ごんぎつね 教科書。 新美南吉 ごん狐

「ごんぎつね」がひらく、まなびの未来 ~世界で読まれる「GONGITSUNE」を 東⼤で読んでみよう〜|国語|研究会情報一覧|教科書・教材|三省堂

ごんぎつね 教科書

あらすじ [ ] 物語は村の茂平からの伝聞という形式になっている。 両親のいない小狐ごんは村へ出てきては悪戯ばかりして村人を困らせていた。 ある日ごんは兵十が川で魚を捕っているのを見つけ、兵十が捕った魚やウナギを逃がすという悪戯をしてしまう。 それから十日ほど後、兵十の母親の葬列を見たごんは、あのとき逃がしたウナギは兵十が病気の母親のために用意していたものだと悟り、後悔する。 母を失った兵十に同情したごんは、ウナギを逃がした償いのつもりで、鰯を盗んで兵十の家に投げ込む。 翌日、鰯屋に鰯泥棒と間違われて兵十が殴られていた事を知り、ごんは反省する。 それからごんは自分の力で償いをはじめる。 しかし兵十は毎日届けられる栗や松茸の意味が判らず、知り合いの加助の助言で神様のおかげだと思い込むようになってしまう。 それを聞いてごんは割に合わないとぼやきながらも届け物を続ける。 その翌日、ごんが家に忍び込んだ気配に気づいた兵十は、またいたずらに来たのだと思い、戸口を出ようとするごんを撃ってしまった。 兵十がごんに駆け寄ると土間に、栗が固めて置いてあったのが目に留まり、はじめて、栗や松茸がごんの侘びだったことに気づく。 「ごん、おまえ(おまい)だったのか。 いつも、栗をくれたのは。 」と問いかける兵十に、ごんは目を閉じたままうなずく。 兵十の手からが落ち、筒口から青い煙が出ているところで物語が終わる。 なお多くの国語の教科書では、ごんの気持ちを子供に考えさせるために省かれているが、原作では「うれしかった」と明記されている。 物語の背景 [ ] この物語の舞台であるは、南吉の出生地である。 南吉が、この物語を執筆したのは、わずか17歳(1930年)の時であった。 この物語は、彼が幼少のころに聞かされたを基に創作された。 南吉は4歳で母を亡くしており、孤独でいたずら好きな狐の話が深く影響を与えたとされている。 『ごん狐』は、元猟師の口伝として存在したオリジナルの『権狐』、新美南吉が口伝を物語にまとめた草稿の『権狐』及び、南吉の『権狐』をが子供用として編集した『ごん狐』が存在する。 国語の教材や絵本で一般に親しまれているのは『ごん狐』である。 南吉の草稿の冒頭部分によれば、口伝の伝承者は「茂助」という高齢の元猟師であり、若衆倉の前で幼少の南吉に話を伝えたとされている。 伝承者「茂助」は確認されておらず、口伝のオリジナルは失われてしまっていることから、草稿の冒頭部分も南吉の創作作品の一部ではないかという見方も存在する。 ただし、草稿の『権狐』には本職の猟師でないと知りえないような情報が含まれている。 また、口伝に登場する権は、兵十の母の葬式を見て、悪さをしなくなりました。 というところで終わり、撃たれておらず、それ以降の展開を南吉が創作したのではないかとも言われている。 鈴木三重吉が行った編集は、全国的な物語の普及を目的として、贖罪の位置づけを強調するとともに、語り手の存在感を薄めた他、場面の単純化、表現の一般化、地域性の排除など30数ヶ所にのぼり、近代の童話として大胆に手を加えられた結果、普遍的な共感をもたらす作品として完成した。 その一方で、当時の社会情勢(部落有林の国有化による猟師の廃業など)の光景や口伝的要素、地域色(方言の標準語化など)、文学的表現が失われたとされている。 例えば、鈴木は「納屋」が方言であるとして、本文中の「」を「」に修正したが、一箇所「納屋」のままになっている所がある(正確には「納屋」と「物置」は別の物を指すため、茂助が母屋の他に納屋と物置という二種類の建物を所有していると解釈できてしまう)。 ごんが目を閉じたままうなずく、有名なラストシーンの草稿は「権狐はぐったりなったまま、うれしくなりました。 」であり、登場人物の心情に立ち入った編集もされている。 新美南吉の草稿『権狐』は文学的な別作品として、より『校定新美南吉全集』第10巻に収録され、一般に公開されている。 関連事項 [ ] 小学校国語教科書の教材の定番ともいえる作品である。 、の国語教科書に採用されたのが最初である。 ついでにはの、1968年にはの、にはの、にはの、にはの、にはの、国語教科書に採用された。 また、比較的短く登場人物も少ないことから、学芸会の演目にもよく用いられる。 には製作・系列放送の「」が番組10周年記念として、を製作。 全国のホールを借りて巡業形式で上映した。 その際、母狐(声:)と死別することになった出来事も追加された。 声の出演は(ごん)、(兵十)。 この映画はテレビの本放送でも流されている。 主題歌はの「心からイエスタデイ」。 自主製作で、南吉生誕80年記念創作ミュージカル「ごんぎつね」が上演。 「ごんぎつね」には10月、新美の故郷であるからが交付された。 なお生年月日は執筆完成の1931年とされた。 関連図書 [ ]• 童話集 『新美南吉童話集』• 絵本 『ごんぎつね』(絵:)• 絵本 『ごんぎつね おはなし名作絵本 1 』(絵:)• 絵本 『ごんぎつね 日本の童話名作選』 (絵:)• 研究書 『新美南吉「ごん狐」研究』 国語教育叢書• 『「ごんぎつね」をめぐる謎』子ども・文学・教科書 府川源一郎 教育出版2000年5月 脚注 [ ]• 15 木村功著 新美南吉「権狐」論 より• 2018年1月11日中日新聞朝刊11面 外部リンク [ ]• この項目は、 に関連した です。 などしてくださる(/)。

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新美南吉 ごん狐

ごんぎつね 教科書

日本人に最も読まれている『ごんぎつね』 「栗の置き方なんてどうでもいいよ~」 夏休み明け、小学4年生の長女が早くも国語の授業にうんざりしていた。 『ごんぎつね』をしつこくやりすぎているせいである。 「ごんぎつね、やりこみ要素半端ないよ。 ごんぎつねの栗の置き方が変わってるところまで追求してるからね?」 現在50歳以下の日本人で、『ごんぎつね』(新美南吉)を読んだことがない人はほとんどいないだろう。 『ごんぎつね』は1980年以降、すべての小学校国語教科書で採用され続けている定番中の定番教材だ。 ここまで長きにわたり全教科書に掲載される教材は、ほかに類をみない。 日本人に最も読まれているという点でいえば、『こころ』や『人間失格』を超えた国民的文学作品だ。 はじめに言っておくと、現代の小学生が受ける国語の授業は、我々親世代の頃よりだいぶ進化している。 ディベートにポスターセッション、新聞づくりにガイドブック作成と、発信力を重視した幅広い取り組みがなされている。 それでも『ごんぎつね』となると、今も昔と変わらず、長い時間をかけて心情を読み解いているようだ。 とある小学校の『ごんぎつね』学習指導案では、授業時間11時間のうち半分以上の6時間が、「いたずらをするごんの気持ちを読み取る」「ごんを撃った兵十とその時のごんの気持ちを読み取る」といった「気持ちの読み取り」に充てられている。 いきおい、きつねの栗の置き方を追求するようなマニアックな授業展開とならざるをえない。 なぜこんなことになっているのか。 ごんぎつねの授業がマニアックになる理由 理由の一つは、文科省の小学校学習指導要領にある。 3・4年生の国語では、「場面の移り変わりに注意しながら,登場人物の性格や気持ちの変化、情景などについて、叙述を基に想像して読むこと」という項目がある。 なるほど『ごんぎつね』は、ここで指定されている「気持ちの変化」を「想像」するのにうってつけの短編だ。 5分程度で読める物語の中に、ごんぎつねの気持ちの起承転結がしっかりある。 しかし、しつこくきつねの気持ちを考えさせられる子供たちは大変である。 「いわしをぶんなげた時の気持ちとか栗をぎゅっとおいた時の気持ちとか聞かれるけど、そんなのその日の気分で変わる人もいるじゃん。 急いでたら投げるし、完璧主義だったらいつもぎゅっと固めるでしょ」 他人とコミュニケーションをとるうえで、一定水準以上の心情読み取り能力が必要なのはわかる。 「ごんが栗やマツタケを運んだのはなぜですか」と問われて、「性器のメタファーだから」などと答えたら、小説読解以前に社会生活が危い。 しかし栗の置き方からきつねの心情を察するのは、やりすぎに思える。 がさつな人間としては、「大きな音を立てて食器を洗ってるから、怒ってるに違いない」などといちいち忖度されてはたまらない。 異文化コミュケーションが加速している現代では、「ハートの絵文字を使ってるから気があるに違いない」などの思い込みによる悲劇も多発している。 子供たちが将来社会生活を円滑に営むためにも、「気持ちを勝手に察するのはやめよう。 きちんと言葉でコミュニケーションをとろう」と教えたほうがよいのでは? 日本の国語の授業が心情の読み取りに時間を割きすぎていることは、識者からもしばしば指摘されるところである。 国立教育政策研究所で21年間国語教育を研究してきた有元秀文氏は、「欧米の学校では、一つの教材を日本のように異常にゆっくりした読み方で扱うことはない」とし、「心情や人物像」ばかりを読み取らせようとする日本の国語教育を批判している(『まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育』)。 一般的な大人にとって必要な読解能力とは、大量のビジネス書類や時事ニュース、メール・社内チャットツール・グループウェアのやりとり、マニュアル、煩雑なお役所文書、書籍・雑誌・パンフレット等の多種多様な文章を手早く読んで、必要な情報を抽出する能力である。 学校の授業でそんな能力を身に着けておきたかった……と苦労している大人も多いのではないだろうか。 私だって、国語のテストがTOEICのようだったら、こんなに学校のプリントやら役所の通知やら仕事の資料やらでわやくちゃになることはなかっただろうと信じている。 栗の置き方? どうでもいいです! しかし、気持ちの読み取りは、栗の置き方にとどまらないのである。 「兵十を覗き見ていたときのごんぎつねの気持ちを考えろって言われても!ただのストーカーじゃん!……って思ってもそう答えるわけにはいかないし」 ごんぎつねストーカー説はいかにも小学生らしい冗談だが、あながちとんちんかんな読みともいえない。 『ごんぎつね』は新見南吉が18歳の時の作品だが、その背景を同級生との成就しなかった恋に見出す研究者もいるくらいだ。 名作はさまざまな読みの可能性を秘めている。 とはいえ国語的には、「ごんは人間に恋したフレンズなんだね」などの生々しい読解はNGである。 「ごんぎつねに手紙を書く」課題を与えられて「死んでるきつねに手紙届かなくね……?」とぼやいていたという長女の級友も、授業中にそんなことをはきはき発言したりはしないだろう。 子どもが感じた疑問点をそのまま発言させて、「亡くなった人に手紙を書く意義」について子ども同士で討論させれば、クリティカル・シンキングやディスカッションのいいお勉強になりそうだが、そんな国語の授業は聞いたことがない。 教室の中の子供たちは、いじらしいごんぎつねの気持ちを想像して共感し、その死を憐れむことを、暗黙の裡に期待されている。 それを一番よく知っているのは、当の子供たちである。

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なぜ「ごんぎつね」は定番教材になったのか―国語教師のための「ごんぎつね」入門―:鶴田 清司 著

ごんぎつね 教科書

ところが、時代の変化とともに、これらの古典的な作品は教科書から消えていった。 それに代わって、あまんきみこ、今西祐行、斎藤隆介、松谷みよ子らに代表される現代児童文学作品が多く取り上げられるようになった。 古典的な作品として残っているのは、椋鳩十の「大造じいさんとガン」、宮沢賢治の「注文の多い料理店」ぐらいである。 特に最近は、社会で生きて働く力として、論理的な思考力・表現力、実用的なコミュニケーション能力、情報活用能力などの育成が重視されるようになった。 そのあおりを受けて、童話・物語は教科書の掲載数を減らしている。 そのなかで唯一、今日まで教科書に掲載され続けているのが「ごんぎつね」なのだ。 しかも、この四〇年間はすべての教科書に掲載されている。 さらには、童話集や絵本、DVD等として今もなお出版・制作されていて、その意味では国民的な長寿作品と言える。 教材として採用されるには、教科書の編集者はもとより、教育現場である小学校の先生や子どもとその親たちからも支持されなければならない。 多くの童話が教科書から消えていくなかで、「『ごんぎつね』はなくさないで」という大きな、そして多くの声が作品を教科書にとどめてきたのである。 どこにその魅力があるのだろうか。 その秘密を探ってみようというのが本書のねらいである。 筆者は大学で小学校の教員を養成する仕事に携わっている。 講義や演習では、毎年のように「ごんぎつね」を取り上げているが、そのたびに新鮮な感動がある。 ストーリーは暗誦できるほどに覚えているが、不思議なことにいつも何かを私に語りかけてくるのである。 大学生たちも同じである。 すでに小学生のときに読んでいるにもかかわらず、その魅力や奥深さに改めて気づかされるようだ。 学校の先生方が教材研究や授業づくりに生かしていただけたら幸いである。 二〇二〇年二月 /鶴田 清司.

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