船木健 今日好き。 5/5 エル・サムライ×元井美貴トークライブ

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船木健 今日好き

その追記分だけをまとめたのがこのページで、同時にアップします。 9月3日以降にこのウェブ・サイトを初めてご覧になった方は、このページを読む必要はありません。 第1章 リアルワン ( P33) 観客を興奮させることのできないレスラーがメインイベンターになれるはずもない。 カール・ゴッチは、短期間の例外を除いて前座レスラーの域を出ず、当然ギャランティもわずかなものだった。 渡米初年の 1959年には既にメインエベンターになっている。 Cardboard Clubhouse Wednesday, April 12, 2017 And In This Corner … こちらのページ(中程)で、 1959年シンシナティ・ミュージック・ホールにおけるプロレス興行の新聞広告の切り抜きが紹介されている。 上が 12月12日、メインはカロル・クラウザー(ゴッチ)対ルフィ・シルバースタイン。 下は 11月28日、メインはルー・テーズ対カロル・クラウザーのインターナショナル選手権。 これが恐らくテーズとゴッチの初対決。 これらの大会については、 WrestlingData. com に記録がある。 背中の怪我の後、数週間ドイツで養生していた由。 ただし帰米前には欧州で試合をしたとも。 プログラムによれば、この日はメインでスウィート・ダディ・シキと組み、ジョニー・バレンド、マグニフィセント・モーリス組と対戦している。 下って 1967年は、ロサンゼルス地区のWWAでマイク・デビアスと組んでタッグ王者だった。 セス・ハンソンさんがTwitterで当時の新聞広告や記事を紹介している。 50th state BIG TIME Wrestling エド・フランシスがプロモートした黄金期のハワイのプロレスを紹介するサイト。 1968年2月7日、ゴッチはメインイベントでケン・ホリス、ロッキー・ハンターと組んでジョニー・バレンド、リッパー・コリンズ、カーチス・イヤウケア組と対戦。 1969年6月11日。 ゴッチは前座で金剛山(日本人ギミックのハワイアンらしい)と闘った後、負傷したドリー・ディクソンの代打でメインにも出場。 ニック・ボックウィンクル、ペドロ・モラレスと組んで、イヤウケア、ゴリラ・モンスーン、ロッキー・モンテロ組と対戦。 日本プロレスでのコーチ業を終えて帰米後はハワイで専ら軽い試合に出ていたようだが、いざとなればこのようにスター選手を左右に従えての堂々のメインエベンター振りが写真にも見て取れる。 ( P35〜36) その後、ゴッチは 6年ぶりにアメリカのリングに復帰した。 上がったリングは意外にもニューヨークのWWWF(のちのWWE)。 ピエール・レマリンとフランス風に名前を変えたゴッチは、レネ・グレイとタッグを組み、短期間だがチャンピオンベルトも巻いた。 ゴッチの WWWF入りは1971年。 「 6年ぶりにアメリカのリングに復帰 」とは一体どういう計算なのか。 前述のようにハワイ・マットには 1969年まで上がっているし、北米大陸に限っても1967年はWWAのタッグ王者。 細かいことはどうでもいい、と考えているなら、初めから「久々に復帰」とでも書いておけばいい。 「ピエール・レマリンとフランス風に名前を変えたゴッチは、レネ・グレイとタッグを組み、短期間だがチャンピオンベルトも巻いた。 」との記述も正しくないようだ。 WWWFでの活動の記録は、探しても「カール・ゴッチ」名のものしか出て来ない。 WWEの公式サイトでも、タッグ王者の系譜にある名前は「カール・ゴッチ」であって「ピエール・レマリン」ではない。 WWE. (後略) 左下隅の記事。 新しい世界タッグ王者、カール・ゴッチとレネ・グレイが登場、と告知。 確かに、当時の日本の月刊誌「プロレス&ボクシング」や「ゴング」に、ゴッチがピエール・レマリン名でピッツバーグやトロントで活動している、との記述がある。 しかし、その両地区の試合記録にゴッチの名もレマリンの名も見つからない。 当時ピッツバーグではジート・モンゴルがプロモーターとなり、ブルーノ・サンマルチノをエースとして WWWFの選手も使いつつも独自に興行を打っていたようだ。 仮にゴッチがレマリン名で出場していたとしても、米国ではピッツバーグ限定だった可能性がある。 サンマルチノは失冠して身軽になっており、ニューヨークはWWWF王者モラレスに任せて地元ピッツバーグを中心に軽めのスケジュールをこなしていたようだ。 Pittsburgh — 1971 ピッツバーグ(ペンシルバニア州)での 1971年の試合記録。 ただしこれで全てかはわからない。 トロントはWWWFとは別のテリトリー。 また、フランス語圏ではなく英語圏。 「ピエール・レマリン」というリングネームは、元々はゴッチが北米に渡った当初( 1959年夏〜秋)、往年のフランス系ベルギー人レスラー、コンスタン・ル・マランの甥としてカナダのフランス語圏モントリオール地区のマットに上がった時に使用したもの(「レマリン」は英語読み。 ゴッチはベルギー人だがフランス系ではないのでこれはギミック)。 ペッパー・ゴメスやボブ・ナーンドルと組んでボルコフ兄弟と闘ったカードでは、メインイベントに出場している。 WrestlingData. comの1971年の記録は、5月まで(国際プロレス)と8月以降(WWWF)の間が空白になっているが、その間にモントリオール地区に昔の名前で出ていたようだ。 第 9章 新生UWF 次のインタビューを読めば、当時の段階で前田の目指していたものがよくわかるのではないだろうか。 前田は既存のプロレスを決して否定していなかった。 「週刊ゴング」 1988年8月11日号 No. 前田 会社でやっている以上は今のプロレス・ファンを魅きつけなきゃいけない部分もあるよね。 でも、このままでは満足できないんだよ。 俺が本当に問題にするのは、プロレスと聞いて、すぐに「八百長だ、ショーだ」っていう人達。 プロである俺達は、そういう人達に対して、どういう答えを出さなきゃいけないかっていう部分でUWFはやっているから。 俺達が自負しているのは、今のプロレスを拒否する人達に対してのプロレス界の切り札であるということですよ。 だから、今のプロレスを応援している人には「ありがとう。 これからも応援して下さい」だけで何も言うことはないの。 「今のプロレスは偽物ですよ。 UWFは本物だから、UWFだけ見て下さい」っていうつもりはサラサラないんですよ。 自分達がやっていきたいのはUWFっていう下地を守っていきながらプロレスを拒否する人達に、どういう風にオトシマエをつけるか。 それが問題なんです。 前田 どんなスタイルも命賭けですよ。 アメリカン・スタイルだって受け身の取り方一つ間違えれば死ぬんですからね。 故意にボディスラムで頭から落とそうとする奴もいてそれで自分の受け身の技術で頭引っ込めて、体回して受け身を取ることもあるんだからシビアですよ。 ただ、ここで考えなきゃいけないのは、今までプロレスを応援してきてくれたファンの中にも、その他大勢のような、プロレスをうとんじる風潮が出てきて、プロレス人気が落ちてきていることね。 ファン自体もプロレスをナメたような見方してるでしょ、ハッキリ言って。 ファンにナメられたら駄目ですよ。 だから、もっと打ち出さないと、攻めていかないと。 業界内のマニアだけを相手にしてるんじゃなくて、プロレスを拒否する人達をターゲットにすることによって、プロレスをうとんじるようになったファンを帰すことができるし、引っ張れるんですよ。 第 10章 分裂 UWF入り前後に船木がどのようなことを考えていたのか、何を悩んだのか。 当時の専門誌紙より引用する。 「週刊ゴング」 1989年4月6日号 No. 250 イギリスの船木優治に緊急インタビュー「俺がUWFを選んだ理由」 <聞き手=本誌・小林和朋> 船木(中略) 俺、昔の社長の試合が大好きなんです。 大木戦とか、ロビンソン戦とか…男の意地と意地をぶつけ合って、お互い胸を出してやり合うような試合が…。 具体的に言うと、UWFスタイルの中に溶け込んでしまったら、船木のレスラーとしての無限の可能性が閉ざされてしまうのではないかという不安の部分だ。 だが、船木はUWFスタイルの問題について、こう語っている。 「いろんな人の話を聞いてると、最近のUWFの試合は旧UWFの試合に比べると、つまらなくなったという声が多いんですよ。 初めのうちは、あまり蹴りも使わず、レスリングで勝負しようと思ってます」 さらに「新日プロで使えなかった骨法の危険な技」や「自分で考えた新型スープレックス」も、どんどん使っていくという。 「週刊ファイト」 1989年4月13日号 船木独白「どうしてもUWFで闘いたい」 道場破りや異種格闘技戦だけでなく、いつもの試合でもサブミッション主体の緊張感あふれる闘いがしたい。 そう思うとやはりUWFだった。 「週刊プロレス」 1989年 緊急増刊 4月29日号 No. 311 ヨーロッパでは雑誌のグラビアでしか見たことのなかった新生UWF。 いったい、船木の目には、どう映ったのだろうか…。 「ひとこと、疲れましたね。 今日は、俺、観客のひとりとして見ましたから、その立場から言わせてもらえれば、疲れました。 俺は(観客を)疲れさせないようにしたいですね。 もちろん、ただ面白ければいいというんじゃなくて楽しませなければいけないと思うんです。 あれでは、女の人とか楽しめないんじゃないかナァ」 「週刊ゴング」 1989年5月4日号 No. 3つとも高田さん絡みの試合ですけど(笑)。 ただ、全体的な印象としては、キックボクシングみたいなイメージが強いですね。 ババババッと蹴ってボーンと倒れるっていうシーンが多いし…。 正直言って俺の理想とするプロレスとは、ちょっと違いますね。 でも、俺と鈴木が入ったことで、試合のスタイルは変わっていくだろうし、必ず違ったカラーの試合を見せます。 それじゃなきゃ、なんのために俺が入ったかわからないでしょ? それと俺、あの試合中のシーンとした重苦しい雰囲気って好きじゃないんです。 お客が真剣に試合を観てるっていうのはわかるけど、グランドの攻防でも常に「頑張れ!」とか声援が飛ぶような試合を俺はやりたいですね。 以前、武道館で藤波さんが剛竜馬と戦った時のようなムードが最高です。 例えば相撲とかボクシングなら、初めて見た人にも分かるでしょ。 土俵から出るか、手や足をついたら負け。 あるいはノックアウトとか判定とか。 船木 それだけプロレスは格闘技として奥が深いんです。 だから、どうしても細かくなるとは思いますが、ファンより先にルールだけがどんどん進んでしまうと、とっつきにくくなるでしょ? 「週刊ゴング」 1989年6月1日号 No. 船木 あと、ドロップキックをどういう形で復活させるか、今考えてるんです。 このままじゃ鈴木に取られちゃうし(笑)。 鈴木も工夫してるけど俺は、もっと華麗に見せたいし、たとえば強烈なスープレックスを決めて相手がフラフラとなった時、自分からロープに飛んでドロップキックをやるとか…。 船木 はい。 よほど相手がグロッギーになってないと、よけられちゃうかもしれないけど…。 でも、ロープに飛んで勢いをつけた方が威力は倍増しますからね。 あと、蹴られてロープ際にきた時、ロープの反動を利用して反撃に出るとか…。 あと、従来のプロレス技でも、やられて痛い技はどんどん使っていきます。 マック・ローシュの試合でもラリアットやボディスラムが出た時、お客さんが沸いてたし、ルールの面で引っかからない範囲で、いろんな技を出していこうと思ってます。 「週刊ファイト」 1990年6月1日号 5・21UWF NKホールの全景 意外!船木バックランドに反則負け! 「何でこうなんですかね。 一生懸命やると絶対に反則になる。 リングに上がった時にはルールが頭の中にあるんです。 でも試合が始まってしまうと、男と男の対決でしょ。 ルールは吹っ飛んでしまう。 リングでカーッと怒るとダメなんですかね。 イヤになってくるな。 オープンルールで試合が出来ないですかね。 窮屈ですよ。 体が大きくなったのに、小さいシャツを着せられているみたい」。 UWF初の反則負けを宣告された船木はガックリ。 肩を落としたまま開口一番、こう言った。 何をどうすればいいのか、UWFのルールに拒否反応がハッキリ出ている。 本紙の目 ルール把握には時間がかかる 消化しきれていないことは確か (前略) 旧UWF時代、ルールは佐山 1人で考案したようなもの。 佐山がどんどんルールを進化させ、その分、他の選手はついていけずにギャップが開いた。 現在のUWFルールは旗揚げからのメンバーが1年間かかって、試合を行いながら築いた。 この4月から参戦した藤原、船木、鈴木らとはギャップがあって当然だ。 試行錯誤を続けながら、ルールを把握した旗揚げメンバーと違い、いきなり現行ルールで闘ったのなら、窮屈に感じるのもムリはない。 これは船木だけでなく、NKホールに詰めかけた観客の大半が同じ感覚を持ったに違いない。 (中略) 次に、船木のマッチメークに関して、もう少し配慮がされていたなら、違った結果が出たかも知れない。 UWFマットデビュー戦は藤原。 共に新生UWF初登場でルールがきちんと頭に入っていない。 バックランドしかりである。 船木の相手が旗揚げ以来のメンバーだったなら、こうもルールでもめることはなかっただろう。 D 歴史は繰り返すっていうけれどホント奇妙なものだ。 今の船木の主張はかつて前田が佐山に対して行っていたのに似ている。 B しかし、旗揚げメンバー同士による試合はルールが支障をきたすってのがないだろ?十分にファンを魅了してきたし、船木も慣れれば本来の力が発揮出来ると思うのだがね。 オレは気が多いから、いろんなスタイルをやりたい。 飛んだり跳ねたりってのもやりたいし、サブミッションもやりたい。 かといってやりたくてもできないし……プロレスラーを続ける限り、永遠に理想のプロレスが完成することはないんじゃないですか。 でないと、オレのプロレスが固まってしまうし……。 とにかく、今はありとあらゆるプロレスが見たい。 プロレスに限らず、タイソンの試合なども見たい。 「週刊ファイト」 1990年4月26日号 船木 鈴木に勝つ 4・15博多追跡 昨年 9・6長野以来、7カ月ぶりにリングに上がった船木は一大決意で対鈴木戦に臨んだ。 トレードマークのハチマキ、カラーショートタイツ、おまけにシューティングシューズさえつけなかった。 「レスリングだけで勝負する」。 この思いは鈴木も同じ。 2人は試合でスパーリングそのものを行ったのだ。 UWFの原点を試合で演じた船木と鈴木。 この試合は彼らにとって一つの実験の場だった。 ケガの欠場から復帰してから味をしめ始めました。 ヨーロッパで想像していたのとは少し違いますが……。 船木 そうですね。 オレは写真でしかUWFを知らなかった。 あの時、思い描いたUWFは今から思うと子供じみています。 メニューページ「 」へ戻る.

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前田日明と高田延彦は不仲なのか? 前田日明の盟友と言えば、 昔からのプロレスファンにとっては、 新日本プロレス時代からUWF時代と、 行動を共にした高田延彦です。 高田延彦と言えば、 現在タレントでテレビでもよく見かけますね。 元プロレスラーで一番芸能界で成功した人という印象を受けますね。 そんな前田日明と高田延彦は、 同じ団体で盟友として活躍していたが、 不仲で今では交流はないそうです。 何故そんな事になったのか。 かつては兄弟の様な間柄だった二人、 UWF時代は、前田、高田、山崎という三本柱で頑張っていましたが、 別々の道を歩みました。 という事で、 今日は前田日明と高田延彦がどうして不仲になったのか? という事をお伝えします。 どうやら、ここが二人の決別のポイントという事になっています。 実は、高田が前田日明に対して言及する事はありませんが、 前田日明は雑誌のインタビューなどで高田について語っています。 出典:goo. 前田日明のインタビュー記事や対談イベントなどを紐解いていきますと、 UWF解散前から、 UWFインターの立ち上げは決まっていた。 (高田のクーデター説) からの、 自分が戦うはずだった ヒクソンとの試合をPRIDEに取られた。 これが決定的となり、 絶縁状態になったと思われます。 UWFの解散が決まってから3つに分かれたというのが認識だったのですが、 前田はそうではないと言っています。 UWFインターの立ち上げにかかわった人に、 前田が話を聞く機会があったのですが、 どうしても時系列で整理していくと、 辻褄が合わないと思っているとの事です。 また、藤原喜明との対談時「人生で一番辛かった事は?」という質問に対して、 前田はUWFの解散をあげていて、 UWFインターの立ち上げのタイミングに言及しています。 (スポンサーリンク) 前田と高田のトラブルの数々 前田はある媒体で、 高田との関係修復について尋ねられた時、こう答えている。 「自分は人間関係で相手がおかしな事をしても、 3回までは我慢する様にしているけど、 高田はそれを軽く超えている、謝罪もない」と。 そして、先ほどの結論で書いた内容を喋っています。 ただし、インタビューにも、 ネット上にも無い事が二人の間にはあったかもしれませんが、 それ以上は分かりません(笑) 色々あった中で決定的になったのは、 これじゃないか?という事で結論とさせていただきました。 (前田談) 当時、前田と高田が所属していたUWFは大人気のプロレス団体だったが、 フロントの不正な経理に不信感を持った前田日明はフロントを批判、 前田は出場停止になり試合が出来なくなる。 前田は新しい団体設立の為に、奔走していた。 高田は、お金を作ったり、団体の立ち上げなどには力が及ばないから、 道場をまとめときますから、 安心して奔走して下さいという意味の事を言った。 しかし、かなり後に、色々関係者に話を聞くと、 その前田が奔走していた時期からUWFインターの設立に高田は動いていて、 UWFインターの会社の登記や旗揚げ戦(後楽園ホール)を押さえるなど、 UWF解散前から動いていないと実質不可能である事を知った。 安生は元前田の付き人。 (高田は安生を批判) UFC-Jの会場で、安生は後ろから前田に近づき、 不意打ちで顎にパンチをくらわせた。 前田はその場に倒れて失神した。 1でヒクソンに高田が敗北、 前田は「どうするんだ?」と高田に聞くと、 高田は先の事はわかりません、 引退するかもしれませんと前田に言っていた。 前田はじゃあ俺がヒクソンとやろうという事で、 前田がヒクソンと試合する為に交渉をし、 殆ど話が決まっていたが、直前でPRIDEが高田との第2戦を発表した。 ヒクソン戦をさらわれた。 前田はPRIDE崩壊時にざまあみろと言った。 などなど、二人には色々因縁がある様です。 話をおさらいすると 1998年(平成10年)に二人は対談しています。 高田がヒクソンに敗れた、 PRIDE. 1が1997年(平成9年)です、 ヒクソン戦の翌年に対談で仲良く話しています。 この時久しぶりに会って直接話した。 対談は終始和やかで、二人は再会を喜んだ。 そして、同じ年の1998年8月に行われた、 山本喧一のジム開きのパーティーにも仲良く出ています。 この時点までは二人の仲は悪くなかったのです。 が、ここから交流が無くなります。 そして、同じ年のPRIDE. 4(10月11日)で高田はヒクソンと再戦しますが、 敗れてしまいます。 なので、仲が悪くなったのは、 1998年の8月以降にUWFインターの立ち上げに不信感を持ち、 そして10月の高田とヒクソンの再戦で決定的になったと思われます。 前田は翌年の1999年2月22日アレクサンダー・カレリンと戦い引退した。 そして同じ年の11月に安生洋二から、 不意打ちのパンチを受ける襲撃を受ける。 という流れになります。 最後に という事で、今日は前田日明と高田延彦について書きましたが、 もう一度この二人のツーショットを見てみたいですね。 我々の世代のプロレス好き、格闘技好きにとって、 前田と高田というのは、まさにカリスマ、ヒーローだったのです。 事実は分かりませんが前田日明は、UWFインター立ち上げは、 UWF解散前から密かに動いていたクーデターだと思っている様です。 この二人が再び手を組めば、 低迷している日本の格闘技の世界も、 また盛り返すんじゃないか? なんて思ってしまいますので仲直りして欲しいですね。 (スポンサーリンク) カテゴリー•

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癒してハロプロ : [船木結]嗚呼~ うちの看板娘が・・・ どんどん オトナに なってしまふ~~

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谷津さんですね! 細田 今日のお客さんからいただいた「質問カード」には、「『1984』で骨法の堀辺正史師範(「日本古来の武術を改良した」と称する「日本武道傳骨法」の創始者。 船木誠勝や獣神サンダーライガーらが師事。 2015年に他界)を取り上げたのはなぜですか」という質問もあるんですが、柳澤さんいかがでしょう? 柳澤 そんな質問まであるんですね。 単純に船木優治が師事していたから、というだけの理由です。 阪上 逆に、田崎さんは長州さんから「この人には当たってほしくない」と言われたりしませんでしたか? 田崎 谷津さんですね(会場爆笑! 注:谷津嘉章、長州力と「維新軍」を結成したが、その後いろんな裏話を暴露したためか、長州は距離を置いている)。 谷津はねえだろ、と言われましたね。 阪上 私が印象に残っているのは、『真説・長州力』のなかで永島のオヤジが出てきて(永島勝司。 元新日本プロレス取締役)、昼間の12時から新橋の居酒屋で酒を飲みながら「長州のことなら俺に聞かなきゃダメだよ」なんて言って、好き放題長州について語るシーンです。 田崎さんは明らかにこの証言を「どうにも信用できないもの」として描いていく。 プロレスの世界を書く上で、「証言の信ぴょう性」をどう判断するか、読者にどう提示するかというのは重要な課題だと思うのですが、田崎さんの場合、人物像に「居酒屋」「昼の12時」といった要素を足すことで、読者に「どうにも胡散臭い人物」という情報を提示する。 それによって、読者が「あ、これは信用できない話かも…?」と受け止めるわけです。 印象操作、といえなくもないですが、ひとつの手法としては面白いなと。 柳澤さんの場合は、「この証言は信用に足る」という判断をどう行っているのか、また、読者にはどう提示しているのでしょうか。 疾風! 柳澤 『1984年のUWF』では選手だけでなく、その周辺にもたくさん話を聞いています。 謝辞に名前を出さない人にも。 さらに、作品を書く前にすべての証言を読み返して、組み合わせた上で「この話は信ぴょう性がある・ない」を判断しています。 すべての証言に100%の確証があるわけではないけれど、多角的に照らし合わせることで、真実に近いパースペクティブが得られると思っています。 田崎 僕も基本的には、信用できると判断した話しか載せません。 では、その取捨選択をどうするか。 その「信用できる・できない」の見抜き方に、プロレスの世界を取材する難しさを感じました。 みんな、自分にとっていいように語りたがるので。 柳澤 フィギュアスケートの採点方法をイメージしてもらえればいいかもしれない。 複数のジャッジがいて、極端に高い点数と低い点数をつけたジャッジの採点を採用しなければ、妥当な点数に落ち着く、ということです。 取材の過程で、自分が信じていたものが覆されることもありますが、取材者のスリルはそこにこそあります。 自分の主張を守るために事実を捻じ曲げることはしません。 そもそも僕には「自分の主張」などない。 小さなファクトを積み重ねて、そこから見えてくる立体像を書いているだけです。 田崎 自分が信じていたことを補強するために、都合の良い証言を集めるというのは、書き手が陥りがちな罠ですよね。 でも、それをやってしまうと、ノンフィクションとは言えなくなる。 …特にプロレスの世界は、面白いんだけど事実とは違うという話の巣窟で、選手から話を聞くと、「この話を使いたい!」という誘惑にかられてしまいます。 その誘惑から逃れるには、とにかく多角的に取材をするしかないんです。 たとえばタイガーマスクには、デビューに際しての「新間証言」というものがあります(新間=新間寿・元新日本プロレス専務取締役)。 イギリスにいる佐山さんを呼び寄せようとしたところ、ビザの不備かなにかで、イギリスの空港で足止めを喰らってしまう。 何とかしなければデビュー戦に間に合わないと焦った新間さんが、時の権力者であった福田赳夫に「なんとかならないか」と連絡したところ、無事に出国ができた…と。 このエピソードについては、新間さんはNHKの「アナザーストーリーズ タイガーマスク伝説」でも語っていました。 これ、とても面白い話なんですが、前述のウェイン・ブリッジに確認したところ「佐山が空港で足止めを喰らった? 佐山を空港に送り届けたのは俺だけど、そんなことはまったくなかったぞ」と証言するんですね。 もちろん、彼が正しいかは分からないけれど、少なくとも新間証言に揺らぎが生じる。 そういうことを積み重ねて、あ、このエピソードに関しては多少疑ってかかったほうがいいかな…と考えていくわけです。 柳澤 面白いエピソードは使いたくなるし、さらに言えばプロレス村の言論空間では「面白ければなんでもいい」というのがまかり通ってきましたからね。 昔、東スポの櫻井康雄さん(2017年4月11日に他界、享年80)が僕にこんなことを言っていました。 「猪木には、余計なことを言わずに黙っておけと俺は言ったんだ。 黙っていれば、こっちで面白いコメントを書いてやるからって」 つまりメディアの人間も、レスラーのフィクションの創作に加担しているということです。 記者もレスラーも、誰が話していようが、信ぴょう性に関しては基本、疑ってかからざるを得ない。 一筋縄ではいかない世界なんです。 冒頭、田崎さんは「地雷」という言葉を使ったけれど、僕らは「この証言は正しいのか、正しくないのか」と悩みながら地雷原を歩いているようなところがある。 田崎 でも、危ないなと思いつつも…つまり、完全に正しいとは言えないんだけれど、踏み込んで書かなければならないときもある。 柳澤 ノンフィクションは100%の真実を求めて書かなきゃいけないんだけれど、ことプロレスというジャンルに関しては…。 田崎 うそつきの巣窟、ですからね。 柳澤 それは僕の言葉じゃないですからね!(会場爆笑).

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