ダイナマイト 発明 者。 ダイナマイトで富を得たアルフレッド・ノーベルは、死後の評価を気にしてノーベル賞を作った?

ダイナマイトはアルフレッドノーベルの発明です

ダイナマイト 発明 者

1 19. 2 19. 3 一八四六年にイタリアの化学者ソブレロ教授 (一八一二〜一八八八)は、強い爆発力をもつ新しい物質を発見し、それはすぐに多くの用途で火薬にとってかわることになった。 新物質はニトログリセリンとよばれ、油のようなどろどろした液体で、大変に爆発しやすく、思いがけないときに爆発をおこす。 発見者ソブレロはこの性質があることを知っていて、この油を工業上の用途に使ってはあぶないという警告を出した。 けれども、後になって、ニトログリセリンのわりあい安全な使い方が発見され、石切場や鉱山で岩石を爆破するのに使われるようになった。 1 ダイナマイト発見の伝説と真相 ずっと前から爆薬に関心をもっていたエマヌエル・ノーペルは、一八六〇年に、ストックホルムの近くに、ニトログリセリンをつくる工場を開くことにきめた。 二人の息子がこの冒険的事業か手つだった。 不幸なことに事業はひどく悲劇的なスタートを切った。 工場が開かれてまもなく、液体が爆発し工場を粉々にくだき、多くの職工を殺した。 その中にノーベルの息子も一人含まれていた。 けれども生き残った息子アルフレッドに助けられて、ノーベルは事業を再スタートし、すぐに工場はニトログリセリンをまた商業的規模で生産するようになった。 この液体はゆすぶると爆発することがあるので、運搬が大変困難だった。 けれどもニトログリセリンには、金属と反応する不純物が含まれていたので、時おりブリキ缶に小さな穴があくことがあった。 後になって、おがくずのかわりにケイソウ土とよばれる物質が使われるようになった。 これは向い粉のような物質で、大昔陸が海の底にあったころ、ごく小さな海の生物 (ケイソウ)の死がいがふりつもってできたものだ。 ハンブルクの近くにあったノーベルの工場のそばに、ケイソウ土の大きな鉱床が埋もれていた。 ケイソウ土は掘りだすのが容易なので、箱のつめものとしてやすくふんだんに使うことができた。 物語によれば、この物質が使われだしてからまもなく、荷造りを解いていた職工がおもしろいことに気づいた。 つまり、ニトログリセリンがかんからもれていたのに、箱の外には全くしみ出なかった。 全部ケイソウ土に吸収されてしまったのだ。 アルフレッド・ノーベルがこれをきいたとき、ケイソウ土をつめものよりもっとうまいことに使うアイディアが心にひらめいた。 彼はすぐさまそのアイディアをアストした。 実験り結果、ケイソウ土が多孔質なため、自分の目方の約三倍ものニトログリセリン液を吸収するが、それだけ吸収してもほんの少ししめるだけだということがわかった。 しかしまた、このニトログリセリンでしめったケイソウ土のかたまりは、ただの液体とはいくらか性質がちがっていることもわかった。 最も重要なちがいは衝撃に感じないことだった。 だからそれはゆすぶられても爆発しなかった。 実際それは戸外でもやしてさえ、爆発しなかった。 しかしそれにもかかわらず、爆発信管を使って起爆すると、はげしく爆発した。 ノーベルはこれをダイナマイトと名づけた。 この物語は有名でよく語られるが、じつはノーベル自身が話したダイナマイト発見のいきさつとは合わない。 彼は液体を吸収するような物質をみつけようとして、計画的に実験をすすめたという。 おがくず、木炭、レンガの粉、その他多孔質の物質をいろいろ試みたが、まるで成功しなかった。 つぎにケイソウ土をためしたところ、この目的にいちばんうってつけの物質だということがわかった。 2 爆薬への恐怖 新しい爆薬ダイナマイトはすぐに、鉱山、トンネル、道路を建設するため、石切場で岩石を爆破するため、その他多くの目的に (金庫のとびらを吹きとばして中身をそっくり頂戴するのもその一つだ)たくさん使われるようになった。 そのためにはダイナマイトの糊のような性質が特に好都合だった。 けれども、ニトログリセリンがダイナマイトのような安全な形で送り出されるようになったとはいえ、輸送上の困難はなお長年にわたって消えなかった。 鉄道会社がダイナマイトの輸送を拒否したこともあり、そのとき、鉱山や石切場から派遣された「鉄の神経をもったセールスマンたち」は、ダイナマイトを「手回り品」としてトランクの中へつめたり、「ガラスにつき取扱注意」とラベルを貼った箱につめてはこんだといわれる。 また「陶器、こわれ物注意」と書いてホテルの見本室においたり、ベッドの下の穴倉にかくしたりした。 ノーベルは多くの国にニトログリセリン工場を建設しようとつとめたが、はじめのうちはうまくいかなかった。 「彼は自分の発明に対し金融上の後援を得るためにパリにいった。 彼はフランスの銀行家たちに、『私は地球を吹きとばしてしまうような油をもっている』と話した。 けれども銀行家たちは、自分たちの関心は地球を今のままにしておくほうにあると考えた。 ニューヨークに行ったとき、彼の荷物はダイナマイトをつめた数個のトランクだった。 彼はよくいった。 どのホテルも自分を入れてくれなかったし、ニューヨークっ子たちはまるでノーベルがポケットの中に伝染病をしのばせているみたいに、彼を避けたものだった、と。 しかしともかく結局は、ノーベルはフランスでも、ほかのたいていの国でも、工場を設立することに成功した。 とくに、一八七五年に次にのべる発見をしてからは、万事すらすらいった。 この年、ニトログリセリンで実験をしているとき、ノーベルは指を切ったので、傷口にコロジオンという液をぬった。 コロジオンはそのころ傷によく使われたもので、ぬってから何分もたたないうちに固まって一種の皮になり、傷口をおおってきたないものがつくのを防いだ。 (日本でも水バンソウコウとよばれて使われた。 ) 指にこの「新しい皮」をつけたままノーベルは実験をつづけたが、たまたまニトログリセリンを少しこぼし、その一部がコロジオンの上におちた。 おどろいたことに、コロジオンの姿が変化した。 彼はすぐれた科学者だったから、こんな予期しないできごとをさらに研究せずに見のがすはずはなかった。 そこで彼はコロジオンを使っていくつかおもしろい実験を行なった。 実験の間に彼は、こまかく分けたコロジオンをニトログリセリンとともに熱すると、ガムに似た物質ができることに気がついた。 ついでこのすきとおった、ゼリー状のガムは、ダイナマイトよりさらに強力な爆薬だということを発見した。 ノーベルはこの新しい物質の製造をはじめ、ダイナマイトガムと名づけたが、後になって、ダイナマイトそのものと混同されるのを避けるため、爆破ゼラチンという名をつけた。 だから、「爆破ゼラチンは人の指の上で生まれたので、試験管の中で生まれたのではない」という説はまちがいではないようだ。 3 独得の平和思想とノーベル賞 ノーベルの友人の一人、ズットナー男爵夫人 (オーストリアの伯爵家に生まれ、若いころほんの一時ノーベルの秘書をつとめ、ノーベルは彼女に求婚したがことわられたといういきさつがある。 一九〇五年度ノーベル平和賞を受賞)は『あなたの武器を下に置け』という題の本を書き、この本は平和主義者たちの間で大変人気があった。 彼女はノーベルに、戦争を廃止しようとする自分の努力を助けさせようとつとめ、ノーベルも彼女の考え方に大いに共鳴した。 しかしノーベルは、すべての国家に戦争のおろかさをさとらせるにはどんな方法がいちばんよいかという点で、彼女と意見がちがっていた。 彼はいう。 「私は何もかも荒廃させてしまうほどおそろしい力をもつ物質か機械をつくって、それによって戦争が完全に不可能になってしまえばよいと思う。 「私の工場はあなたの会議よりもさきに戦争を終わらせるかもしれない。 いつの日か、二つの軍隊が一秒のうちに互いに相手を抹殺することができるようになったら、すべての国は恐怖のあまり戦争に背を向け、軍隊を解散するだろう。 」 おもしろいことに、それから五十年あまりたって、そのような兵器「水素爆弾」が発明されたとき、ノーベルが予言したように、多くの人々が、将来大きな争いがおこったら恐るべき荒廃がおこるだろうと感じて、恐怖のあまり戦争から背を向けた。 その感情を表現したのはほかでもない、アメリカ合衆国大統領で、第二次世界大戦の連合軍総司令官たったアイゼンハワー氏だった。 彼は一九五九年八月三十一日にこう放送した。 「私たちが平和について語るときは、現在何をさしおいてもしなければならないことを語っているのだ。 」 けれどもノーベルは、そのような予言をするだけでなく、それよりはるかに大きく平和に貢献した。 なぜなら、彼は数百万ポンドにも達する巨大な遺産の大部分を、人類の幸福のために使うことにきめたからだ。 その金は、常備軍の廃止または兵力の縮小をめざし努力することにより、または平和に関する会議を激励することにより、または他の面で人類に大きな奉仕をすることにより、一般的平和と諸国家間の友好の観念を推進することに大いに貢献した人に、賞金をさずけるために使われることになった。 ノーベルは一八九六年に死に、ノーベル賞基金は一九〇一年に設立された。 その年以来、毎年この基金から、それぞれ数千ポンドに値する賞金が、国籍と性別を問わずすぐれた人々にさずけられている。 はじめの計画に従って、一つの賞 (平和賞)は、ノルウェー国会の選出により、その前一年間に平和を推進するため最も貢献した人にあたえられる。 他の賞は、スウェーデン科学アカデミーの助言に基づき、それぞれ生理・医学、化学、物理学、文学の各分野でずばぬけた業績をあげた人におくられる。 (一九六九年からノーベル経済学賞が新設された。 H・E・パウリ『アルフレッド・ノーベル』(一九四七)。 ****************************************.

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ダイナマイト

ダイナマイト 発明 者

アルフレッド・ノーベルが、ダイナマイトを発表した。 1867年アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得し、1867年07月14日にダイナマイトを発表した。 1871年、珪藻土を活用し、より安全となった爆薬をダイナマイト Dynamite と名づけ生産を開始した。 50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになった。 このダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。 その遺産を、ノーベル賞創設に使った。 ニトログリセリンは、目的通りに爆発させることが難しいという欠点があったので、アルフレッド・ベルンハルド・ノーベルは起爆装置を開発した。 その起爆装置で、1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功し、1863年にはスウェーデンで特許を得て、1865年には雷管を設計した。 アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル自身も死にかけ、怪我をした。 この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。 ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。 そして、1866年、不安定なニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明した。 1867年07月14日にダイナマイトを発表した後、何人の人がダイナマイトが原因で死んだのだろう。 」と言って、これを辞退した。 このときは候補に挙がっていたことを知ってあらかじめ辞退の書簡をノーベル賞委員会に送付していたが、書簡の到着が遅れたためノーベル賞受賞決定後に辞退することとなった。 彼は、自発的に辞退する最初のノーベル賞受賞者であった。 2012-11-30---デズモンド・ツツ大僧正、EUはノーベル平和賞を受賞する価値無し! 2012-11-05---国際平和団体は、ノーベル平和賞が違法と訴えた! 2012-02-27---2012年のノーベル平和賞に対する231人の候補者。 1895-11-27---ノーベル賞を作ることにサインした。 1867-07-14---アルフレッド・ノーベルが、ダイナマイトを発表した。

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世紀の大発明!ノーベルの遺産、ダイナマイトとは何か

ダイナマイト 発明 者

アルフレッド・ノーベル ノーベルがダイナマイトを発明した当初、その目的は戦争の道具ではなかった。 彼は 建設・土木の作業用の爆薬として、ダイナマイトを発明したのだ。 トンネルの掘削などの際にダイナマイトは活躍し、実に手早く安全に工事作業を進められる道具として広く需要があった。 ノーベルのダイナマイト発明の経緯 ダイナマイトのなにが優れていたかというと、実はその安全性である。 爆弾が安全? どういうこと? となるところだが、簡単にいうと「爆弾を扱いやすくした」わけだ。 ダイナマイトのもととなる 爆薬「ニトログリセリン」は、 少しの振動で爆発してしまうデリケートな性質をもっており、製造や使用する過程での 爆発事故が絶えなかった。 そこでノーベルが目を付けたのが、ニトログリセリンの輸送用の箱に敷き詰められた 「珪藻土(けいそうど)」だ。 水分の吸収に優れた 珪藻土に液体ニトログリセリンを吸わせれば、振動に強くなり、安全性が高まることを彼は発見したのである。 ダイナマイトを製造するのもイヤだろうが、自国が負けて大変な思いをするのもイヤだからな…。 複雑だ…。 当時は、ダイナマイトを作った彼に 「死の商人」という異名まで付けられた。 兄のリュドビックが亡くなった際には、ノーベルが亡くなったと勘違いされ、 まるで吉報を知らせるかのように「死の商人死す」という見出しが新聞の一面を飾る始末…。 これを見たノーベルは、自分が世間からどういう目で見られているのか、また自分の発明が世界に与えてしまった影響を実感することになる。 爆薬を開発したというのは、 戦争の手助けをしているのと同義だと捉えられていたのだ。 自身は戦争での利用に反対してたにも関わらずこの扱い…どれほど心苦しかったことだろう。 なお、ノーベル自身もダイナマイトを発明したとき 「ひょっとしてこれは、戦争で利用されるんじゃないか?」と予測をしていたそうだ。 いざフタを開けてみるとその通りで、 彼はダイナマイトの製造を続けながらも、より早い戦争の終結を望んでいたという。 世界平和を祈る気持ちからノーベル賞を設立 やはり望まない形で得た富で豊かになるというのは本意ではなかったのだろう。 晩年、自身の死期を悟ったノーベルはこんな遺言を残す。 「自分が遺したお金は良い有価証券に投資し、それで儲けたお金を使って、 世界のために何か立派なことをしてくれた、もしくはモノをつくった人のために使ってほしい」 この遺言をもとに、 1895年に「」が設立された。 1901年の第一回授賞式より、 世界に多大な貢献をした人物に、ノーベルの財産を運用した利益が「賞」として与えられることとなったのだ。 複数の賞の中に 「平和賞」が設けられているノーベル賞。 これは ノーベルの平和を願う気持ちの表れともいえるだろう。 ノーベル物理学賞• ノーベル化学賞• ノーベル生理学・医学賞• ノーベル文学賞• ノーベル平和賞• ノーベル経済学賞 しかし、このうち ノーベル経済学賞だけは、ノーベル財団によって「ノーベル賞ではない」と公言されている。 どういうことかというと、ノーベル経済学賞は、スウェーデン国立銀行の設立300周年を祝って制定されたものなのだ。 賞が設立されたのも1968年である、他の部門より何十年もあとの話。 賞金もノーベルの財産ではなく、スウェーデン国立銀行が用意したものが贈られる。 つまり 「経済学の分野で功績を残した人も、同じように表彰されるべきだ」というスウェーデン国立銀行の計らいがあっての賞なのだ。 経済界で働く人たちだからこそ、その分野で功績を残すことの素晴らしさもわかるということだろう。 合板 ノーベルの父である イマヌエルもまた、優秀な建築家で発明家だった。 何を隠そう、ホームセンターで普通に見かける 「合板(ごうはん)」という建築資材を発明したのは彼である。 イマヌエルには、 戦艦を爆発で沈める兵器「機雷(きらい)」を大量に製造したエピソードもある。 実際に爆発物を作っている父からノーベルは教えを受けていたのだ。 この機雷は1853~1856年のクミリア戦争で主に利用され、イマヌエルはかなりの収益を上げた。 スウェーデンに住む家族を出先のロシアに呼び寄せ、裕福な暮らしをしていたというぞ。 息子のノーベルにも複数の家庭教師をつけ、いわば英才教育を施していたそう。 彼がのちに天才と呼ばれるようになったのは、父親の影響によるところも大きいのだ。 スポンサーリンク.

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