」から「かきつばた」に変化するのは自然ではなく、危うい説というべきです。 アヤメとカキツバタについて考えてきましたが、このふたつに似た花で、日本でより一般的に見られるのは、ハナショウブです。 『日本大百科全書』の「アヤメ」の項目で、吉江清朗さんは〈アヤメ園とかアヤメ祭りというのはすべてハナショウブが材料となっており、誤解のもととなっている〉と書いています。 日常生活では、「アヤメ」は大雑把にハナショウブも含むのです。 このハナショウブは、花びらの付け根に黄色い部分があること、それから、葉の中央に筋が通っていることが特徴です。 5月のある日、私は公園の中の、ハナショウブを集めたというエリアで花を見ていました。 その花はアヤメよりも大ぶりで、たしかにハナショウブに似ていました。 ところが、特徴であるはずの、葉の中央の筋がありませんでした。 これはいったい何だろう。 どうしても分からないので、ツイッターで疑問をつぶやいてみました。 すると間もなく、「外国種のアイリスではないですか」というご教示をいただきました。 アヤメに似ているのはカキツバタやハナショウブだけでなく、アイリスもそうだったんですね。 ちなみに、英語では全て「iris」であり、悩みは生じないようです。 とは 何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。 「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。 わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。 わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

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