ジンギスカン ど ぅ ー。 【孤独のグルメ】武蔵小杉ジンギスカンどぅーのジンギスカンが食べたい!どこにあるの?

ジンギスカン滝川(博多/ジンギスカン)

ジンギスカン ど ぅ ー

日本軍作戦立案の経緯 二十一号作戦 インドへの侵攻作戦という構想は、が予想外に早く終わった直後から存在した。 インド北東部地方に位置し、から近いインパールは、インドに駐留するの主要拠点であった。 ビルマ-インド間の要衝にあって、他のからへの主要な補給路()であり、ここを攻略すれば軍()を著しく弱体化できると考えられた。 日本のは、「二十一号作戦」と称して東部インドへの侵攻作戦を上申した。 (昭和17年)8月下旬、戦争の早期終結につながることを期待したは、この意見に同調して作戦準備を命じた。 参加兵力はのを主力とする2個弱とされた。 イギリス軍の予想兵力10個師団に対して著しく少ないが、ビルマ戦の経験からはこの戦力比でも勝算があると考えたのである。 しかし、二十一号作戦の主力に予定された第15軍及び第18師団(師団長:中将)はこの計画に反対した。 現地部隊は、雨季の補給の困難を訴えた。 乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえのの困難などが予想されると主張した。 現地部隊の反対に加え、の発生もあったため、同年11月下旬、大本営は二十一号作戦の実施保留を命じた。 ただし、あくまで保留であったため、現地では作戦研究が続行されるべきことになった。 武号作戦 (昭和17年)10月以降、などイギリス軍の反攻作戦が起きるようになった。 (昭和18年)前半には、率いるがして、地形的に防衛側有利と思われた東方のジビュー山系へもイギリス軍の反攻が可能なことが示された。 ウィンゲート旅団は撃退したものの、今後のさらに活発なイギリス軍の反攻作戦が予想された。 日本側では方面の戦況が悪化し、ビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力低下が生じていた。 そこで日本側は防衛体制の刷新を図り、3月に(ビルマ方面軍)を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させた。 この大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口以外の要員の多くが入れ替わったため、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担当)の橋本洋中佐だけとなってしまい、幕僚達が司令官のビルマでの経験に頼らざるを得ない状況となった。 これが司令官の独断専行発生の構造的な要因となり、本作戦失敗の遠因ともなった。 第15軍司令官となった牟田口は、従来の単純な守勢からによるビルマ防衛への方針転換、つまり、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略し、さらにインドのへと進攻するという計画を強く主張するようになった。 かつては攻勢反対論者だった牟田口であったが、ウィンゲート旅団のような反攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断を変えていた。 より西方のチンドウィン川に新たな防衛線を構築することも考えられたが、乾季には障害として不十分であり、彼我兵力比を考えると防衛正面も広すぎるため、むしろインパールを経てアッサム地方まで進攻すれば、連合軍の反攻を封じることができるだけでなく、インドの独立運動を誘発して戦争の早期終結につながるとの期待も持っていた。 名目上も保留中の二十一号作戦を自らの手で行おうというこの構想は、(の発端となった)に関与した牟田口の個人的責任感にも由来するとの見方もある。 牟田口は、まずインドへの侵攻拠点として、防衛線をビルマ領内のチンドウィン川西方ミンタミ山系に進めることを考えた。 イギリス軍の反撃を避けるために、部隊行動が難しくなる雨期入り直前に的に防衛線を進めるべきだと牟田口は主張、これを「武号作戦」と呼称した。 しかし、第15軍参謀長らは、ウィンゲート旅団掃討後の部隊休養・再編が先決であることや、チンドウィン川西方への兵站・支援部隊の駐屯は困難であることなどから、武号作戦に反対した。 まもなく実際に雨季が近付いたため、作戦実行は時期的に不可能となり、作戦案は自然消滅となったが、小畑参謀長の消極意見は牟田口の強い怒りを買った。 また、小畑が軍司令官に直言せず隷下の第18師団長を通じて翻意を促した点は、統率上問題であると田中師団長が進言し、牟田口も同意見で参謀長更迭を決心した。 小畑参謀長は就任後僅か1か月半の5月に、河辺方面軍司令官の承諾を得て罷免された。 ウ号作戦 (昭和18年)5月、なおも攻勢防御案を強く主張する牟田口第15軍司令官は、南方軍司令部での軍司令官会合でもインパール攻略・アッサム侵攻を力説した。 河辺ビルマ方面軍司令官もこれに同調して、インパール攻略とへの防衛線前進を主張したが、牟田口と異なってアッサム侵攻は無謀と見ていた。 会合の結果、南方軍全体としてもアラカン山系への防衛線前進を図る攻勢防御が妥当という点で一致したが、南方軍総参謀副長などはあくまで限定的かつ慎重な作戦を採るべきという方針だった。 この会合での決定に基づいて翌6月にビルマ方面軍司令部で行われたでは、ミンタミ山系への限定前進でも結局はイギリス軍との全面会戦になると予想され、より積極的なインパール攻略のほうが有利との判定が下った。 同席の南方軍・大本営参謀らからも攻勢防御案に異論は出なかったが、第15軍の主張する軍主力がアラカン山系の山岳地帯を一気に越えてインパールを電撃攻略し、さらにはアッサム地方へ進撃するという計画はの点から問題視され、演習に列席した大本営参謀は、「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評し 、またビルマ方面軍参謀長や稲田総参謀副長らは、補給困難を理由にインパール北方のコヒマへの投入兵力を限定して柔軟にインパール攻略を中止・防衛線構築に移行という修正案を提示した。 しかし河辺司令官は、アッサム侵攻という考えには反対するが、「わたしは牟田口中将の心事をよく呑み込んでいる。 最後の断は必要に応じわたし自身が下すからそれまでは方面軍の統帥を乱さない限り、牟田口中将の積極的意欲を十分尊重するように」と述べただけで、うやむやとなった。 しかし、こうした懸念にもかかわらず、8月、大本営陸軍部はインパール攻略作戦の準備命令を下達した。 この時も南方軍は限定攻勢とする修正を指示したが、ビルマ方面軍はこの修正を強く求めず、第15軍では修正指示が事実上無視された。 また、アッサム侵攻はこの作戦案には明示されなかったものの、牟田口はなおも密かに企図していたとされ、この作戦の成否を一層危ういものにしていた。 第15軍参謀の木下大佐は、この際の作戦準備要綱で方面軍が作戦意図を明確に示していれば、牟田口であっても再考せざるを得なかったはずであると回想した。 しかし牟田口司令官は当初のアッサム侵攻構想を含む作戦準備に邁進し、8月末には隷下の各兵団長を司令部に呼び、作戦準備を命じた。 このとき牟田口司令官は、「もともと本作戦は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戦である。 糧は敵によることが本旨である。 」「敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発撃て。 そうすれば敵はすぐに投降する約束ができているのだ。 」と発言し、列席の兵団長は司令官の本心を疑ったという。 本作戦案は、(昭和19年)1月に大本営により、その実施が南方総軍司令官に発令 大陸指令第1776号 されたが、その背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開したいという陸軍上層部の思惑が強く働いていた。 この上層部の思惑を前に、インパール作戦の危険性を指摘する声は次第にかき消されていった。 第15軍内部で作戦に反対していた小畑参謀長が(昭和18年)5月に更迭されたのに続いて、ビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍でインパール作戦実施に強硬に反対していた稲田総参謀副長が、同年10月15日に突然更迭された。 こうして作戦に反対する者が排除される様を目の当たりにする中で、反対者は次第に口を閉ざしていくことになった。 また、インパール作戦の開始前に、支作戦(本作戦の牽制)として()が、1944年2月に中将を師団長とする第55師団により行なわれた。 この支作戦は失敗し、同月26日には師団長が作戦中止を命令していたにもかかわらず、本作戦であるインパール作戦に何ら修正が加えられることはなかった。 連合軍の作戦立案の経緯 連合軍の場合、戦線の戦況を睨みつつ、に向けての反攻をどこで実施するかと言う観点から、多岐にわたる選択肢が議論された。 (昭和17年)3月のの提案により、英米両国は4月にその担当戦域を分割して、の担当は、・およびと決められた。 インド洋・中東での指揮権については、陸海空三軍指揮官の権限は同格扱いであったが、陸軍指揮官が指導的立場にあることは認められた。 その後、戦局の進展に応じて幾つかの計画が立てられては消えていった。 イギリスは日本軍にビルマから駆逐された当初は、ビルマ地域での反攻計画に積極的だったが、やがてヨーロッパ反攻を重視し1943年秋には消極的に変わっていた。 ビルマ作戦 (昭和18年)に構想されたビルマへの反攻作戦には、ANAKIMという呼称が与えられた。 の指導に当たっていたの中将は、この計画に強い関心を持っていた。 1943年5月のに参加したスティルウェルは持論を説き、の作戦本部長も同調したが、スティルウェルが英国側に嫌悪されていたことや、英国首相が必要性を認めなかったこと、身内の米陸軍からも参謀総長が実施不能と否定的見解を示したことでお蔵入りした。 ビルマで攻勢を実施する利点としては、で航空基地を作戦させていた関係上、政治的には魅力のあるものと映り、ルーズベルト大統領の側近には、の際にこの話を蒸し返す者が居たが、そのための兵力を調達しなければならないのはであったので、欧州反攻を重視していたイギリスは反対していた。 東南アジア指揮地域の分離 第1回ケベック会談ではビルマ戦域の指揮権についても議論された。 将来的にはインド指揮地域から切り離して ()を設定し、その範囲をビルマ、、、、を包含することとし、米軍より副最高指揮官 Deputy Supereme Commander を迎え、最高指揮官ととの間に ()を挟むこととなった。 同会談での第2回全体会議の最終報告では下記のように述べられている。 貴官の第一の任務は日本軍に執拗に繰り返し繰り返し接触し挑発し続けて日本軍を疲れさせ、特にその航空戦力を消耗させることだ。 そうして太平洋正面からビルマ正面に日本軍の戦力を吸引することである。 148(による訳。 ) この指令を受け、英印軍にとってビルマ戦域での作戦は支作戦となり、11月以降は最小限の兵力で日本軍を誘出、拘束することが目的となった。 は、日本軍が攻勢をとる為に兵力を増強すればするほど「思うつぼ」だった旨を述べている。 カイロ会談 その後、(昭和18年)11月のでは東南アジア作戦は主要議題とすることが議事日程で予告され、会談の前段としてスマトラ作戦とアンダマン作戦の2つを比較して参加国で検討が行われた。 チャーチル以下、英国側はいずれもこれらの作戦に乗り気ではなかった。 これらの作戦は() 後を予定していたが、OVERLORD後には西部に対する上陸など地中海での作戦を切望していたからである。 OVERLORD後に直ちにこれらの作戦のいずれかでも実施された場合には、地中海での作戦が台無しになると考えたのである。 一方、米国側は英国側の地中海での作戦提案を信用せず、スマトラ作戦、アンダマン作戦のいずれにしても中国に対する連合国の援助の保証として重要性が認められ、これらを断念することは蒋介石政権の弱体化に繋がると考えた。 なお、カイロ会談には中華民国も参加していたので、英米は会談中の討議において中華民国に対しても外交上の配慮が必要であった。 なお、中華民国がこの会談で要求したのは下記の3点である。 ヒマラヤ山脈を越えて実施中の () 月間10000 はビルマ作戦に関係なく継続すること。 TARZAN作戦(下記)は雲南の地上部隊の進撃と呼応する為、を目標とすること。 海軍作戦は陸軍作戦と同調するように開始すること。 スマトラ作戦 スマトラ作戦にはCULVERINというが与えられた。 カイロ会談においては、本作戦は北部スマトラに対する進攻として扱われたが、は11月8日、本作戦に対しては必要な援助を与えることが出来ないから、アンダマン作戦を早期に開始することに同意したが、「ビルマ南部の日本軍を釘付けにするために、更に別個の陸、海、空の作戦を実施することが出来るものと信ずる」とマウントバッテンにこの問題を研究するように勧告した。 アンダマン作戦 アンダマン作戦にはBUCCANEERというコード・ネームが与えられた。 を攻略して方面のを握ることを直接の目的にしている。 本作戦を押していたのは上記のように米国側および中華民国であり、1944年3月に実施できる確固たる保証を欲していた。 しかし、11月8日の米国幕僚長会議による勧告は英国幕僚長会議にとっては英軍が主導する作戦地域への不当干渉と映った。 そのため英国側は、対日戦の主戦略が決定されるまで、東南アジア作戦についての取扱を延期しようと図った。 チンドウィン川渡河作戦 チンドウィン川渡河作戦にはTARZANというコードネームが与えられた。 スマトラ、アンダマンと同時期に計画されたものであり、北部ビルマでの攻勢を企図したもので、を渡って概ね南東に進撃し日本軍を駆逐する。 中華民国側が関心を示した。 しかしカイロ会談にて、マウントバッテンは、• ビルマでの大規模な攻勢作戦を実施すれば中国への空輸には打撃となる。 マンダレーへの進撃は航空機500機の増援を必要とするがその入手には期待出来ない。 という説明をに行っている。 これを受けた蒋介石は選択を迫られ、次のように回答した。 TARZAN作戦の目標についてはインド= ()の線で妥協する。 ビルマ作戦の成功は、陸上での攻勢と同時に実施する海軍の協力如何で決まる。 これに対し、チャーチルは次のように回答し、蒋介石の上陸作戦実施要求を拒絶した。 海軍作戦は必ずしも陸上作戦とは関連しない。 1944年3月までには適当な艦隊をインド洋に準備するが、上陸作戦の確約は出来ない。 しかし、蒋介石にはルーズベルトと言う援護者が居た。 ルーズベルトは「次の2、3ヶ月以内にベンガル湾を越えて」相当規模の上陸作戦を実施する旨を中国側に約束していた。 そのため、翌11月のの際、英国側は追い詰められた。 結局、12月5日の連合幕僚長会議による協同覚書では• 英側提案:BUCCANEER作戦延期• 米側提案:TARZANおよび連接する上陸作戦は政治的にも軍事的にも必要性大 とそれまでの要求が併記されるに至った。 ルーズベルトはBUCCANEERを断念することで対立状況が打開できると決心し、「欧州における作戦のために、ベンガル湾において大作戦を行う余裕がない」ことを名目とした書簡を送り、自身が蒋介石に行った約束を破棄した。 マーシャル、キングはBUCCANEER実施を前提に議論を展開してルーズベルトを補佐してきた為、はルーズベルトの専断的な決定例と説明している。 (昭和19年)1月に米国幕僚長会議はTARZAN作戦自体も渋々取り下げるに至ったが、その頃にはスティルウェルは自身の成功により、米国内での声望を高め、英国側は不利な立場になった。 レド公路の建設計画 その後も議論は僅か数ヶ月の間に紆余曲折を辿った。 後の議論の焦点はスマトラでの作戦に戻った。 マウントバッテンは1944年1月に新戦略を考案し、それはマクシオムと呼称された。 それは(南西太平洋で対日反攻を指揮していた)の援護であり、ビルマでの攻勢ではなく、チャーチルの支持するスマトラ作戦と同じ方向性のもので、ビルマ戦線に集積した軍事的資源を転用する内容だった。 ただし、マウントバッテンはスマトラでの作戦には洋上の艦隊の支援にしか頼ることが出来ないことを理由として、敵陸上戦力の5倍の兵力を要求した。 チャーチルはこの要求は過大であると考え、アメリカが太平洋で実施した島嶼上陸の事例を挙げて反論した。 また、どの作戦を実施するにせよ、に駐留する日本艦隊に主力が加わった場合など、出方次第ではインド洋方面からの攻勢に必要な海軍戦力が大幅に増強を迫られる為、この点もネックになった。 また、米国は(昭和18年)以来、による中国からのの計画に執着しており、援蒋ルートの増強を求め、の建設と作戦用燃料の建設計画を立てた。 これらの建設には毎月26000トンの資材と43000人の人員を必要とした。 インド北東部での準備はインド司令部の後援により1943年11月に開始されたが、本格的な着工には米国の熟練した土木労働者が必要であり、(昭和19年)1月の開始であった。 米軍の求めに応じ、最初の計画では、1944年(昭和19年)11月までにまで一方通行、1945年3月までには両面通行可能なものとするとされ、パイプラインは1944年11月までには完成して、(昭和20年)7月までに全能力を発揮可能なレベルに整備されることになっていた。 しかし、東南アジア作戦の規模が縮小決定されたことと予期しない工事遅延により、昆明までの公路完成の予定は一方通行が(昭和21年)1月、両面通行が(昭和21年)6月とされた。 なお、公路での輸送力は一方通行で毎月8000トン、両面通行で20000-30000トンと見積もられていた。 パイプラインは1946年(昭和21年)4月より送油を開始して、10月に全能力に達するとされ、その量は開始時13000トン、全能力で6万3000トンと見積もられた。 このような遅延があっては実用上の役には立たないため、マウントバッテンは空輸の強化を勧告した。 公路の建設を中止すれば、ビルマ北部の広大な領域を奪回する必要性も無くなるという計算もあった。 評価の修正 米国幕僚長会議はマウントバッテンが1月に提出した新作戦計画によりビルマ北部戦域の優先度が引き下げられることを危惧し、1944年(昭和19年)に、英国幕僚長会議に北部作戦の再開を要求した。 元々ビルマでの攻勢に消極的な英国幕僚長会議は、マウントバッテンの意見があるまで回答を差し控えたが、その回答を要約すると• 既に全兵力をビルマに投入している。 スマトラでの作戦の為の戦力は何も留保していない。 従って米国の目標を達成することは出来ない。 米国幕僚長会議はスティルウェルに引きずられている可能性があるのでマーシャル参謀総長による保証が必要。 というものだった。 なおルーズベルトも米国幕僚長会議同様にの占領要求をチャーチルに打電したが、チャーチルは欧州戦終結前の実施は不可という従来の回答を繰り返した。 1944年3月になると、およびで日本陸軍を撃破したことで、連合国側での日本軍に対する評価は下方修正された。 またこの時点で航空偵察などの情報を総合し、日本軍の目標がインパールであることを察知していた。 その顕著な例は3月21日の米国幕僚長会議決定で、英国側に北部ビルマでの活発な作戦行動を求める内容となっている。 また、太平洋方面で英艦隊の増強が不要となったことも新材料であった。 これらの情勢を勘案し、チャーチルは国内の論争を裁定するための案を出した。 その内容はの増強と東南アジアでの新たな攻勢計画の立案の提示が主であり、英統合計画幕僚委員会は「中間戦略」と称してこの具体化を進めようとした。 オーストラリア====を軸線とし、マッカーサーの全般指揮の下その進撃を支援する内容で1944年7月頃まで議論されたが、実現には至らなかった。 サーズデイ作戦による兵力分散 なお、ウ号作戦が実施されようとしていた直前の3月3日、オットー・ウィンゲートの指揮する6個旅団は2度目のビルマ遠征のため空挺降下(第16旅団のみ陸路)を実施していた。 この目的は、英印軍主力のビルマ進出を支援するものでも、ウ号作戦のため進出して来る敵を包囲する為のものでもなく、日本軍の第18師団、方面の第56師団を孤立させ、レド公路の建設を支援する内容であった。 そのため、 ()の将軍はこの作戦には反対であった。 投入する戦力と航空機を手元に残置しておけばアラカン方面での戦力比は更に圧倒的になるからであった。 準備および戦場の状況 日本軍の状況 5月上旬時点での参加兵力は、第15軍の下記3個師団で計49600人、その他軍直轄部隊など36000人の総兵力約85000人であった。 7月までの総兵力は、約90000人と見られる。 ただ、そのうち主力の一角のは、ビルマへの到着が遅れており、迅速性が要求される本作戦成功の障害となっていた。 これは、本作戦に反対する稲田南方軍総参謀副長が、同師団にタイ方面の道路整備作業などを割り当て、故意にビルマへの前進を妨げた影響であった。 インパール作戦には、イギリス支配下のを支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする軍の後方戦略を撹乱する目的が含まれていたことから、6000人も作戦に投入された。 長距離の遠征作戦では後方からの補給が重要であるところ、当時の第15軍は自動車23個、輜重12個中隊の輜重戦力を持っており、その輸送力は損耗や稼働率の低下を考慮しなかった場合、57000程度であった。 しかしながら実際に必要とされる補給量は第15軍全体において56万トンキロ程度と推計され、到底及ぶものではなかった。 なお、自動車中隊は、当時のビルマ方面軍全体でも30個中隊しかなかった。 この点は第15軍としても先刻承知の上であり、事前に輜重部隊の増援を要求したものの、戦局はそれを許さなかった。 しかも、実際に増援されたのは18個中隊だけにとどまったのである。 第15軍参謀部は作戦を危ぶんだが、牟田口軍司令官はインパール付近の敵補給基地を早期に占領すれば心配なしと考え、作戦準備の推進につとめた。 連合軍の状況 連合軍は第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に、約15万人がこの地域に配備されており、准将のコマンド旅団が、ビルマ地域の日本軍の脆弱な補給線の破壊活動の分析を行い、また、暗号解析などにより1944年2月頃までに日本軍が三方向より侵攻する攻撃計画の全容を把握していた。 そこで第14軍司令官中将など連合軍司令部では、重火器装備を揃えた上で、空輸作戦による補給体制を確立する一方、部隊をインパールまで後退させつつ防御戦闘を行うことで後方兵站部隊の脆弱な日本軍を疲弊させ、その進出限界点()であるインパール平原で一気に反攻に移る作戦を固めていた。 もっとも、ウィンゲート旅団参謀長だったデリク・タラク少将は、上記のインパールまでの後退が第14軍の作戦通りだったとする多数説には懐疑的である。 タラクによれば、1944年2月末時点でも確固たる作戦計画が無かったのが実情だったという。 地理的状況 この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明している。 「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。 インパールをと仮定した場合、コヒマはに該当する。 第31師団は付近から、(2542m)、、(長野の西40km、2890m)、を経て金沢へ、第15師団は付近からの一番高いところ(3180m・2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。 第33師団は付近から前進する距離に相当する。 兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。 後方の兵站基地はインドウ(上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)はに、作戦を指導する軍司令部の所在地はに相当する」。 このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。 まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。 参加兵力 この節のが望まれています。 日本軍 5月上旬時点での参加兵力は、第15軍の下記3個師団で計4万9600人、その他軍直轄部隊など3万6000人の総兵力約8万5000人であった。 7月までの総兵力は、約90000人と見られる。 ()内は。 第15軍(林) - 司令官:、参謀長:• (祭) - 師団長: - 5月時点での兵力1万6000人• (烈) - 師団長: - 5月時点での兵力1万6600人• (弓) - 師団長: - 5月時点での兵力1万7000人• 第15軍馬匹• 12000頭(専ら物資運搬に使役)• 30000頭(物資運搬及び食用)• 1030頭(専ら物資運搬に使役)• 、等を食用に交付 - 第15師団だけで約10000頭• (一部部隊が作戦支援) インド国民軍• 6000人 イギリス軍• () - 司令官:中将• () インパール方面 - 軍団長: ()中将• () - 師団長: ()少将• () - 師団長: ()少将• () - 師団長: ()少将• () - 旅団長:R. スコーンズ准将• 以下増援部隊• () - 師団長: ()少将• () - 師団長:• () - 旅団長:M. ホープトンプソン准将• () - 旅団長:W. クローサー WA Crowther 准将• () コヒマ方面 - 軍団長: ()中将• () - 師団長: 他 戦闘経過 日本軍の攻勢 インパール作戦時のビルマの戦況と第15軍の作戦構想 物資の不足から [ ]補給・増援がままならない中、3月8日、第15軍隷下3個師団(第15、31、33師団)を主力とする日本軍は、予定通りインパール攻略作戦を開始した。 日本軍は1個師団(第31師団)を要衝とインパールの結節点であるに進撃させ、残りの2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。 しかし作戦が順調であったのはごく初期のみで(これは連合軍側の重点防御地域でなく最初から放棄地帯とされ、防御を固めたインパールへ日本軍を仕向ける罠であった)、地帯での作戦は困難を極めた。 牟田口が補給不足打開として考案した、・・・に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した。 所々にある狭く急な坂では重砲などは分解し人力で運ぶ必要があり兵士らは消耗していった。 また3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの物資が散逸した。 このため糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を大きく消耗する結果を招いた。 物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と電文を返していたとされる。 また、この時期、日本軍に対してイギリス軍が採用した円筒陣地は、円形に構築した陣地の外周を、で防備し、日本軍に包囲されてもから補給物資を空中投下して支え、日本軍が得意とする、切り込みを完全に撃退した。 これに加え、イギリス軍は、で激しく抵抗したため、あまりの防御の頑強さに、インパール急襲を目的とした軽装備(乙装備)中心の日本軍は歯が立たず、この円筒陣地を「蜂の巣陣地」と呼んだ。 皮肉にも日本兵はイギリス軍輸送機の投下した物資(「給与」と呼ばれた)を拾って飢えを凌いだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様だった。 日本軍の攻勢に対して連合軍は、この頃までに確保しつつあったビルマでのを存分に活用して対応した。 連合軍航空部隊はイギリス軍第4軍団に近接支援を行う一方、日本軍の集結地点のほか、チンドウィン川に至る交通路を攻撃したが、雨季の到来もこうした作戦行動に影響を及ぼさなかった。 また、連合軍は米英両軍のを中心とする輸送機を動員して大量の人員や物資をインパールまで空輸したため、陸路で遮断されていたにもかかわらず補給線は辛うじて確保されていた。 戦闘開始当初は、ビルマ戦線にあった連合軍輸送機の多くはの中でもを越えて援助物資を輸送する「 ()」に使用されており、しかもウィンゲート空挺団やアラカン方面の第15軍団の支援にも駆り出され、輸送機が不足した。 苦心の末に3月中旬からハンプ越え用輸送機のうち20機を抽出してインパールへの空輸に振り向けたが、なおも不足した。 パレル飛行場が酷使による滑走路破損や日本軍のコマンド攻撃で使用不能になったため、インパールの仮設滑走路が頼みの綱であった。 その後、イギリス空軍の輸送司令部の改編が効果を上げたことで、第4軍団への補給不足は解消された。 戦線の膠着 のによる日本軍への攻撃 第15師団は4月7日にインパールの北15kmのまで到達し、第33師団は5月20日にインパールの南15kmのレッドヒルまで到達したが、連合軍の激しい反撃を受けこれ以上の進撃はできなかった。 が始まり、が伸びきる中で、空陸からイギリス軍の強力な反攻が始まると、前線では補給を断たれて飢える兵が続出。 極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつけるに至るも、死者・餓死者が大量に発生する事態に陥った。 また、飢えや戦傷で衰弱した日本兵は、に感染する者が続出し、作戦続行が困難となった。 機械化が立ち遅れて機動力が脆弱な日本軍には、年間降水量が9000mmにも達するアラカン山系で雨季の戦闘行動は、著しい損耗を強いるものであった。 しかし、牟田口は4月29日のまでにインパールを陥落させることにこだわり、• 天長節マデニインパールヲ攻略セントス。 宮崎繁三郎少将ノ指揮スル大隊ト歩兵3個大隊ヲインパール正面ニ転進セシム。 兵力ノ移動ハ捕獲シタ自動車ニヨルベシ。 と、作戦続行を前線部隊に命令した。 しかし、この頃では、各師団は多数の戦病者を後送出来ないまま本部に抱えており、増加する者と、欠乏した補給に次第に身動きが取れなくなっていた。 中には武器弾薬が尽きて交戦する部隊まで出始めた。 さらにこのような戦況をよそに、司令部が400キロも遠方のメイミョウに留まっていることに対する風当たりが次第に強くなったため、牟田口は4月20日にインダンジーまで15軍司令部を進出させた。 第31師団は「山を越えてやってくるのは一個が限度」と見ていたイギリス軍を一個師団丸ごとで急襲することに成功し(但し、31師団は戦力を抽出していたため二個連隊の戦力)、4月5日インパールの北の要衝を占領していた。 コヒマはとインパールを結ぶ街道の屈曲点に当たる要衝で、コヒマの占領は通常ならばインパールの孤立の成功を意味するはずだが、連合軍はコヒマ南西の高地に後退し、大激戦となった「 ()」(日本側呼称:コヒマ三叉路高地の戦い)において連合軍の駆逐に失敗したため、インパールへの補給路は遮断しきれず、豊富な航空輸送能力による補給も可能だったため、効果は薄かった。 実はこの時点で、最重要援蒋ルートの1つへの要衝ディマプルまで、遮る連合軍部隊が存在しない状態であったために、日本軍が前進を継続していたらディマプルは陥落していた可能性が高いと、戦後のイギリス軍の調査で結論付けたものも存在する。 ディマプルはベンガル・アッサム鉄道とコヒマ・インパールを結ぶ道路の結節点であり、そうしたところは通常、補給物資の集積所になる。 もしここを陥落させた場合、英軍は敗走を余儀なくされ、対して日本軍はしばらくの間、補給の問題を解決でき、この作戦に勝利することができたと英第14軍司令官のスリム中将らは指摘する。 戦後、この調査報告を知った牟田口中将は、反省を一転し、作戦失敗は佐藤の独断撤退によるという主張をするようになった。 他方、日本軍の補給線は伸びきっていて、前線の部隊には一粒の米、一発の弾薬も届かないような状況であった。 つまり、明らかにを超えており、日本軍はディマプル攻略どころかコヒマ維持も不可能な状態であり、たとえ強引にディマプルを攻略したとしても、そこで得られる物資が万一少なかったり、英軍の撤退がなく、戦いが長引いた場合には、敗走の運命は変わらなかったろうとする者もいる。 また、記録によれば、牟田口中将もディマプル攻略を強く要請したわけではなく、作戦開始前に佐藤中将に一度示唆し、作戦中に上官の河辺中将に一度、要請しただけであった。 河辺中将に作戦範囲でないとして断られると、なおも要請はしていないので、命令にはディマプル攻略は含まれていなかった。 よって、第31師団がディマプル攻略をしなかったとしても、その責任が佐藤中将の抗命にあったとは言えず、その命令を明示的に下さなかった牟田口にもあると言える。 日本陸軍内の抗命事件 現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、度々を進言する。 しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。 そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。 余は第三十一師団の将兵を救わんとする。 余は第十五軍を救わんとする。 軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。 さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。 いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。 これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、6月1日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため 、独断で更にフミネまで後退した。 これは第42条に反し、と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件である。 これが牟田口の逆鱗に触れて師団長を更迭されたが、もとより佐藤はを覚悟しており、で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言う。 また、第33師団長陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。 これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。 によって任命されるである師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならば有り得ない事であり、天皇の任免権を侵すものであったが、後日、この人事が問題となることは無かった。 三師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った。 日本陸軍の作戦中止及び退却 パレル近郊の伊藤山。 決死の斬り込みで奪取した陣地も、連合軍の火砲と爆撃機により瞬く間に焼き尽くされ、奪い返された。 立っているのは第10グルカライフル連隊の兵士たち。 この時期、中国軍のインド遠征軍にアメリカ軍の小部隊を加えた空挺部隊及び地上部隊がビルマ北部の日本軍の拠点であるミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し占領しており、守備隊の歩兵第114連隊や援軍として投入された第56師団と激戦を繰り広げていた()。 この他、ビルマ東部では中国軍雲南遠征軍がを渡河して日本軍の守備隊のいる拉孟や騰越を包囲しており()、インパール方面の戦線は突出していた。 、牟田口を司令官中将がインタギーに訪ねて会談。 二人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており 、作戦中止は不可避であると考えていた。 しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。 この時の状況を牟田口は、「河辺中将の真の腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。 私は最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。 私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」と防衛研修所戦史室に対して述べている。 これに対して河辺は、「牟田口軍司令官の面上には、なほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と、翌日の日記に記している。 こうして作戦中止を逡巡している間にも、弾薬や食糧の尽きた前線では飢餓や病による死者が急増した。 、作戦中止が正式に決定。 投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していた。 しかし、実情は傷病者の撤収作業にあたると言え、戦闘部隊を消耗し実質的な戦力は皆無で、事実上の壊走だった。 杖を突き、飯盒ひとつで歩く兵士たちは、「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」という、撤退の視察に乗馬姿で現れた牟田口の怒号にも虚ろな目を向けるだけで、ただ黙々と歩き続けた。 だれも自分を顧みないことを悟った牟田口は、泥まみれで悪臭を放つ兵たちを避けながら帰っていった。 7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部を集め、泣きながら次のように訓示した。 諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。 食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。 これがか。 皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。 兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは、戦いを放棄する理由にならぬ。 弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。 銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。 腕もなくなったら足で蹴れ。 足もやられたら口で噛みついて行け。 日本男子にはがあるということを忘れちゃいかん。 日本はである。 神々が守って下さる… — 第15軍司令官 牟田口廉也 退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してやに罹患した者は、次々と脱落していった。 退却路に沿って延々と続く、の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「 白骨街道」と呼ばれた。 イギリス軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。 また負傷者の野戦収容所では治療が困難となっており、助かる見込みのない者にとや小銃弾を渡して自決を迫り、出来ない者は射殺するなどしている。 悲惨な退却戦の中で、第31歩兵団長少将は、佐藤の命令で配下のを率いて殿軍を務め、少ない野砲をせわしなく移動し、優勢な火砲があるかのように見せかけるなど、巧みな後退戦術でイギリス軍の追撃を抑え続け、味方に撤退する時間をいくらか与えることに成功した。 また、宮崎は脱落した負傷者を見捨てず収容に努め多くの将兵の命を救った。 牟田口ら第15軍司令部は、指揮下の部隊の撤退に先行する形でチンドウィン川を渡って、シュエジンへと移動した。 さらに牟田口は、7月28日頃にのみを伴って司令部を離れ、さらに後方のシュエボへと向かった。 牟田口によれば、シュエボへの先行は同地にいた方面軍兵站監の高田清秀少将との撤退中の食糧補給に関する打ち合わせのためであった。 しかし、部下よりも先に後退するこの行為は将兵の強い不満を招き、河辺方面軍司令官も牟田口らを非難した。 牟田口は、その後、8月4日頃にシュエボ北西で軍主力の退路に予定されたピンレブ付近を視察。 シュエジンに戻る途中でシュエボまで後退中の第15軍司令部に出会い、合流した。 一方、イギリス軍は、第33軍団を投入して追撃戦を行った。 雨期に入っていたため、イギリス軍もマラリアなどの戦病者が多発する結果となった。 イギリス側は、追撃を強行したからこそ日本軍の再建を有効に阻止することができたと自己評価している。 8月12日、大本営は「コヒマ及びインパール周辺の日本軍部隊は 戦線を整理した」とした。 8月30日、牟田口軍司令官と河辺方面軍司令官は揃って解任され、東京へ呼び戻された。 日本軍の苦戦の様相 優位に立つ連合軍は、日本軍陣地に対し間断なく空爆と砲撃を繰り返した、兵士達は生き残るために蛸壺にずっと潜り込んでいるしかなく、反撃などは夢の又夢であった。 そのような状況下で雨季が到来すると、塹壕は水浸しになった。 塹壕構築のための資材は満足に支給される筈も無く、ありあわせの道具や素手で各自が掘った塹壕では、の設備など望むべくもなかったからである。 砲撃のため水浸しの塹壕から抜け出ることができず、ずっと水に浸かっていたため皮膚が膨れ、損壊する塹壕足となる兵士が続出、そこから様々なが広まる原因となった。 このため前線では、日英双方にやなどが蔓延し、祭師団長の中将は、重病により担架の上で指揮を執らなければならなくなった。 幕僚が病身の師団長のためにを焼かせたり、洋式便座を担いだ侍従兵を連れさせたりしたが、この様子を見た将兵の士気は下がった。 6月10日に山内中将は病気の悪化を理由に、中将と師団長職を交代するも、二ヶ月後に収容先のメイミョウで客死した。 日本軍の伝統として、補給が軽視されており、河舟・車両等機械力による大量補給は殆ど行われなかった。 偶さかそのような手段が確保されたとしても「食糧よりも武器弾薬」という方針により寸前の前線に食糧が届けられることは乏しく、糧食は集積所に放置され、どんどんしていった。 そのため、前線の兵士は「食うに糧なく、撃つに弾なし」という、もはや戦闘どころではない状態に置かれた。 ある部隊では、野砲はあっても砲弾の割り当ては、1日にたった2発だったという。 また第15師団の生存者が証言するところによれば、弾薬が尽きた部隊は、で抵抗するしかなくなっていた。 作戦テコ入れのため、弓師団に着任した少将は早速配下部隊を視察した、しかし、ある中隊長のを抜くと真っ赤にびていた。 彼は中隊長を叱責し、その場にいた全将校の軍刀の検査を行ったところ、ほぼ全員の軍刀が錆びている事が判明した。 激怒した彼は、部隊長に今すぐ部下に軍刀の錆びを落とさせるよう命じた。 しかし、誰一人として軍刀を磨き錆を落とす将校はいなかった。 連日の豪雨と泥に浸かり続ける戦場で軍刀を維持する方法は無いと分かりきっていたからである。 食料は、現地住民からとの交換により入手しようとしたが、現地は小さな村が僅かにあるだけで、部隊を賄えるだけの食料を入手するのは不可能だった。 に苦しんだ日本兵は、力尽きた味方のて飢えを凌いだ。 作家のはインパール作戦に従軍取材をし、当時のメモに「前線にを100k送ったら50kしかないと報告がきた。 兵隊が食うのである」と書き記した。 撤退中はさらに悲惨な状況となり、第31師団の兵士は補給地点が村にあると信じて、急峻な山道を選択したが、ここでに捕食されたり、弱った状態で倒れた者がに襲われたりして、動物によるを受けた (歩いている間は襲われないが倒れたらすぐに群がってきた)。 また、苦労して村に辿り着いても補給はなく、徒労に終わった。 撤退中の兵士達は、既に武器を捨てていたが、食糧が手に入った場合に備え、だけは絶対手放さなかった。 航空戦 補給・偵察・攻撃と航空機を活用した イギリス軍に対して、日本軍の航空支援は皆無だった。 「がなく航空作戦は無理」という陸軍に対して、牟田口が「それならばチンドウィン渡河まででよい」と、むしろ支援を断る結果になったためである。 しかし、作戦中補給を求めても、空返事しか返さない牟田口に業を煮やした各師団は、指揮命令系統を超えて第5飛行師団に窮状を訴えた。 第5飛行師団もそれに応じて、敵制空権下を突破して手持ちの食料・医薬品を投下したが、の武装を外しても輸送できる物資は僅かであり、焼け石に水だった。 両軍の馬匹運用 本作戦に第15師団に陸軍(尉官)として従軍した田部幸雄は、英印軍のの使用について次のように分析している。 日本軍は平地、山地を問わず軍馬に依存した。 作戦期間中の日本軍馬の平均生存日数は下記。 日本軍の軍馬で生きて再度チドウィン川を渡り攻勢発起点まで後退出来たものは数頭に過ぎなかったと言う。 :73日• 中国馬:68日• 日本馬:55日• ビルマ:43日 現地民から軍票と交換で入手した牛も山道を移動中、崖崩れで失われていった。 これに対して英印軍の場合、途中の目的地までは自動車で戦略物資を運搬し、軍馬は裸で連行した。 自動車の運用が困難な山岳地帯に入って初めて駄載に切り替えて使用していたという。 また使用していた軍馬も体格の大きなインド系の騾馬だった。 これらの騾馬は現地の気候風土に適応していた。 なお、田部はに派遣されていた頃、騾馬は駄馬としての価値を上司に報告した経験があったと言う。 結果 国の位置 本作戦は、参加した大日本帝国陸軍部隊・インド国民軍に多大な損害を出して、(19年)に中止された。 日本軍の作戦参加人数および損耗は、明確な資料がなく明らかではないが、『陸戦史集』によれば、昭和19年5月中旬、当時の大本営参謀、徳永八郎中佐がビルマ方面軍戦況視察中、インダンギーの第15軍司令部を訪ねた時の死傷発生表を入手し、この表から逆算し、当時の参加兵力は第16師団15,804名、第31師団16,666名、第33師団17,068名、軍直属部隊36,000名、計86,538名である。 その後インパール作戦に増強された人員を加算すれば、少なく見て9万人を超えると鑑定される。 の損害は、『』によれば、者が第15軍の主力3個師団で計1万1,400人、者が7,800人、行方不明者1,100人以上(計20,300人以上)にのぼり、そのほか第15師団だけで3,700人の戦病者が発生した。 第33師団においては、田中師団長の6月30日の日記には、第33師団の戦死傷7,000、戦病5,000、計12,000名と記され、すなわち師団兵力の70%を失っていた。 インド国民軍も、参加兵力6,000人のうち、チンドウィン川まで到達できたのは2,600人(要入院患者2,000人)で、その後に戦死400人、餓死および戦病死1,500人の損害を受けて壊滅した。 また、イギリス軍のスリムは、日本軍の兵力11万5,000人、戦死者6万5,000人としている [ ]。 またイギリス軍の公式戦史では、日本軍第15軍の損害を53,505名(うち戦死等30,502名)としている。 また『陸戦史集』によれば、作戦末期の残存兵力は、第15師団3,300名、第31師団6,400名、第33師団3,000名とされ、残存兵力のうちには損耗の比較的少ない後方部隊を多く含んでいるので、師団の攻撃実践力はさらに少数となり、いかに損耗が大きかったかを推測することができる。 また日本軍の場合、後送傷病兵は殆ど生きて帰ることができなかったとの証言が多く、参加人数と残存兵の差、およそ7万2,000人が作戦の死者とされることも多い。 一方、イギリス軍の人的損害は、ルイ・アレンの調査によればコヒマ・インパールより前の戦闘で920人、コヒマ周辺で4,064人、インパール周辺で1万2,603人の計約1万7,500人の戦死傷者が出た。 なお日本の公式戦史及び陸戦史集とも「スリム中将は、インパール作戦間の英第14軍の損害を、死者約15,000、傷者25,000、計40,000と称している」と記述し、『戦史叢書』はスリムの回顧録『敗北から勝利へ』による数字として、作戦期間中の英印軍の死者15,000人および戦傷者25,000人という値を挙げている。 しかし磯部卓夫の調査によると、1978年にロンドンで出版されたR-キャラハン著『第二次世界大戦の政戦略・ビルマ1942-1945』に次の記述がある。 「スリム軍の損害は16,700(うち4分の1が死者)、他方東南アジア連合軍のこの年の1月から6月までの全損害は約40,000人であった。 このキャラハンの記述が、英公式戦史とも矛盾せず正確と考えられ、インパール作戦での英軍の損害が、従来日本で言われているのと異なり、意外に少なかったことに注目願いたい [ ]、としている。 また、インパール作戦後の1944年後半のイギリス軍の損害について、ルイ・アレンは著書にてレイモンド・キャラハンの引用として、イギリス軍第33軍団は、1944年7月から11月まで日本軍を追撃したが、7月から11月まで週平均兵力8万8,500人が投入されたうち、インパール以遠で日本軍を追撃できたのほぼ半数であり、2万人を超えるマラリア患者を中心に、4万7,000人の戦病者が発生し、死傷病者は5万300人にも上り、そのうち作戦中の死者は たった49人であった。 病気になった4万7,000人の半分以上は、インドへと後方移送しなければならなかった。 メパクリン()を備えていても、マラリアの症例が2万人を超えている、と書いている。 この作戦失敗により、英印軍に対し互角の形勢にあった日本軍のビルマ=戦線は崩壊、続くではイギリス軍の攻勢の前に敗北を喫する。 翌(昭和20年)3月には、将軍率いるが連合軍側へと離反し、結果として日本軍がビルマを失陥する原因となった。 本作戦を特集した 『 』(6月13日放送)では「一将功成らずして万骨枯る 」と、この作戦をした。 戦後 戦後、インパールのあるなどのインド東北部は、隣接するなどの分離独立運動による政情不安のため、インド政府は外国人の立ち入りを規制している。 このため遺骨収集などは進まなかったが、1993年には多数の遺骨が発見され、タイ王国にある学校の敷地内にが建立される などし、には日本政府がインド政府の協力の下、インパール近郊のロトパチン村に慰霊碑を建立した。 地元住民の中には、食料と交換した軍票やなどの遺品を保管し、遺族の訪問に備えている者もいる。 2013年には、戦跡を案内する観光会社が現地に設立された。 インパールでは日本軍撤退から75周年となる6月22日、慰霊式と、日本兵の遺留品などを展示する平和資料館の開館式が実施され、駐印日本大使、日本財団の会長らが出席した。 資料館は、地元の「第二次世界大戦インパールキャンペーン財団」が展示品を集め、建設をが支援した。 インパールでは当時の戦闘を「日本戦争」と呼んでおり、巻き込まれて死亡した住民が237人いる。 資料館は八角形で約700平方メートルあり、ヘルメットや銃弾といった旧日本軍の装備など約500点を展示し 、6月29日に一般公開。 観光協会が運営する。 イギリスの ()は、インパール作戦及びコヒマの戦いをイギリス最大の作戦に票決した。 またインドの『ヒンドゥスタン・タイムズ』は6月、戦いに関する遺物保存や記念活動の取材ビデオを公開し、当事者の証言や、マニプール州の住民は多くは英軍のほうに従軍していたことなどを紹介した。 は2017年8月15日、新資料や日英双方の元兵士、地元住民の証言からなるドキュメンタリー番組『戦慄の記録 インパール』をの枠で放映した。 日本軍敗北の責任 インパール作戦の失敗後、大日本帝国陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した。 牟田口第15軍司令官も軍司令官を解任され、に編入される懲罰人事を受けた。 独断撤退を行った佐藤中将は、作戦当時「」であったと言う診断が下され、軍法会議で刑事責任を追及されることなく、やはり予備役編入とされた。 佐藤中将自身は軍法会議で撤退の是非を論じることを望んでいたが、河辺方面軍司令官は、の師団長を軍法会議にかけるには、の親裁を要することから、不祥事が重大化することを懸念して、軍法会議を回避した。 責任を問う軍法会議が開催されることで、軍法会議の場で撤退理由を始めとする、インパール作戦失敗の要因が明らかにされることと、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避したとも言われる [ ]。 河辺中将は方面軍司令官を退いたものの、翌1945年(昭和20年)3月に陸軍大将に昇進し、終戦時には司令官の要職にあった。 戦後、日本軍敗北の責任は、にあったとする評価が支配的である。 この点、は、牟田口が作戦の主唱者であった以上、責任甚大であるのは当然としたうえで、牟田口一人に罪を着せるのは不公平であると述べる。 仮に牟田口が暴走したのだとしても、これを断固として押さえつけるのが上層部の責務であって、インパール作戦の無謀の責任は、牟田口と大本営が少なくとも五分と五分 、あるいは引きずられた上司の罪を、更に重いものと見るのが公平であると評している。 は『』において、インパール作戦で杜撰な計画が実行された原因について、牟田口軍司令官や河辺方面軍司令官の個人的性格も関連しているが、より重要なのは「人情」という名の人間関係・組織内融和が優先されて、組織の合理性が削がれた点にあると指摘している。 関連人物• - 創業者。 に所属。 当作戦の従軍体験を著書や講演で語っていた。 - 緬甸方面軍作戦課長、作戦中第33軍参謀長に異動。 戦後、遺骨収集に尽力。 - 第31師団後方主任参謀。 戦後、収容所にて回顧録『その日その後』を執筆。 補給不備については悔いていた。 1947年、失意の中で謎の自殺を遂げる。 - 本作戦に従軍。 1988年よりを務めた。 の誘致において反対の姿勢をとり、中止への原動力となったが、その根本には本作戦での体験が影響している。 - 卒業後応召により本作戦に従軍。 戦後はの研究に当たり、についても実績を残す。 - 漫画家・の姉。 結婚直後に夫が応召されて本作戦に従軍、戦死した。 - プロ野球選手()。 当作戦に従軍中に戦死。 - プロ野球選手()。 当作戦に従軍し、捕虜になるも。 戦後は巨人、で活躍。 - 兄弟の漫才師、ジローは従軍中に銃弾を受け左腕を失い、右足に銃弾が残ったままの歩行障害が残った。 インパールの戦いを描いた作品• (1950年、、監督:)• (著者:) 脚注 注釈• 2つの作戦を比較と言う表現は新見政一の表現に倣った記述だが、カイロ会談ではチンドウィン川渡河作戦に関する議論も英中間で行われている。 1944年6月初頭に実施された。 会談当時は1944年5月予定だったがこれを一ヶ月延期するかが問題になっていた。 日本艦隊の動静分析については例えば2月24日、戦艦7、空母2、巡洋艦8、駆逐艦18の大部隊がシンガポールに向かっているという報告で混乱したことがある。 による部隊の後退であり、同港の修理能力やの活用をしただけという正確な分析結果もあったが、英国側は確証を持てなかった。 動機が何であれ、能力においてベンガル湾に進出可能な優勢な敵艦隊が出現したことは疑いの余地がなかったからである。 参考として1944年(昭和19年)初頭、空輸による中国への補給量は毎月13000トン前後だった。 第31師団後方担当参謀であった小口徳二の述べた見解。 ただし時代背景を考慮すれば、かなり潤沢な場合を見積もったものである。 タラク少将は、コヒマやディマプール、インパールの防備は手薄で、インパールへの食糧の集積も不十分、アラカン方面に5個師団が釘付けにされていたことを挙げ、仮にインパールへの誘致作戦を考えていたとしても、実際には何の役にも立っていないと評している。 牟田口は戦後連合軍の尋問に対して4月末に失敗を悟ったと語り、河辺は自身の日記の中で、4月中旬には失敗を悟ったと記している。 「一将功成りて万骨枯る」のもじり。 NHK 戦争証言アーカイブス. NHK. 2016年12月28日時点のよりアーカイブ。 2019年3月22日閲覧。 『戦史叢書 インパール作戦』、89-91頁;戸部(1991年)、149頁。 『戦史叢書 インパール作戦』、95-101頁;戸部(1991年)、150-152頁。 『戦史叢書 インパール作戦』、105-106頁。 『戦史叢書 インパール作戦』、106-111頁。 『戦史叢書 インパール作戦』、115頁;戸部(1991年)、157頁。 『戦史叢書 インパール作戦』、123頁。 『戦史叢書 インパール作戦』、126頁。 JACAR()Ref. C13071053700 大陸指第1776号 大陸指 案 ウ号作戦二関スル件 昭和19年1月7日(防衛省)• 新見(1984年)、432-433頁。 新見(1984年)、454-457頁。 カイロ会談、スマトラ、アンダマン両作戦については、新見(1984年)、458-467頁。 TARZAN取り下げについては、新見(1984年)、484-485頁。 アレン(1995年)中巻、178-179頁。 新見(1984年)、480頁。 レド公路とパイプラインについては、新見(1984年)、475-476、485-486頁。 防衛省防衛研究所. 2019年6月9日閲覧。 新見(1984年)、「極東戦略に関する英国首相(戦争内閣)と英国幕僚長会議の間の意見対立」。 アレン(1995年)中巻、172-174頁。 『戦史叢書 インパール作戦』、184-185頁。 NHK取材班(1993年)、72頁以降。 『戦史叢書 インパール作戦』、116頁。 『戦史叢書 インパール作戦』、189-192頁。 タラク(1978年)、218-219頁。 『陸戦史集 インパール作戦 上巻』、166-167頁。 NHK. 2017年8月12日時点のよりアーカイブ。 2019年6月9日閲覧。 アレン(1995年)中巻、70-72頁。 ロナルド・ハイファーマン著、板井文也訳「日本軍、重慶に迫る」『 Flying Tigers in China 』• スリム著、中野信夫訳『敗北から勝利へ : 英第十四軍司令官スリム中将ビルマ戦線回顧録"DEFEAT INTO VICTORY"の部分訳』1977年• 『責任なき戦場』、200頁。 『責任なき戦場』、207頁。 『責任なき戦場』、214頁。 『責任なき戦場』、206頁。 『戦史叢書 イラワジ会戦』、135-137頁。 辻田『大本営発表』(2016)、184項。 渡辺(2015年)。 2017年8月15日. の2017年9月8日時点におけるアーカイブ。 2019年3月22日閲覧。 『』朝刊2019年6月23日(国際面)2019年6月25日閲覧。 『朝日新聞』朝刊2019年6月23日(国際面)2019年6月25日閲覧。 Hindustan Times 2017年6月19日. 2017年8月16日時点のよりアーカイブ。 2019年6月9日閲覧。 伊藤(1973年)、186-187頁。 伊藤(1973年)、99頁。 伊藤(1973年)、199頁。 伊藤(1973年)、207頁。 戸部(1991年)、176-177頁。 「美倉重夫さん=反原発を訴え和歌山県日置川町長に初当選」『』1988年7月4日東京朝刊3面• 「この人=野口英世記念医学賞を受賞した日本生物科学研究所主任研究員 阪崎利一さん」『』1998年11月13日朝刊3面• 長谷川町子『うちあけ話』姉妹社、1979年10月。 [ ]作内では「した」の記載がある。 参考文献 は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2010年9月)• 「(PDF形式)」『』 、2003年。 磯部卓男『』磯部企画、1984年。 大田嘉弘『インパール作戦』ジャパンミリタリーレビュー、2009年。。 ほか『』中央公論社、1991年。。 編 『ドキュメント太平洋戦争 4 責任なき戦場』 角川書店、1993年。 同上 『太平洋戦争 日本の敗因〈4〉責任なき戦場 インパール』 角川書店〈〉、1995年。 陸戦史研究普及会編(吉川正治執筆)『陸戦史集 インパール作戦 上巻』、1969年。 陸戦史研究普及会編(吉川正治執筆)『陸戦史集 インパール作戦 下巻』原書房、1970年。 防衛庁防衛研修所戦史室 ((元ビルマ方面軍作戦参謀)執筆)『戦史叢書 インパール作戦』、1968年。 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 イラワジ会戦』朝雲新聞社、1969年。 新見政一『第二次世界大戦戦争指導史』原書房、1984年。 渡辺考『戦場で書く 火野葦平と従軍作家たち』NHK出版、2015年。 デリク・タラク 著 、小城正 訳 『ウィンゲート空挺団』早川書房、1978年。 『大本営発表』幻冬舎新書、2016年。 ルイ・アレン『ビルマ 遠い戦場』(上・中・下) 原書房、1995年。 (原書)Allen, Louis. Burma: The longest War. Dent Publishing, 1984. 関連書籍• 『インパール』 文春文庫、1975年。 丸山静雄『インパール作戦従軍記』 岩波書店〈〉、1984年。 『小説 太平洋戦争』 講談社、1965-1971年。 『インパール兵隊戦記』光人社、1984年 関連項目• インパール平和資料館 - 2019年6月開館予定。 日本財団が資金協力し、マニプール州観光協会も参画。 ()(空輸による援蒋ルート) 外部リンク• - の特設サイト。 参加した日英双方の兵士の証言、当時の日本で放送されたニュース映画が視聴できる。 - NHKのドキュメンタリー番組。 日本側の生存者、参加した元英軍兵、現地の住民へのインタビューを含む。

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札幌ジンギスカンおすすめ7選!有名店から地元民が愛する穴場格安店まで厳選紹介

ジンギスカン ど ぅ ー

札幌ジンギスカン・地元ライターおすすめの店8選!話題の有名店に老舗店も 2019. 06 札幌でジンギスカンを食べるならココ!生まれも育ちも北海道、札幌在住歴24年のライターが、札幌のジンギスカンのおすすめ店を紹介します。 生ラム、生マトン、丸く成形したロール肉に、タレに漬けた味付ジンギスカンなど…各店の技とこだわりを盛り込んだ一品をぜひ味わってみてください! ジンギスカンとは たっぷりの野菜と一緒に独特の形の鍋で、ラム(仔羊肉)やマトン(成羊肉)の肉を焼く北海道の郷土料理。 ・ラム/生後1年未満の羊肉のこと。 臭みが少なく初心者におすすめ。 ・マトン/生後2年以上の羊肉のこと。 羊肉独特の香りが楽しめます。 札幌・ジンギスカンおすすめ店 ビヤケラー札幌開拓使 【地下鉄/バスセンター前駅】 日本のビール発祥の地でジンギスカンに舌鼓を打つ 生ラムジンギスカン食べ放題90分 3,024円(税込み) 1876年に日本で初めてビールづくりが行われた開拓使麦酒醸造所。 その跡地に建つ大型複合商業施設・サッポロファクトリー内にあるのが「ビヤケラー札幌開拓使」です。 ここでは厳選の生ラムや、秘伝のタレで味付けした「醤油」「味噌」「塩」ジンギスカンをいただくことができます。 濃厚でジューシーな羊肉を、オリジナルの「ジンギスカンのタレ」でどうぞ。 そして、お供はもちろんビール! 生ビールや季節限定クラフトビールが飲める 1876年創業当時の製法を再現したクラフトビール「開拓使麦酒(ろ過)」など、11種類のビールを飲み比べることができるので、ビール好きの方におすすめです。 食前後は、サッポロファクトリーレンガ館1・2階にある「札幌開拓使麦酒醸造所・見学館」で、ビールの歴史に触れるのもまた一興です。 店内は、かつてビール樽の貯蔵庫として使われていたトンネルで、まるで明治時代にタイムトリップしたかのような独特の雰囲気が評判です。 以降30分につき200円追加 成吉思汗 だるま 本店 【地下鉄/すすきの駅】 待ってでも食べたいジンギスカンの名店 成吉思汗(ジンギスカン)1人前 918円(税込み) 札幌ジンギスカンを語る上で欠かせない名店といえば、「成吉思汗 だるま 本店」。 週末ともなると空席待ち必至の話題店です。 お肉メニューは、定番の成吉思汗をはじめ、数量限定の上肉、ヒレ肉 共に1,242円税込 、特上白 1,566円税込 4種類。 上肉とヒレ肉は早い時間に売り切れるので、注文できたあなたはとてもツイています。 ジンギスカン鍋が熱くなり、羊脂がまわったら、お肉を乗せていきましょう。 おすすめの焼き加減は、ミディアムレア。 鍋一面にお肉を並べて、焼き色が付いたら返します。 そして、お肉の色が変わったら食べごろ。 女将自らが仕込んだ秘伝のタレを付けて召し上がれ。 甘さを控えたあっさりタイプで、ご飯をもりもり食べられる味わい。 ライスをおかわりするお客さんも少なくありません。 ちなみに、程よく焼けたお肉は、すぐさま野菜の上に乗せるのがジンギスカンの流儀。 それ以上火を通さないためと、野菜に肉汁をたっぷり吸わせるため。 肉汁でトロトロになったネギも、これまた絶品です。 また、手作りの「キムチ 378円(税込み)」や、「チャンジャ 324円(税込み)」もおすすめ。 お肉と一緒に味わうと美味しさ倍増です。 旨いジンギスカンが食べられると、道内外の食通たちが集まるお店です。 ここでは、最高ランクの生ラムのみを提供。 しかも、その日使うお肉はすべて手切り。 その際、スジや余分な脂を取り除いていくという丁寧な仕事が食通たちから支持される理由です。 肉の表面に軽く焼き目が付いたら、ゴマがたっぷり入った自家製醤油タレに付けていただきましょう。 柔らかく、ジューシーな肉汁が口いっぱいに広がるはず。 一皿に赤身、ロース、ラムチョップなど、さまざまな部位が盛り合わせになっているので、それぞれの味わいを楽しんで。 また、ジンギスカンの野菜といえば、モヤシや玉ネギが定番ですが、ここではニンニクの芽、マイタケ、アスパラガスなど、季節の野菜が登場。 旬の野菜を味わえるのも嬉しいですね。 ねこ飯し 小300円・大400円(各税込み) そして、ジンギスカンと一緒に食べてもらいたいのがコレ。 あつあつのご飯に、たっぷりのかつお節と手作り醤油ダレを掛けたもの。 箸が止まらなくなります。 ほかにも、キムチとごま油を混ぜ込んだ「キムチ飯し 小300円・大400円(各税込み)」もおすすめです。 景勝園ファンからの「いつでも楽しみたい!」という声に応えて、2003年に姉妹店としてオープン。 地元客に支持されているお店の一つです。 提供するのは、肉質にとことんこだわった柔らかい生ラム肉。 そして、この上質な羊肉を引き立てるのが、1956年創業時から守られている特製タレ。 大量に使ったリンゴの甘みが口に広がりながらも、さらりとした後味で、羊肉の旨みが際立ちます。 また、テーブルに用意されているおろし玉ネギを入れると、まったく違う味わいに。 どちらのタレも羊肉によく合います。 さらに、このお店ならではの特徴は、プチトマトが付いてくること。 しかも、食べ放題です。 お口直しにいただくのもいいですが、実は焼くと甘みと旨みが濃くなり美味!プチトマトを楽しみに来店する人も多いんです。 〆には、「山小屋特製もち 432円(税込み)」をどうぞ。 意外な組み合わせですが、香ばしく焼いた餅とジンギスカンのタレ、自宅でも真似をしたくなる美味しさです。 ほかにも、鹿肉をセットにした「えぞ鹿&生ラム 1,080円(税込み)」も数量限定で提供しています。 店内は、カウンター15席のみ カウンター席のみのアットホームな雰囲気の中で、北海道名物を楽しんでみてはいかがでしょうか。 [アクセス]地下鉄南北線「すすきの駅」2番出口より徒歩約3分 [駐車場]なし ジンギスカン 羊飼いの店 『いただきます。 』 【地下鉄/すすきの駅】 希少! 北海道産サフォークを食べられる! ジンギスカン 1,058円(税込み) 最近、話題沸騰中のジンギスカン店といえば、「ジンギスカン 羊飼いの店 『いただきます。 』」です。 ここで提供するのは、直営牧場で育てた北海道産サフォーク。 国内に流通している羊肉のわずか0. 5%で、なかなか味わえません。 なので、さまざまなお店はあれど、北海道産サフォークを取り扱っているのは珍しいんです。 脂身が甘く、とても柔らかな肉質。 クセも少ないので、羊肉が苦手…という人でも食べられるほど。 なかには、肉の旨みを味わおうと、塩でいただく人もいるとか。 しかも、希少種でありながらこの価格というのも嬉しいですね。 直営牧場を持つ同店だからできる価格設定です。 ジンギスカンのほか、ロースやマエバラ、レバー、サガリなど、さまざまな部位も味わえます。 羊飼いのクッパ 680円~(税込み) 〆はこちらがおすすめ。 サフォークのスジ肉などをじっくり煮込んだスープで、さっぱりとした味わい。 お腹も心も満足する一品です。 「いただきます。 』 [住所]北海道札幌市中央区南5条西5丁目1-6 [営業時間]【月~土曜】11時30分~翌3時(L. 2時30分)【日曜・祝日・連休最終日】11時30分~23時(L. 食べ方は、鉄鍋に漬け汁ごと羊肉を乗せ、溝に落ちた漬け汁と肉汁で野菜を煮込むスタイル。 焼肉というよりは、むしろ鍋料理。 羊肉はもちろん、旨みがぎゅっとつまった汁をたっぷり吸った野菜の美味しさにも驚くはず。 モヤシ、玉ネギ、ピーマンなど野菜をモリモリ食べられるのも、松尾ジンギスカンの魅力です。 〆のうどんです。 すべての旨みエキスを吸ったアツアツのうどん。 この味を知ってしまったら、うどんなしでは物足りなくなります。 また、「札幌すすきの4・2店」のみでは、こんな〆も味わえるんです。 フィットチーネ 1名盛り 180円+税 もちもちのパスタにしみ込んだタレと、仕上げにかける粉チーズの相性はバツグンです。 とはいっても、中心部にあるジンギスカン店は夕方からの営業がほとんど。 せっかくだから、お寿司も食べたいし、カニも食べたい…。 そんなときは、ホテルや観光スポットにアクセスしやすい「札幌駅前店」と「札幌南1条店」へ。 こちらではランチタイムも営業しています。 3種類食べ比べランチセット 1,730円(税込み) 特上ラム、ラム、マトンを楽しめる贅沢なメニューなので、満足できること間違いなしです。 14時30分)【ディナー】17時~23時(L. 14時30分)【ディナー】17時~23時(L. ここでは、北海道限定の「サッポロクラシック」や、同園限定の「サッポロファイブスター」など、出来立ての生ビールとともにジンギスカンを味わえます。 ここの特徴は、個性の異なる5つのジンギスカンホールがあるところ。 初めての方は、ぜひ「ケッセルホール」へ! ケッセルホール 大正元年に造られた巨大なビール仕込み釜「ケッセル」があるホールで、北海道らしい開放感が漂います。 しかも、クセのない生ラム、道民おなじみの丸い羊肉(トラディショナルジンギスカンやロール肉と言います)、野菜を好きなだけ食べられるバイキングを実施。 専用テラスを設けた完全個室で、ワンランク上のラム肉「グレインフェッドラム」を堪能できます。 ほかにも、カニや寿司も食べられる「トロンメルホール」、最大120名まで利用できる個室を完備した「ポプラ館」もあるので、そのときの気分や用途に合わせて使い分けられるのがいいですね。 21時30分) [定休日]12月31日 [アクセス]地下鉄東豊線「東区役所前駅」4番出口より徒歩約10分 [駐車場]200台 ツキサップじんぎすかんクラブ 【地下鉄/福住駅】 ワインと一緒にジンギスカンを楽しむ ジンギスカン1人前セット 1,600円(税込み) 1953年創業以来、生マトン肉を提供している「ツキサップじんぎすかんクラブ」。 羊肉本来のコクと旨みがありながらも、クセはなく、一度食べるとやみつきになると評判です。 ここの生マトン肉は、やや赤みが残っているうちにいただきましょう。 スパイシーな後味がたまらない醤油ベースの自家製タレが食欲をそそります。 そして、このお店の特徴は、ワインの品揃えが豊富であること。 ジンギスカンといえばビールを思いうかべる人が多いと思いますが、実はワインとの相性もとってもいいんです。 リーズナブルなものからヴィンテージまで用意されている ワインセラーから好きなものを1本選ぶもよし、グラスワインで赤・白・ロゼをそれぞれ試してみるもよし。 お気に入りの組み合わせが見つかるかもしれません。 雪が降ると、一面の銀世界を眺めながらジンギスカンを味わえます。 春には満開の桜、夏は青々とした木々、秋は紅葉と、四季の美しい風景を楽しめるのも、同店の魅力です。 実際のお支払い金額に関しましては、ご利用いただく施設までお問い合わせください。

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ジンギスカン・シロー

ジンギスカン ど ぅ ー

調理中のジンギスカン ジンギスカンは、(成羊肉)や(仔羊肉)などのを用いたの料理。 に分類されることもあるが調理方法はの調理方法である。 一般的にはを代表するとされる 他、 、 など一部地域でも盛んに食される。 発祥は・の店という説もあり 、現在では各地にジンギスカン料理を出す飲食店や、家庭調理用の肉・を販売する小売店がある。 中央部が凸型になっている ジンギスカン鍋を熱して羊肉の薄切りと野菜を焼き、羊肉から出る肉汁を用いて野菜を調理しながら食す。 北海道の地方によっては、中央が凹型のジンギスカン鍋(円板状)を使用する場合もある。 使用する肉には、調味液漬け込み肉の「味付け肉」、冷蔵(チルド)肉の「生肉」、冷凍肉の「ロール肉」があり、一般的に「生」とは1度も冷凍されていない肉を示し、調味液に漬けたかどうかは問わない。 国産の生ラムなどは、近年高級肉として扱われる場合もある。 ジンギスカンの元になったとされる烤羊肉串 起源については、俗説で「かつてを率いたジンギスカン()が遠征の陣中で兵士のために作らせた」と説明される場合もある が、実際にはとはかけ離れている。 ジンギスカン料理の起源自体はにあると言われ、大日本帝国陸軍の旧(現中国東北部)への進出などを機に、前述の 烤羊肉から着想を得たものが日本人向けにアレンジされ、現在のような形式となったものとみられる。 料理の命名には諸説あり、が北海道を経由してモンゴルに渡ってジンギスカンとなったという都市伝説()から想起したものであるとも言われている。 命名した人物として、農科大学(の前身)出身で、の建国に深くかかわったが、(大正元年)から9年間の社員時代に命名したものであるとする説がある。 この説は全日本司厨士協会北海道本部相談役の日吉良一が北海道開拓経営課の塩谷正作の談話(冗談)を元に『L'art Culinaire Moderne』にに投稿した「蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」 や、駒井徳三の娘の満洲野(ますの)が(38年)に発表した「父とジンギスカン鍋」が根拠となっている が、いずれも後の伝聞によっている。 日本では時代から北海道で肉用を含めた綿羊の飼育が行われており、(7年)に軍隊、、鉄道員用の素材となる自給を目指す「緬羊百万頭計画」が立案され、滝川や札幌の月寒など全国5カ所に種羊場が開設された。 このため北海道は(大正14年)の時点で全国の42. 7%が飼育される最大の飼育地となっていた。 計画の早期実現のために羊毛のみならず羊肉をも消費させることで、農家の収入増加と、飼育頭数増加が企図され、その流れの中からジンギスカンが出現したものと考えられている。 しかし、当時の日本人には羊肉を食べる習慣がほとんどなく、日本で受け入れられる羊肉料理を開発する必要に迫られ、農商務省は東京女子高等師範学校(の前身)に料理研究を委託している。 それらを裏付けるものとして、北海道の(現・北村)で(大正9年 に北海道初の羊食会が北村飼羊組合員の間で実施されていた事、その後(大正13年)に北村緬羊組合によって『羊肉料理法』のパンフレットが発行されていた事、その中に記載された「羊肉の網焼」のレシピが後の(昭和2年)に糧友會の『羊肉料理講習会』で紹介される「鍋羊肉(成吉思汗鍋)」のレシピと類似していた事などが記録されている。 「成吉斯汗鍋」(じんぎすかんなべ)という言葉が初めて掲載されたのは(大正15年)の『素人に出来る支那料理』 で、(中国)在住の日本人が命名したもので「本当の名前は 羊烤肉と云う」とあり、当時のものは屋外で箱火鉢や鍋に薪の火をおこし、上に金網や鉄の棒を渡して羊肉をあぶり、現地の醤油をつけて食べた「原始的な料理」としている。 この説明通りであれば、当初、「鍋」は食品を加熱するためではなく、火鉢代わりに使われたことになる。 に満田百二が雑誌『糧友』に書いた「羊肉料理」という記事でも、羊肉網焼の別名の「成吉斯汗鍋」は、本名式には 烤羊肉というと書かれていて 、鍋料理ではなかったことがわかる。 かつてがあり、などに羊肉を出荷していたが発祥地とする説もある。 他にも、 や 等がそれぞれ、上記の東京や北海道のものとは発祥を異にする、独自のものとしてのジンギスカン鍋の起源を主張している。 での普及は、綿羊の飼育が(5年)に始まった 後の(昭和11年)に開催された「料理講習会」から始まる。 羊の臭みを減らして食べやすくするために、地元名産の信州を使用した特別なタレに羊肉を漬け込む。 ジンギスカン鍋が一般にまで普及したのは、後のことと言われている。 最初のジンギスカン専門店は、(昭和11年)にに開かれた「成吉思(じんぎす)荘」とされる。 北海道での営業としての最初の店は、に札幌にできた精養軒である。 にはの一つに 、にはの主催で選定されたで北海道のの一つに 選出されている。 頃から頃にはによる牛肉離れの影響に加え、牛肉と比べ脂肪分が少ないイメージからジンギスカンはブームとなった。 しかし、ブームが下火となった頃にはやからの羊肉の輸入も大きく減少し、牛肉や豚肉の価格が下がった。 羊肉は相対的に割高になり、特に国産の羊肉を使ったものは高価となったことから、北海道でもジンギスカン離れが指摘されるようになった。 一方、のにはに開業した 烤肉苑飯荘やに開業した 烤肉季飯荘などが、薄切りの羊肉と野菜を鉄鍋で焼いて作る、現在のジンギスカンに類似した料理、の「 烤羊肉」を提供している。 後にこの方式が日本に取り入れられるようになったのか、偶然似たのかは定かでない。 ジンギスカン鍋 [ ] 穴なしタイプのジンギスカン鍋(左:生肉用 右:味付け肉用) 調理には専用の鍋であるジンギスカン鍋が用いられる。 この鍋は、など、主に製で、中央部分がのように盛り上がった独特の形状をしており、その表面には溝が刻まれている。 これは盛り上がった中央部で羊肉を、低くなった外周部で野菜を焼くことによって、羊肉から染み出した肉汁が溝に沿って下へと滴り落ちて野菜の味付けとなることを意図した設計である。 1950年代当時は北海道でもジンギスカン料理そのものが一般に普及しておらず、精肉店がジンギスカン鍋を貸し出すなども行っていた。 その後、北海道の花見や運動会、海水浴などで現在の形のジンギスカンパーティーが広まっていった (「ジンパ」と略称されることもある )。 なお、鉄板 や焼き網、などで代用する場合もある。 種類 [ ] 専用鍋には主に2種類がある。 鉄・アルミ製で穴なしのものと、スリット状に穴が開けられているものである。 穴なしのものは、味付け肉でもたれが落ちない構造であり、穴あきのものは、主に・炭火焼きで行われる生肉用で余分な脂を落とす役割を持っている。 近年のジンギスカンブームにより、店舗オリジナルの鍋など様々なものが製造されている。 「専用鍋は鍋が焦げ付きやすく使用後に洗うのが面倒」「数を揃えやすく片付けも簡単」などの理由から、北海道では屋外での「ジンギスカンパーティー」等の場合を中心に、アルミ製の穴なし簡易鍋を使い捨てすることも多い。 道内では等で、100円〜500円程度の安価で販売されている。 で2015年、過去に使われた各種の専用鍋を溝口雅明教授が集めた「ジン鍋博物館」が仮オープン。 私設博物館の形態で2016年11月には正式に開館した。 その他 [ ] では、ジンギスカン鍋に専用の焼き台を用いて調理される。 東北地方のジンギスカンの定番品である。 メディアでの紹介もあり、現在は北海道でもアルミ製で鍋付きのものが販売されるようになった。 で開催される、では、を焼き台にしたジンギスカン「しばれ焼き」が名物となっている。 調理 [ ] 味付け肉以外の場合 ジンギスカン鍋・などを炭火やガスなどで下から熱し、油を引いてから、、、、のほか、、、などの季節の野菜などを(ジンギスカン鍋の場合外周部周辺に)広げ、上方でスライスされた羊肉を焼き、専用のタレに付けて食する。 野菜の上に羊肉を乗せて蒸すように焼いて食す場合もある。 味付けの場合 同様に調理し、そのまま食する。 下茹でした玉や焼きそば用の中華麺、角が加えられる場合もある。 ただし、北海道の名寄などでは煮込みジンギスカンと言い、漬け汁と野菜を肉と共に煮込むものもある。 前述のように、ジンギスカン鍋を用いる場合は凸状に盛り上がった中央部分で肉を焼き、低くなった外周部で野菜を焼く。 観光名所となっている店舗では、調理の際の油跳ね防止用のビニールもしくは紙製の専用が支給され、それを着用して食するのが一般的である。 使用肉とたれ [ ] ジンギスカンは、事前にタレ(調味液)に漬け込んだ「味付け」と、味付けではない肉を焼いてからタレにつける「後付け」に大別される。 ラム肉は味付け、後付けの両方で好まれる。 一般的な味付けジンギスカンは、肉をスライスし、タレに漬け込み、それを冷凍保存されて販売される。 また、味付けに使うたれも様々なを組み合わせて使うことで多種のものが作られている。 生ジンギスカン [ ] 成吉思汗たれ(ベル食品) 羊肉の臭みを抑えて、食味を向上させる技術は、明治時代から色々試みられており、などと同様にを使うことは大正時代までに知られていた が、改良が進んだのは昭和時代からである。 現在、タレは味付け、生ともにベースと味噌ベースのものがあり、主流は、醤油ベースである。 タレには醤油、味噌、、果汁、、、などが配合される。 市販されるジンギスカンの付けダレもと同様に多種多様存在する。 北海道ではとの醤油ベースの製品が代表的である。 また、青森県のタレメーカーが当初ジンギスカンのタレとして開発した「スタミナ源たれ」は、醤油、野菜、リンゴ、ニンニクを材料としており、現在は焼肉・など多用途に使用されている。 この節にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2017年8月) 地域によって、使用する肉の種類や事前に味付けをするか否かなど、習慣、好みが分かれる。 北海道では、などの上川地域やなどのといった道央内陸部では「味付け」、のほかやなどの道央海岸部、を中心とした道南海岸部、などの道東海岸部では「生肉」が主流だった。 この二つの食文化の境目にあたるのが、滝川市と札幌市の中間付近に位置する岩見沢市と考えられており、昭和50年代に同市で営業していた温泉宿の名前が刻印された、二つの食べ方を同時に行える「仕切り付きジンギスカン鍋」が発見されている。 また上川地区の地域や地域では独特の「豚ジン」と呼ばれる豚肉を使った味付きジンギスカンも有り、ジンギスカンは羊肉に限らないという事実も有る。 豚ジンは一般スーパーでも販売されている。 北見市は北海道としては例外的にジンギスカンよりも一般的な焼肉店が多く、市も焼肉の街としてPRするほどで、市民でジンギスカンは一般的ではない。 ジンギスカンで知られる店として、滝川市に本店を構える「松尾ジンギスカン」、岩見沢市にある「タレ付きジンギスカン発祥の店 松龍」、の「かねひろジンギスカン」、札幌市の「さっぽろジンギスカン」「だるま」などがある。 道内の観光地には、ジンギスカン料理を売りにしている所が多く有る。 多くの観光地で今も「ジンギスカン」の旗を立っているが郷土料理としての取り扱いであり地場産肉を売るという事ではない。 しかし逆に地場生産を売りにする地域もあり、士別市や滝川市など道内各地でサフォーク種などの羊を飼養して地元に食肉提供している。 観光名所となっている各園の主流も生ラムジンギスカンである。 ただし、近年では双方の地域でどちらの食べ方も浸透が進んでおり、違和感なく受け入れられている。 本州では地域別に分類することは難しい。 では「生肉」が好まれる。 地方には独自のブランドをもった味付けジンギスカンのメーカーが存在する。 北海道の他にも、ではの県北沿岸部や、、長野県、同県、の、の、、古殿町など、局地的に常食されている地域がある。 また、のやのなどでは、創業以来ジンギスカンが名物メニューとなっている。 これらの地域では、をはじめとした宴会や集会の打ち上げなどで食べられることが多い。 北海道では、アウトドアで行われる「焼肉」がすなわちジンギスカンを指す場合が多い。 また、「ジンギスカンパーティー」略して「ジンパ」の語句も生まれ、出演のののでも使用された。 頃には全国的なジンギスカンブームがあり 、関東地方などにも急速に広まった。 これは()が注目され牛肉の需要が減少し 、羊肉に多く含まれる「L(エル)-」という物質が注目されるなど 、健康需要 がその要因と言われている。 後半になると外食でのジンギスカン専門店は減少したが、スーパーなどの小売店での羊肉の扱いは安定するようになった。 北海道のジンギスカン店では羊肉しか提供していない場合が多いが、東京や、ブーム後の後発地域などのジンギスカン店ではたいてい、羊肉を食べなれない客のために牛肉なども提供していることが多い。 そのほか店によるが豚、鶏、鴨、猪、畜肉加工品、海鮮物なども出される。 近年では、北海道のビール園などでも、本州からの観光客を多く受け入れるために羊肉以外の牛肉・豚肉・鶏肉や海鮮物を提供する店が増えている。 ただし「ジンギスカン専門店」を称する場合は、ほぼ羊肉のみである。 長野県では、の一部を「信州新町ジンギスカン街道」と呼んでいる。 多くのジンギスカン料理店が並び、伝統的な漬け込んだ調味法の他にオリジナルな味付けの店など多様である。 (昭和57年)より、味の優れた「」も飼育されるようになった。 高知では、の終戦直後の時期に羊毛を刈るための羊を食肉にも用いることが推奨されていた時期があり、ジンギスカンの店が何軒も開店した時期もあったものの、一時的な流行に留まった。 脚注 [ ]• 財団法人農村開発企画委員会 2007年. 2010年4月18日閲覧。 の2012年2月3日時点におけるアーカイブ。 2012年1月31日閲覧。 探偵団がたどる ジンギスカン物語. 2003年1月8日. 2012年2月7日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年3月1日閲覧。 『読売新聞』 東京 : pp. 2013年8月10日• 探偵団がたどる ジンギスカン物語. 2003年1月9日. 2010年1月21日時点の [ ]よりアーカイブ。 2010年4月18日閲覧。 日吉良一、「蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」『L'art Culinaire Moderne』昭和36年10月号、1961年、p29、東京、全日本司厨士協会• www. city. takikawa. hokkaido. 2018年11月9日閲覧。 農林省畜産局、『本邦内地ニ於ケル緬羊の飼育』pp23-26、、東京、農林省。 山田喜平、『緬羊と其飼ひ方』、1935年、子安農園出版部。 2019年7月23日閲覧。 岩見沢市議会議員 平野義文 Official Web Site. 2019年7月23日閲覧。 山田政平、『素人に出来る支那料理』p141、1926年、東京、婦人之友社• 満田百二、「羊肉料理」『糧友』昭和6年1月号 第6巻1号 p110、東京、糧友會• 【探訪・繁盛店】ひつじや(千葉県成田市)ジンギスカン「発祥」PR『』街づくり面(2017年2月12日• 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年、447頁。 2008年3月9日, at the. (元祖ジンギスカン・シロー)• (昭和30年創業の店 ジンギスカンのあんべ)• 日吉良一、「農村食事閑談 成吉思汗料理事始」『北海道農家の友』昭和36年12月号、1961年、札幌、北海道農業改良普及協会• 北海道遺産構想推進協議会. 2010年5月26日閲覧。 財団法人農村開発企画委員会 2007年. 2010年5月26日閲覧。 490. , (), , , 2010年4月18日閲覧。 北海道経済産業新聞 2006年6月14日• 北海道新聞(2016年11月12日)2016年11月13日閲覧• 北海道ねっと. 2019年6月24日閲覧。 探偵団がたどる ジンギスカン物語. 2003年1月7日. 2010年1月26日時点の [ ]よりアーカイブ。 2010年4月19日閲覧。 永峰春樹、『緬羊の飼方』p103、、旭村、子安農園。 読売新聞 夕刊 東京 : pp. 2005年3月11日 関連項目 [ ]• - を展開• - ジンギスカンPRキャラクターとして2013年にデビュー。 - 南部地方(東部と北部・中部)の郷土料理。 - の郷土料理。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 信州新町観光協会.

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