モンゴメリー クリフト。 マット・ボマー 伝説のバイセクシャルハリウッド俳優モンゴメリークリフト熱演か&ゴールデングローブ受賞『ノーマルハート』予告動画 : 海外セレブから学ぶ テストに出ない英語☆おもしろスラングリッシュ☆

モンゴメリー・クリフトの甥が描いた本人の生き様が浮かびあがるドキュメンタリー映画「Making Montgomery Clift」|@DIME アットダイム

モンゴメリー クリフト

はい、『終着駅』、これイタリア映画です。 ヴィットリオ・デ・シーカの監督です。 それでジェニファー・ジョーンズ、アメリカの女優ね。 それからもう一人、モンゴメリー・クリフト、これもアメリカの男優ですね。 この二人が出るんですね。 けど、監督はデ・シーカなんですね。 なんで、デ・シーカでこの映画やったんだろう?セルズニックが制作してるんですね、アメリカのセルズニックですね。 これは、アメリカの女がイタリーの青年と仲良くなったの、けどアメリカの女はちょとした火遊びね、やっぱりアメリカへ帰って行こうとしたのね。 そうするとこのイタリーの青年が、モンゴメリー・クリフトが、「おまえ、薄情だな、帰るのか、帰るのか」。 それでローマのステーションでその女を引きずり降ろして、パーンと殴るのね。 凄い映画なの。 つまり、イタリーの気質とアメリカの、どう言ったらいいのか、計算的な、女の感覚とがぶつかるわけね。 この映画の一番いいとこは、そのステーションの場面ね、それが凄かったのね。 デ・シーカの見事な代表作品ですね。 これを撮ったのがセルズニックなんですね。 デビット・O・セルズニックは、何でイタリーで、こんな監督で、こんな映画撮ったのか? 何でジェニファー・ジョーンズでこんなの撮ったのか? セルズニックは前々からジェニファー・ジョーンズに結婚申し込まれてたのね。 で、セルズニックも自分の嫁さんなんかどうでもいい、このジェニファー・ジョーンズの何とも知れん誘惑的な感覚にノっちゃったのね。 すっかりジェニファー・ジョーンズに参っちゃったのね。 そういうセルズニックは、あんたの好きな映画撮ってやる、それならこういう映画撮って下さい、それが『終着駅』だったのね。 見事にジェニファー・ジョーンズは、これで一躍名女優になったのね。 で、セルズニックは儲かったのね。 という訳で問題の作品ですけど、ジェニファー・ジョーンズいう人は、セルズニックをどんどん、どんどん食い込んで言ったのね。 ジェニファー・ジョーンズは、かわいい夫があったんですね。 その夫を蹴ってセルズニックと一緒になったんですね。 そうして、「あんたは、私との結婚のお祝いに何くれるの?」言ったら、セルズニックは「何でもあげる」と答えた。 そしたらジェニファーは、「『風と共に去りぬ』以上のもの作って下さい」言ったのね。 「おまえ、そんなものほしいの?」「そうよ、そうよ」と言ったのね。 それでつくったのが、ジェニファーの最高の作品でしたね。 というような訳で、ジェニファー・ジョーンズは怖い女優ですよ。 けれどもセルズニックが死んだら、とたんに人気なくなったの。 あんなに有名な女優が。 それでセルズニックの、この夫人、ジェニファー・ジョーンズはパーティーに行ってもみんなに総スカン。 それで酒ばっかりのんで、表出て酔っ払って街頭で倒れちゃったのね、この女優が。 それをトラックが引っかけて、「おっ、誰か倒れとるぞ」って見たらジェニファー・ジョーンズだったのね。 そういうね、かわいそうな過去を持ってるんですけど、私は帝国ホテルでこのジェニファー・ジョーンズに会ったんですね。 それはセルズニックと結婚して間もないころのジェニファーに会ったの。 奇麗な女優でね、もう頭から足先まで奇麗くてね、その衣服のグリーンの衣装がとっても奇麗なのね。 そいで「How are you? 」と、私と握手したのね。 その匂いのいい事、奇麗な香水の匂い。 私は家へ帰っても手を洗わなかったね、あんまりいい匂いがするんで。 そのぐらいジェニファーは奇麗でしたよ、やっぱりセルズニックが参るだけの女でしたね。 という訳で、この『終着駅』は彼女の、本当にほしかった、デ・シーカで名女優として演りたかった作品ですね。 ジェニファーの野心があふれた作品ですね。 【解説:淀川長治】.

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モンゴメリー・クリフト 〜孤独な青年の象徴〜

モンゴメリー クリフト

二卵性双生児であった。 父親が銀行の副頭取という裕福な家庭で、子供たちを貴族のように育てたいという母親の意向により、欧州などを周 遊していたが、世界大恐慌の煽りで父親の銀行が破綻し、優雅な生活は終わりを告げた。 兄と姉は進学したが、学校が嫌いなモンティはフロリダ州のアマチュア 劇団に入り、「 As Husbands Go 」 1933年) で初舞台に立った。 モンティの俳優としての資質を認めた母親の勧めでオーディションを受けて合格。 14歳の時 に、主演の舞台 「 Fly Away Home 」 1935年) でブロードウェイ・デビューを果たした。 順調にキャリアを積み重ね、演技達者な2枚目の若手俳優として注目を集めるようになった。 ハリウッドからの度重なるオファーを断り、約10年間、舞台で の活動に専念した。 (右の写真) 舞台 「 The Mother 」 1939年) にて。 アラ・ナジモヴァと ・1946年、モンティの舞台を観たにスカウトされ、漸くハリウッドに進出。 初出演作の 1948年) は公開が遅れた ため、次に出演したの 『山河遥かなり』 1948年) の方が先に公開され、同作でいきなりアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。 『赤い河』 (左)と 『山河遥かなり』 イワン・ヤンドル(左)と ・一躍ハリウッドの新星となったが、大手スタジオとの専属契約を拒み、作品を厳選して出演 した。 の 1949年)、ジョー ジ・シートン監督の 『大空輸』 1950年) に出演。 の 1950 年) への出演を辞退している。 『女相続人』 と 『大空輸』 コーネル・ボーチャーズと ・の 1951年) で、2度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。 12歳年下のとは、当時のハリウッドで、最も美しいカップルと評され、私生活においても固い友情で結ばれることとなった。 (左の写真) 『陽のあたる場所』 エリザベス・テイラーと ・エリザベス・テイラー曰く、「 モンティがもっと多くの映画に出演していたら、最大 のスターになっていたでしょう 」。 フレッド・ジンネマン監督の 1952年) への出演を辞退。 の 『私は告白する』 1953年) で、2年ぶりに銀幕に姿を現した。 (右の写真) 『私は告白する』 と 同年には、の 『終着駅』、フレッド・ジンネマン監督の 1953年) も 公開され、『地上より〜』で、3度目のオスカー候補にもなった。 尚、ジョージ・スティーヴンス監督の 1953 年) への出演は辞退している。 『終着駅』と 『地上より永遠に』 と ・1954年、『王妃デシレ』 等、ハ リウッド映画のオファーを断り、出演料が遥かに安いオフ・ブロードウェイで、チェーホフ作の 「かもめ」 に出演。 ハリウッドでは異端児と見なされるようになった。 (左の写真) 舞台 「かもめ」にて。 ジュディス・イヴリンと ・30代から慢性の大腸炎を患い、薬を服用していたという。 そんなことも影響したのか、 「かもめ」 に出演した後、舞台や映画から遠ざかってしまった。 復帰させたのはエリザベス・テイラーだった。 エドワード・ドミトリク監督の 『愛情の花咲く樹』 (1957年) での共演者にモンティを指名した。 1956年5月、約2年ものブランクを経て撮影に臨んでいたモンティは、エリザベス・テイラー宅でのパーティーからの帰路、自動車事故を起こしてしまっ た。 飲酒の上での居眠り運転だったとされている。 事故車の中から彼を救出したのは、急報を受けて駆けつけたエリザベス・テイラーだった。 咽喉に詰まっていた折れた歯を取り出し、窒息から救ったという。 モンティは顔面骨折の大怪我を負い、整形手術と2ヶ月間のリハビリを経て撮影に復帰したが、顔の一部の神経が麻痺して動かなくなっていたという。 (右の写真) 『愛情の花咲く樹』 エリザベス・テイラーと ・当時、モンティの好敵手と見なされていたのが。 2人とも著名な演技指 導者から 「メソッド演技法」 の手ほどきを受けており、同郷 ネブラスカ州オマハ生) でもあった。 エドワード・ドミトリク監督の 『若き獅子たち』 1958年) では共演もしたが、一緒のシーンはなかった。 『孤独の旅路』 1958年) と 『若き獅子たち』 リー・ヴァン・クリーフ(左)、 (中央)と ・の 『去年の夏、突然に』 1959年)、の 『荒れ狂う河』 1960年)に 出演。 事故後は痛み止めの薬も服用するようになり、撮影に支障をきたすこともあったという。 ドラッグとアルコールにより心身ともに蝕まれていったとされて いる。 『去年の夏、突然に』 (左)、 エリザベス・テイラー(右)と 『荒れ狂う河』 リー・レミックと ・の 『荒馬と女』 1961年) に出演。 やはりドラッグ中毒であったが、「 私 より 薬の服用が) ひどい人に初めて会った 」 と語ったという。 それでも演技にかける情熱は失わず、の 『ニュールンベルグ裁判 』 1961年) にはノーギャラで出演し、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。 トラブル・メーカーとの評判が立ってしまい、ハリウッドから声が掛からなくなり、ラジオやTVに出演。 4年ぶりの劇場用映画となる仏・独合作の 『ザ・スパイ』 1966年) に出演したが、作品が公開される前に亡くなってしまった。 モンティはニューヨークの自宅にいた。 午前1時過 ぎ、付き人の看護師から、その夜にTV放映された 『荒馬と女』 を観たか尋ねられたモンティは、「 まったく観ていないよ Absolutely not 」 と答えたという。 これが最後の会話となった。 朝、看護師が起こしに行くと、ドアには鍵が掛けられ、返事がない。 心配した看護師が庭から梯子で2階の部屋へ 入ると、ベッドの上で既に亡くなっていたという。 死因は心臓発作。 享年 45歳だった。 モンゴメリー・クリフト トリビュート動画。 ナレータはエリザベス・テイラー.

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モンゴメリー・クリフト (今週のスター)

モンゴメリー クリフト

はい、『終着駅』、これイタリア映画です。 ヴィットリオ・デ・シーカの監督です。 それでジェニファー・ジョーンズ、アメリカの女優ね。 それからもう一人、モンゴメリー・クリフト、これもアメリカの男優ですね。 この二人が出るんですね。 けど、監督はデ・シーカなんですね。 なんで、デ・シーカでこの映画やったんだろう?セルズニックが制作してるんですね、アメリカのセルズニックですね。 これは、アメリカの女がイタリーの青年と仲良くなったの、けどアメリカの女はちょとした火遊びね、やっぱりアメリカへ帰って行こうとしたのね。 そうするとこのイタリーの青年が、モンゴメリー・クリフトが、「おまえ、薄情だな、帰るのか、帰るのか」。 それでローマのステーションでその女を引きずり降ろして、パーンと殴るのね。 凄い映画なの。 つまり、イタリーの気質とアメリカの、どう言ったらいいのか、計算的な、女の感覚とがぶつかるわけね。 この映画の一番いいとこは、そのステーションの場面ね、それが凄かったのね。 デ・シーカの見事な代表作品ですね。 これを撮ったのがセルズニックなんですね。 デビット・O・セルズニックは、何でイタリーで、こんな監督で、こんな映画撮ったのか? 何でジェニファー・ジョーンズでこんなの撮ったのか? セルズニックは前々からジェニファー・ジョーンズに結婚申し込まれてたのね。 で、セルズニックも自分の嫁さんなんかどうでもいい、このジェニファー・ジョーンズの何とも知れん誘惑的な感覚にノっちゃったのね。 すっかりジェニファー・ジョーンズに参っちゃったのね。 そういうセルズニックは、あんたの好きな映画撮ってやる、それならこういう映画撮って下さい、それが『終着駅』だったのね。 見事にジェニファー・ジョーンズは、これで一躍名女優になったのね。 で、セルズニックは儲かったのね。 という訳で問題の作品ですけど、ジェニファー・ジョーンズいう人は、セルズニックをどんどん、どんどん食い込んで言ったのね。 ジェニファー・ジョーンズは、かわいい夫があったんですね。 その夫を蹴ってセルズニックと一緒になったんですね。 そうして、「あんたは、私との結婚のお祝いに何くれるの?」言ったら、セルズニックは「何でもあげる」と答えた。 そしたらジェニファーは、「『風と共に去りぬ』以上のもの作って下さい」言ったのね。 「おまえ、そんなものほしいの?」「そうよ、そうよ」と言ったのね。 それでつくったのが、ジェニファーの最高の作品でしたね。 というような訳で、ジェニファー・ジョーンズは怖い女優ですよ。 けれどもセルズニックが死んだら、とたんに人気なくなったの。 あんなに有名な女優が。 それでセルズニックの、この夫人、ジェニファー・ジョーンズはパーティーに行ってもみんなに総スカン。 それで酒ばっかりのんで、表出て酔っ払って街頭で倒れちゃったのね、この女優が。 それをトラックが引っかけて、「おっ、誰か倒れとるぞ」って見たらジェニファー・ジョーンズだったのね。 そういうね、かわいそうな過去を持ってるんですけど、私は帝国ホテルでこのジェニファー・ジョーンズに会ったんですね。 それはセルズニックと結婚して間もないころのジェニファーに会ったの。 奇麗な女優でね、もう頭から足先まで奇麗くてね、その衣服のグリーンの衣装がとっても奇麗なのね。 そいで「How are you? 」と、私と握手したのね。 その匂いのいい事、奇麗な香水の匂い。 私は家へ帰っても手を洗わなかったね、あんまりいい匂いがするんで。 そのぐらいジェニファーは奇麗でしたよ、やっぱりセルズニックが参るだけの女でしたね。 という訳で、この『終着駅』は彼女の、本当にほしかった、デ・シーカで名女優として演りたかった作品ですね。 ジェニファーの野心があふれた作品ですね。 【解説:淀川長治】.

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